platinum(プラチナ)

1/4
1348人が本棚に入れています
本棚に追加
/4
 「彼女に子供が出来た――。」  口を開きかけた葵を遮るように、坂本はそう言った。  金曜の夜、オフィス街にある賑やかなカフェ。奥の席に向かい合って座った彼の口から、最後通告のように響いたその言葉。  葵は、何も言えずに黙って席を立った。  「すまない、許してくれ葵。すまない…。」  坂本は俯いたまま、ただそう繰り返していた。結局彼は最後まで、真っ直ぐに葵を見ることなかった。  さよならも言えないまま、葵は彼に背を向けた。  外の冷たい空気に、思わず肩を竦める。12月も半ばを過ぎて、街並みはクリスマス一色だ。煌びやかな電飾に彩られた街路樹を見上げることもなく、葵はただ、黙々と歩いていた。  どれくらい歩いただろう。ふと気づくと、懐かしい見覚えのある通り。以前通っていた店のある辺りだった。新宿二丁目にほど近い小さなバー。路地の奥にある小さなその店は、派手な繁華街の中にありながら、隠れ家のような優しい店だった。  好きになるのはいつも男で、完全にゲイだという自覚はあるのに、そういうエリアに足を踏み込む勇気がない。そんな葵には、この店はちょうど居心地が良かった。客層は場所がら微妙なところだが、誰も何も詮索しない、けれどどこか共犯者のような、同族めいた雰囲気の客達が集まる店。一人で飲んでいても、落ち着ける店だった。坂本と付き合うようになってから、この店からも自然と足が遠のいていたけれど。  中に入ると、前と同じ内装、バーテンも変わっていない。まだ早い時間帯だが、もう客は結構入っていた。  「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」  カウンターについた葵に、まだ若いそのバーテンは、静かに微笑んで言った。  「よく覚えてたね」  この店にはもう何年も来ていない。少し驚いて言った葵に、彼はただ黙って微笑んでいた。そうだった、葵よりもまだ若いだろう彼は、穏やかで無口で、それがこの店の雰囲気を、ひとりでも落ち着ける居心地のよいものにしていたのだ。  「ウォッカを…、ボトルでくれないか。氷も水も要らない」  葵の注文に、バーテンは少し眉を上げたが、黙って新しいボトルの封を切り、ショットグラスと共に、葵の前に置いた。  てっとり早く、酔っ払ってしまいたかった。ずいぶん乱暴な飲み方だが、これくらい飲まないと正気を失えない。酒を飲むことを楽しむ余裕なんてなかった。ただ、何も考えたくないから飲むのだ。  賑やかなまわりの客達をよそに、葵は一人、カウンターの端で酒を流しこんでいた。  「強いのね。一人?」  振り向くと、いまどきのファッションなのか、真冬にノースリーブのニット、ラメの入った短いスカート、金髪に近い色の髪をした女が立っていた。化粧が濃くて年齢がわからない。  葵は、表情を変えずに女を一瞥すると、黙ってカウンターに向き直る。まるでそこには、誰も立っていなかったかのように。  完全に自分を無視した男に、媚びたような笑みを浮かべていた女の形相が、ガラリと変わる。  「何よ、酔っ払い!」  捨てぜりふを吐いて、女がカウンターを離れていく。  「申し訳ありません」  バーテンがすまなそうに声を掛ける。  「いや。なんか、客層変わったね」  嫌みのつもりではなく、ふと周りに目を遣ってみて気づいた。なんだか女性客やカップルの姿が目につく。夜が更けるにつれて、客もどんどん増えてきた。金曜とはいえ、そんなに混み合うような店ではなかったはずだ。   「SNSの影響力って凄いですね。こんな店でも勝手に拡散されていくようです」  得意げというよりは、不本意そうな様子でバーテンが答える。  「ああ、なるほど」  「そのうち、落ち着くと思います」  彼は申し訳なさそうに、微笑んだ。しかしすぐに他の客に呼ばれ離れていく。  小さな知る人ぞ知る店ほど、物珍しいのかちょっとしたきっかけでSNSなどで広まってしまう。そうなると女性客や、新しもの好きの一見が増える。落ち着いた雰囲気を好む常連は嫌がるだろう。まして、外れとはいえここは二丁目にある店なのだ。最近はそういう後ろ暗い雰囲気が薄れつつあるということか…。いい時代になったというべきなのだろうが。  葵は、苦々しい思いでグラスの液体を流し込んだ。  すっと、隣のスツールに男が腰掛ける気配がする。入ってきたばかりなのか、男の運んできた外の冷気が、一瞬頬を撫でる。葵は無意識にそちらに顔を向けていた。  「冷たいんだな」  煙草に火を点けながら、男は知人に話し掛けるような何気ない調子で言った。  (見ていたのか――。)  葵は、むっとして男を睨み付けた。地味だが仕立てのいい高級そうなスーツ、髪型も普通で派手なところはどこにもないが、整った男っぽい顔立ちと漂う雰囲気が、どこか野生の肉食獣を思わせる。