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魚眼
「わかった。君はそうしたいんだね」
それが決定打だった。
同棲をして半年。いよいよ結婚を意識して、これからの二人の生活の様々なことを話し合うところまできていた。
微かに感じていた違和感から必死に目をそらし、めんどくさいと気持ちに蓋をして、沈黙を金だと考えてただ頷いていた。
「でね。子供を作る作らない以前に、お互い検査をした方がいいと思うのよ。うちの親戚が――なんだけど、不妊で揉めて離婚問題に発展したから」
「…………それ、やんないとダメか」
抵抗があった。アレは愛し合う行為ではなく生殖行為だという当たり前が、今更のように感じられて、胃のあたりが重く感じられた。
ただしたい。それだけなのに、なんで子供ができるのだろうか。
ある種の理不尽。当たり前の筈なのだろうけど、オレはそのことを理不尽だと感じてしまう。
「駄目だよ。君のお母さんからも、孫をせかされているんだ」
いらついた。
オレの険しい顔に気づいた彼女――美鶴は、暗い目をしてオレをみた。
彼女は基本的に口ごたえしない。従順で心地よい距離を取り、オレのことを大切にしてくれる。
けど、今回ばかりは彼女は引く気配がなかった。
「オフクロのことなんて無視しろよ。オレたちの話なんだから」
「そう、私と君の話だよ。だから、話し合おうよ」
いやだ。と、大声で拒否したかった。
見えない鎖が全身にまきついて身動きが取れない焦り。
自分の息の根が止まりそうな息苦しさ。
どうして、そこまでしないといけないのかという怒り。
不機嫌なオレの気持ちに察して、彼女は黙り込む。
「…………」
その暗い瞳。
言いようのない嫌悪感。
反論することを諦めて、心のシャッターを一気に下ろす。
まるで魚のように虚ろな目で、見え隠れする、オレに対する失望と軽蔑。
彼女はその時、珍しくため息をついた。
ふぅと息をつき、赤い口紅をつけた唇が蝶のように舞ってオレに言う。
「わかった。君はそうしたいんだね」
それが最近、彼女がよく使う言い回し。
オレの意見に理解を示しつつも、共感していないという意思表示。
見つめ返す魚瞳が、最低なオレの姿を映して、オレがどういう人間なのかを訴える。
「まったく、一方的に婚約破棄するなんて、美鶴さんのどこが不満だったのよっ! あんないいお嬢さん、他にいないわよっ!!!」
「うっせいな、もう全部終わったことだろ」
「終わってないわよ。あぁ、もうっ。これから、式の招待するはずだった親戚にどう説明すればいいのよぉ」
泣き喚く母におもうことは、哀れよりも、ただひたすらめんどくさいという気持ちだけ。
「全部、オレのせいにすればいいだろう」
「バカっ! そんなこと言ったら、「あなたをここまで育ててきた私たち」のせいだってことでしょうがっ! せめて、彼女が嫌いになった理由をひねり出しなさいよっ!」
「あー。わかったよ。めんどくさいなぁっ」
めんどくさい。
ただひたすら。
これから、いちいち
美鶴を嫌いな理由を考えて説明しないといけないこと。
あの魚のような眼が嫌い?
いいや、解放された今はもう、それほどでもない。
そういえばと、美鶴は言った。
「好きの反対は無関心だよ」と。
だとしたら、オレはもう、彼女が嫌いですらないのだ。
ふと鏡を見る。
そこには、死んだ魚の眼をしたオレが立っている。
【了】
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