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1話

 自分のタンブラーには熱いブラックコーヒー。いれたての素晴らしい芳香が鼻腔をくすぐる。日曜日の朝にふさわしい素敵な香りだ。  テーブルの自分の席に置いてから、向かい側の席にもう一つ湯気ののぼるマグを置き、その上に蓋をする。中身は半透明の赤い液体――角砂糖を一ついれたアールグレイだ。  わたしはコーヒー党で、彼は紅茶党。わたしはコーヒーにしろ紅茶にしろ砂糖もミルクも入れないほうで、彼のほうはだいたいそれらを入れるというところまで反対だった。  コーヒーと紅茶がさめないうちにと、ダイニングキッチンを出て隣の部屋に向かった。  彼とルームシェアして借りたこの部屋は、2LDKというファミリー向けの物件だ。  これがたとえば恋人同士とかなら寝室を一緒にして1LDKもありえたのだろうけど、わたしたちには個室が必要だったし、互いにそんな気はまったくないにしろ、寝室も別のほうがいいという考えで一致していた。  彼の部屋の扉を叩く。 「ハルカ、紅茶入れたよ」  そう声をかけると、やや間があってから、いまいく、と間延びした声がかえってきた。  わたしはダイニングに戻った。席について一足先にコーヒーを飲み始めると、ハルカが部屋から出て来た。 「……おはよう」  そう声をかけたものの、ハルカはまだ半分ほど頭が起きていないようで、あー、とだけ答えた。  色素の薄い、茶色の髪が派手に寝癖をつけている。  ――そんなありさまでも、彼の美形っぷりは損なわれていないのだから、なんだか関心を通り越して呆れてしまう。  色白で、ちょっと目が大きめで、唇の形がきれい。鼻の形も整っている。眉の下のくぼみがもう少し深かったら、あるいは鼻がもう少し高かったら――外国人に見られるような顔だ。  ハルカはテーブルの向こう側にどさりと腰を下ろし、ありがとー、と間延びした声で言ってマグカップを手に取った。長い指がマグカップの持ち手を握っている。決して小さくはないはずのマグカップが、ハルカが持つと小さなものに見える。  その小さく見えるマグカップの柄も、白に赤いハートが描かれたもので、なんとなくコメディのワンシーンみたいに思えてくる。 「提出、終わった?」 「……ん、ひとまずは」  ハルカはこっくりとうなずいて見せた。  フリーのウェブデザイナーであるハルカは、ほとんど家に引きこもって仕事をしている。ここ最近も時間的にキツい依頼があるとかで、特に部屋からほとんど出てこなかった。  実際ハルカの生活はほとんどが健康的とはとてもいえない。しかも家の中というので着ているものもお世辞にもオシャレとは言えないしろもの。――まともにすればファッション誌のモデルだってつとまるような男なのに、いまはよれよれの白いTシャツにだぼっとした明るいグレーのスウェットパンツだ。しかもTシャツの柄は幼稚園児がクレヨンで描いたようなピンクの花の柄。  ……だというのに、それすらハルカの見た目の良さを損なっていないのだ。  椅子にだらしなく座る体がちょっと窮屈そうに見えるのは、手足が長くすらりとした長身のせい。無駄な肉もついておらず、かといってムキムキの筋肉質というわけでもなく。  ハルカに向き合って座ってるわたしといえば、休日でも黒のTシャツにグレーのロングスカート。まったく意図したものではないのだが、コーヒーと紅茶のように、ハルカと真逆だった。  熱い紅茶を飲んでいくうち、ハルカの意識はようやく覚醒に向かったようだ。ぱっちりした目が開き、わたしを見る。 「昼ご飯、食べた?」 「まだ。つくろうか?」 「いや、いいよ。ここのとこアキラにつくってもらってばかりだったから。なんか頼もう。俺が払う」  一応遠慮してみたものの、普段はちょっと優柔不断なくらいに優しいハルカが強く主張したので、結局おごってもらうことにした。  つくったといっても簡単なものだし、ハルカは大らかな舌をしているらしく、つくったものに文句を言ったことが一度もない。でもまあ、ルームシェアである以上、すべての家事は分担か個別。ハルカの気持ちはありがたく受け取ることにする。  スマホで適当にピザのデリバリーを頼んで、届くまでコーヒーと紅茶を飲みながらぼんやり待つ。  ハルカといるとき、沈黙はあまり苦にならなかった。わたしは気を遣ったり愛想を振りまいたりする必要がなく、ハルカも無理に喋らなくていいので気楽だ。  ――でも、いまの沈黙にはかすかな違和感があった。  物思いに耽っていたが、ふいに目を上げた。するとハルカと目が合った。  別にそれ自体は不思議なことじゃない。  だが――ハルカは、なにか物言いたげな顔をしているように見えた。 「なに?」 「……あー、いや」  なんでもない、とちょっと気まずそうに言って目を逸らしてしまう。  なんだろうと思ったけれど、深く詮索しないことがお互いのルールだったので、そのときはそれで終わった。 