ひとつの物語

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
ひとり一冊、長編でも短編でも良いので仕上げること。夏休みの宿題が書かれた紙にそのようなことが書かれていた。自由課題と書かれたそれは出さなくても良いとされるもの。しかし何か一冊仕上げることで成績が上がるのなら書く意味がある。国語は嫌いじゃないが成績は良くない。たぶん普段の授業態度が悪いのだろう。思うように伸びない成績を前に少し真面目に授業を受けなければいけないかと考えていたところにこの吉報だ。何か書いて提出するだけで良い成績になるのならと、夏休みが始まる前の日曜日、机に向かっていた。今まで小説なんて書いたことがない私が、書けるわけがないのを思い知ったのは机に向かってから5時間後。お腹が空いてからだ。 近くのコンビニで鳥の唐揚げとコーラを購入し、また机に向かいながら昼ご飯を食べる。休みの日の定番だ。いつもと変わらないご飯を食べながら、いつもとは違うことに頭を悩ませる。ただ問題を解くのとは違うこれは、私にはハードルが高いようだ。 唐揚げをひとつつまみ、何を書けば良いのか考える。真っ白な原稿用紙が私を嘲笑うかのようで、ぐしゃぐしゃに握りつぶしたくなった。何を書けば良いのか見当もつかない。読者を想定すれば良いのだろうかと思ったが、夏休みの宿題だ、見るのはどうせ担任だけ。そうすると担任に向けた小説ということか。国語教師である担任は真面目を絵に描いたような人間だ。なぜ、教師になったのだろう。普段から生徒に厳しく、血も涙もないようなあの人間が、なぜ教育者に。 そうだ、担任を主人公に小説を書こう。担任が中学のときに出会った恩師に感銘を受け、同じ道を志すというものだ。ありふれた筋書きだが、いかにも教師が好きそうな題材じゃないだろうか。 まずこの少女が感銘を受けるシーン。やはり、個を認めてもらうシーンじゃないだろうか。埋没された自分の良いところを、自分でも気付かなかった長所を認めてもらえるとこ。あの担任の良いところを考えてみて、そういや字が綺麗だなと思った。私にはどう足掻いても書けない綺麗な字。国語の教師になったのも納得の字だ。ひとり真面目に日直をしているところに、恩師である国語教師がやってきて、字が綺麗だとほめる。ふだんのノートも自分なりに上手にまとめられているし、将来教員が向いているよ、みたいなことを言われる。まだ中学生の少女は感銘を受け、それじゃあと教員を目指す。少女にとって、理由はそれだけで十分だろう。なんせまだ中学生だ。挫折なんかは高校以降味わえば良い。 そうと決まればあとは書くだけ。唐揚げをもうひとつつまみ、原稿用紙に向き合う。真っ白だった原稿用紙が少しずつ黒に染まっていく。 書き始めると意外と楽しいもので、筆が止まらないとはこのことかと少しわくわくしながら書いていた。赤いラベルのコーラは中身がどんどん減っていき、透明な容器だけになっていた。 ---そうだ、将来教師になろう。少女はそう決意をした。 最後の締めの言葉を書き殴り、真っ黒になった原稿用紙に満足する。綺麗な字を書く少女が主人公だとは思えない字の汚さに顔を顰めるが、今は関係ない。書いて提出すれば良いだけなのだから。 いつ間にか赤く空が染まっていた。唐揚げも最後のひとつだ。玄関から誰かが帰ってくる気配はない。普段と違うことをしても普段と変わらない毎日が待っている。この少女が感銘を受けたように、私もいつか恩師に出会えるのだろうか。書いていて思ったのは、この少女はとても心が綺麗だ。ふたりでやる日直を、全てひとりでしていても、文句ひとつ垂れない。ただ個性的な性格にすると話がややこしくなると思っただけなのだが。 あと1時間もすれば家の人が帰ってくる。それまでに風呂に入らなければいけない。心が綺麗な少女を思い出しながら、この少女のようになれば私も誰かに愛されるだろうかと思いを巡らした。 担任を主人公にしていたことなど、すっかり忘れて物語の中の少女に想いを馳せた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!