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就職してから二年が経ったゴールデンウィーク明けのある日、香奈子と僕の共通の友人からスマートフォンにメッセージが入った。
――香奈子ちゃんが会社を退職して、こっちに戻ってきているらしいぞ。
東京に行ってからの携帯電話番号は知らなかったけれど、SNSで調べたら香奈子の連絡先はすぐに分かった。
自分でも「未練がましいなぁ」と思いながら、香奈子にメッセージを送ったら、三〇分もしない内に既読マークが付いて返事が返ってきた。
それは以前と変わらない短文気味なメッセージで。「会えるかな?」と訪ねたら「いいわよ」と返ってきたので、僕らは二年ぶりに繁華街のカフェで会うことにした。
「あ、和樹くん」
「久し振り。元気だった?」
現れたのは、大人びた服装に身を包んだ、東京帰りの女性だった。
「うん、まぁね。そっちは? 元気だった?」
「う〜ん。……まぁまぁ、かな?」
そう言う香奈子の瞳はどこか虚ろで、余り元気そうではなかった。そもそも、そんなに元気だったら、仕事を辞めてこっちに戻っても来ないのだろうが。
「会社辞めたんだってね? ――東京の」
カフェで僕がアイスコーヒーを片手にそう尋ねると、香奈子はハーブティーのカップに手を添えながらコクリと頷いた。
「うん、ちょっと体を壊してね」
「そっか。東京、……大変そうだもんね」
僕が努めて他意を含めないようにあっさり言うと、君は少し苦笑いを浮かべた。
「ちょっと、私には水が合わなかったかな?」
「そっか。香奈子で無理なら、僕は始めっから無理そうだね」
冗談っぽく言うと、香奈子は頬を緩めた。
「そんなこと無いよ、和樹くんはしっかりしてるもん。――それに、男性だしね。なんだかんだで、なんとかなるもんだよ」
東京から帰ってきた君の、一つ一つの言葉には汚れと染みが滲んでいた。
そこに大学時代、君が持っていた凛とした佇まいは無かった。
「今はどうしてるの?」
「私? う〜ん、しばらくは療養期間かなぁ。今は実家にいる感じ」
「家事手伝い?」
「え、和樹くん、ちょっとその言い方は悪意無い? 普通に療養と、次に向けた準備だよ。ちょっと資格試験の勉強とかも考えてる」
「そっか。じゃあ、しばらくはこっちに居るんだ」
「うん、そうだね。居るよ?」
「……じゃあ、――また、会えるかな?」
一呼吸置いて、僕が思い切って吐き出した言葉に、君は少し間を置いてから、大きく頷いた。
「良いわよ。また、会いましょう?」
東京から帰ってきた君は、何だか疲れ果てていて、何かを知りすぎていて、何かに変わってしまっていた。そして、どこか心のバランスを失ってしまっているようだった。でも、――それでも、それは僕の好きな君だった。
二年半、結局忘れることの出来なかった、香奈子だった。
僕たちはそれから週末には時々、会うようになった。彼女は仕事に就いていなかったから、僕の休日に合わせて出てきてくれた。
最初のうちは近況報告と気分転換くらいのもので、カフェでお茶をしたり、ご飯を一緒に食べるくらいだったけれど、徐々にそれはデートと呼べる類のものに変わっていった。
そして、また、夏がやって来る頃に、僕らは正式に付き合いだした。
三年近い空白を挟んで、僕らは再び恋人同士になったのだ。
今度は結婚を前提として。
「これ可愛いね」
そう言って香奈子が覗き込んだショーケースに視線を落とす。
冬が近づいた頃、僕らはいつものように映画を見てから、繁華街のデパートに立ち寄っていた。
なんだか、同じようなことがあったなぁ、なんて昔の事を思い出す。
学生時代はお金が無くて、君に指輪を買ってあげることが出来なかった。だから婚約指輪にはきっと君に似合う宝石を買ってあげようと、ずっと思っていたのだ。
今の僕たちは結婚を前提に付き合っている。だから今日、君に婚約指輪を買ったとしても、それは何も不思議なことじゃないんだ。
僕たちがショーケースを覗き込んでいると、販売員さんが「そちらの指輪、綺麗でしょう? 人気なんですよ。お出ししましょうか?」などと声を掛けてくる。
隣の香奈子の方を見ると、嬉しそうな顔をしているので、僕は「お願いします」と販売員さんに返した。
販売員さんが「こちらでしょうか?」と確認し、香奈子が「あ、はいそれです」と応じる。販売員さんはショーケースの鍵を開けて一つの指輪を取り出して、香奈子の手を取った。そして、香奈子の左薬指へとその指輪が試みにはめられた。
「どう、和樹くん。似合うかしら?」
妖艶に笑う君の指の付け根には、赤いルビーの指輪が輝いていた。
情熱的で、華やかな色合い。
「うん。綺麗だよ」
僕がそう言うと、君は照れたように笑う。
「気に入った?」
「うん。これが良い」
君はそう言って、左手の指を開いて斜め上に翳して見せた。
僕と香奈子は赤いルビーの指輪を約束の証として、今日、婚約する。
大講義室に一人で座る姿を見たときから、僕は香奈子のことがずっと好きだった。
だから――、隣で嬉しそうに笑い、赤いルビーの婚約指輪を眺める君のことをこれからもずっと幸せにしたいと、心の底から思うのだ。
でも、本当のことを言えば、僕は君にあの青いサファイアの指輪を買ってあげたかった。三年生の時に、このデパートで見つけた思い出の指輪。
白いケースの中で一際上品で落ち着いた存在として慎ましやかに輝いていた青い煌めき。
でも、あの時の君はもう、どこにも居ない。
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