『今日、遅くなる。夕飯いらないから、先食べてて』  ハルカからそんなメールが届いたのは、会社で昼休憩にトイレに立ったとき、スマホを何気なく見たときだった。  了解、と短く返事を打つ。  昨日、切羽詰まった依頼が終わったばかりだから、数日は息抜きに出るのだろう。  ハルカは日頃ほとんど家に引きこもって仕事をしているが、かわりに外に出るときは結構あちこちふらふらしている。泊まりになることもあった。だいたいはどこかのバーに入ったりして、その時その時気の合う人と飲むというのだった。当然、なりゆきで一夜をともに過ごすということにもなる。  そのまま恋人関係になることもあれば、一夜で終わるということもあるようだ。  ハルカは繊細で優しい青年だが、そのあたりは比較的ドライだ。浮気しているわけではないし、あくまでわたしの感覚からすると頻繁に感じられるというだけで、あれぐらいが普通なのかもしれない。  ――そう考えると、なぜハルカとわたしがルームシェアできているのかが不思議だ。  出会いは偶然。わたしが珍しくはじめて入ったバーで出会ったのがハルカだった。  さまざまな意味で、わたしとハルカは反対だった。コーヒーと紅茶。あるいは青と赤みたいに。 「振られたんですよぉ。もお、信じられない!」  昼時の休憩室に戻って弁当組で雑談する中、後輩がそう言って唇を尖らせた。 「……丸山さんが振られたの? 振ったのではなく?」 「悔しいことに振られたほうです! っていうか、なんですか笹岡先輩! 私が男を振ってばかりの魔性の女みたいじゃないですかー!」  もうやだあ、と言う声はひどく高く甘ったるい。  丸山アケミは明るすぎず暗すぎない絶妙な色合いの長い髪をしっかりとコテで巻き、注意されないぎりぎりのところでジェルネイルをし、品良く見える小ぶりのピアスもするという課でもトップのオシャレ女子だ。ナチュラルメイクに見えてさりげなく強調された目、艶のたっぷり乗った薄ピンクの唇など、女性としての魅力をふりまくよう念入りに計算されている。いっそ関心してしまうほどだ。  このいかにもな態度なせいで周りから反感を買っているが、付き合ってみると意外に裏表がなく、悪い子じゃなかったりする。ただ、自分に正直なだけなのだろう。  とはいえ、わたしもこの子の教育係を任せられなかったら、初対面の印象もそのままに遠巻きにしていただろう。  丸山さんにとって、笹岡アキラ――わたしのような、化粧っ気もなく、一切染めていない、短い黒髪をした人間はそもそも競うべき女性(、、、、)として見られていないに違いない。  わたしは装飾皆無のアルミ弁当を、丸山さんはファンシーなピンク色の弁当箱だ。――わたしのまわりにはやたらピンクや赤を好む人が多いな、とたまにげんなりする。 「ところでぇ、笹岡先輩、あのすっごくイケメンな親戚さんはお元気ですかぁ?」  柄の先に兎がついたピンクのフォークで卵焼きをつつきつつ、丸岡は言った。うかがうようにこちらを見てくる。  わたしはそっけなく、元気だよ、と答えた。 「いいですよねぇ、笹岡先輩。帰ったらあのイケメンがいるなんて。私もあんなイケメンの親戚欲しかったなぁ」  わたしはそれには答えなかった。  ――実際、ハルカはわたしの親戚でもなんでもなく真実他人なのだが、わたしが生物学上女で、ハルカが生物学上男であり、二人が一緒に暮らしているとなるとどうしても邪推されてしまう。いちいち説明するのも面倒だから、親戚ということにしていた。 「先輩先輩、あのイケメンさんっていまフリーなんですか?」 「……相変わらずフリーランスだよ」 「んもう、とぼけないでくださいよ! 彼女、いるんですか?」  わたしは内心ではんぶん呆れ、もう半分でちょっと苦笑いした。振られたという話をしたばかりなのにたくましい子だ。  面倒なので、 「いるみたいだよ」  と、短く答えた。  ハルカに“彼女”はいない。でも、パートナーはいる。しばしば変わるけれども。  ぶー、と丸山さんがむくれる。それからちょっと疑うような目を向けてきた。 「まさか……笹岡先輩だったりしないですよね?」 「ないない」 「でもぉ、同棲じゃないですかあ! そのうちいきなり結婚なんてしたら恨みますからねっ!」  丸山さんはちょっと真剣だった。何十回と様々な人間から異口同音に言われた内容だったので、わたしは思わず噴き出してしまった。  ――わたしとハルカが結婚?  ないない、とまた笑いながら答えた。  その意味をいちいち他人に説明する日は、きっと来ないだろう。  ――ハルカはゲイなのだ。  数日後の夜、帰宅したわたしを豪勢な手料理が迎えてくれた。わたしは思わず驚いてしまった。 「どうしたの、こんなに?」 「……いや、ここんとこアキラに代わってもらってたからさ」  気恥ずかしそうにハルカが言う。  彼は料理が趣味で、かなりの腕前だった。わたしはハルカの料理が好きだった。  気にしないでいいよと言いながらも、ハルカのこういうところが好ましいと思う。基本的に家事は分担制で順番が決まっているが、ハルカの仕事が切羽詰まっていたのでわたしが代わったのを気にしていたらしい。やや気にしすぎなくらい、気を遣う人だ。  わたしとハルカのルームシェアがうまくいっているのは、たぶんこのあたりにも理由があるのだろう。  ハルカと一緒に、夕食のテーブルについた。――こんなふうに夕飯をとるのは久しぶりだなと思った。  料理はどれもおいしくて、夢中になって食べた。しみじみと美味しさに浸っていると、ふいに、丸山さんのいいなぁという声が耳奥に蘇った。 『まさか……笹岡先輩だったりしないですよね?』  そんな言葉まで思い出して、なんとなくそろりとハルカを見た。  ハルカも夕飯を真剣に平らげている。自分のつくった料理だけに、味を一つ一つ確かめているかのようだ。 『そのうちいきなり結婚なんてしたら恨みますからねっ!』  冗談のような、本気のような後輩の声。  ないない、と笑って答えた。嘘ではない。  ――わたしは結婚しないと決めている。できる気もしない。  ハルカがゲイであると同様――わたしは異性に恋愛感情を抱いたことがなかった。  学生の頃、何度か男性と付き合ってみたことはある。けれどどれも、わたしが“冷めすぎている”という根本的な理由があって別れた。  それほど冷めているわけではないし、男性が嫌いというわけではない。  ただ、どうも認識が異なるようだった。  彼らの求める女らしさ(、、、、)というのは、わたしにはわからない。むしろ、それを求められると苦痛さえ覚える。  ――女性性というものを強く求められて困惑したり苦痛を覚えたりするとき、いつも脳裏によぎるのは母の顔だった。  目を怒らせた母の――その、赤い赤い唇だった。クリムゾンレッドとでも言い表すような、真っ赤な口紅を塗った母の口。強烈に女であることを主張し、わたしに怒りを吐き出す口。 『あんたはどうしてそうなの!!』  母はいつも、わたしに女らしくあることを求めた。アキラという名前すら、本当はいやで、もっと女らしい(、、、、)名前にしたかったとのことだった。父がどうしてもというからそのときばかり折れたらしかった。  スカートを履きなさい、明るい色の服を着なさい、髪は伸ばしなさい、化粧をしなさい、彼氏は紹介しなさい――エトセトラエトセトラ。  大学に入って親元を離れてからようやく解放された。社会人になってからは電話がたびたび来るが、それも数ヶ月に一度出るだけであとは放置でいられる。  電話の内容はいつも同じ。 『いつ結婚するの?』  女ならば結婚して当たり前。家庭をつくって当たり前。  ――母は、わたしのことを何もわかっていない。だが、もう理解してもらおうとも思わなくなっていた。  母に限ったことではない。周りの人間も、当然そういった目で見る。そういった人々に、自分のことをいちいち説明するわけにもいかないし、理解も得られないだろう。  ただただ面倒だし、わずらわしい。  ――けれど、もしも。  もしも、形だけでもいい、誰かと結婚することになれば。  目が、ハルカに自然と吸い寄せられていく。サーモンサラダを口に運んでいる様子。  同性愛者であるからなのか、それとも元からの気質なのか、ハルカには不思議な透明感があった。整った顔立ちの男でありながら、ぎらぎらした感じがない。性欲や野心といったものを感じさせず、よく気がつくし神経が細やかだ。美しいもの、可愛らしいものが好きで、女性性のようなものが、わたしよりよほど強いと思う。  けれど、ハルカは別に女性に生まれたかったというわけではないという。女性に生まれて男性と普通に恋愛したかったとか、そういう類のものではない。  ハルカはただ――ハルカという生まれながらの男として、同性が恋愛対象になるというだけなのだ。  ふと、ハルカが視線に気づいたように顔をあげた。 「どした?」 「……なんでもない」  わたしは少し慌てて言って、目を伏せた。頬が少し熱かった。  馬鹿なことを考えてしまった。  ――ハルカと結婚したら、などと。  誰とも恋愛できないわたしと、異性を恋愛対象にできないハルカ。お互いに少し似ているし、家族にも言えないような互いの性質のことをよほど理解しあえていると思う。  そして他人から見れば、わたしたちはきっと彼氏彼女(、、、、)という関係に近い。  たとえ形だけのものであっても――むしろ互いの社会上の体面のためにも、結婚という形をとれたら。  そんなふうに思ってしまった。でもそれはわたしの身勝手な都合にすぎず、ハルカの都合を無視している。 (……いまのままでいい)  強く、そう思う。互いに干渉せず、ほどよく気を遣うルームシェア。血のつながりはなくとも、よほど互いを理解している関係。  この心地よさを壊したくない。いつまで続けられるかなんてわからないけれど、終わりのことなんて考えたくはなかった。
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