黙って立っているだけで、人を威嚇するような強い圧迫感。  人間でもよく、肉食だ草食だとよくタイプ分けをされることがる。実際の食べ物の嗜好ではなく、性格や生き方のタイプとして。それで言えば葵は典型的な草食獣だ。  こういうタイプは苦手だった。  「こう見えても、筋金入りのゲイなもので」  わざと偽悪的に言い返した。とっとと席を立って行って欲しい。  地味でまじめな公務員。市役所に勤める葵は、勤勉で人当たりのいい好青年で、同性愛者であることなどおくびにも出さずに生活してきた。でも今はそんなことも、もうどうでもよかった。  「なるほど。御同輩というわけだ」  男は、にやりと笑ってみせた。  意外な答えに、思わず葵は、彼をまじまじと見つめていた。背の高い整った容姿も、自信に溢れた雰囲気も、女にモテて困ったことはあっても、不自由はしそうにない。なにより、葵の知っているゲイの男達とは匂いが違った。 怪訝な葵の視線に、男は苦笑いして続ける。  「んー、というかバイということで」  なんだ、適当に話を合わせているだけかと、葵は目線を戻す。その場限りのいいかげんな会話と馴れ馴れしい態度。ナンパで自信過剰で、恋愛をゲーム感覚で楽しむ人種。ストレートでもゲイでも、対象が違うだけでやってることは一緒だ。  バイだなんて格好いいつもりかも知れないが、節操がないだけだと葵は思う。  今まで、向こうから葵に近づいてくる男は、なぜかこういう手合いが多かった。けれど嫌いなタイプにばかりモテても意味がない。葵が好きになるのはいつも、誠実で、優しくてまじめで、不器用なタイプ。一生変わらずそばにいてくれるような――。  「ばかばかしい」  思わず、小さく呟いていた。  「え?」  男が聞き返してきたが、無視はしてグラスを空ける。  「すごいの飲んでるな。まさかそれ今日一日でそこまで空けた訳じゃないだろ?」  もうほとんど空に近い状態の葵のボトルを、顎で指して言った。  「悪い?」  男のほうを見もせずに答える。体は確かに酔っているが、意識はまだはっきりしている。  「ロシア人でもぶっ倒れそうな量だな。ちゃんと歩けるのか?」  心配しているというより、面白がっているような口調。いちいち葵のかんに触る。  「ご心配なく。祖父がロシア人なんでね」  さらりと真っ赤な嘘をいう葵に、男がうなずいた。  「ああ、そういえば」  口から出任せの葵の言葉を真に受けて、男は素直に納得しているようだった。  その様子に、葵は思わず吹き出した。少しは、酔いが廻ってきたようだ。  「何だ、嘘かよ」  「当たり前だろ。見てわかるだろう、普通」  自覚がないのか、当然のように葵は言う。確かに彼は、日本的な顔立ちで、肌の色は白い方だが目も髪も黒い。けれど、何かしら人と違う、異国の血を引いていると言われたら、そうかもしれないと思わせる、そんな雰囲気を持っていた。男が信じてしまったのも無理のないことだった。  葵は、最後の一杯を空けると、勘定を済ませて立ち上がった。その拍子に少し足元をふらつかせた葵を支えようと、男が手を伸ばす。  「危なっかしいな。送ってくよ」  「結構」  葵は男の手を振り払うと、さっさと店をでた。コートを受け取るのを忘れたが、構わず歩き出す。酔いが廻っているせいか、全く寒くなかった。刺すような冷たい空気が却って気持ちいい。そういえば朝、天気予報で今夜は真冬なみの冷え込みだと言っていた。  まだ電車のある時間帯だったが、葵はタクシーを拾うと、家とは逆方向の河川沿い、広い堤防のあるところまで走らせる。  「ほんとにここで、いいんですか?」  運転手は訝しげな顔で訊いた。人気のない夜の河川敷、近くに人家など見当たらない。  「いいんだ。酔い覚ましにここからは歩いて帰るから」  適当にごまかして、降りた。  ここから家までは、とても歩いて帰れる距離じゃない。葵はただ、誰もいない道をあてもなく歩きたかっただけだった。  ふらつく足に任せてゆらゆらと歩く。息苦しくなってきて、ネクタイを外して捨てた。上着も脱ぎ捨てる。  そのまま惰性で歩いていた葵だが、よろけた拍子に、土手を踏み外して転げ落ちた。  枯れ草に覆われた舗装されてない土手は、傾斜はあまり急ではないが、結構な高さがある。下まで落ちてしまえば、道からは完全に死角になる。  あちこち打ったみたいだった。鞄も手を離れてどこかにいってしまった。  (どーでもいいや――)  葵は転がったまま、襲ってきた睡魔にまかせて目を閉じた。真夜中の冬の河原、上着すら着ていない。このまま眠ってしまえば、上手くいけば朝には凍死体だ。  (なんだ…、簡単じゃないか。もっと早くこうすればよかったんだ)  なんでもないことのように、葵は思う。親は早くに亡くなって、兄弟もいない。育ててくれた親戚はいるが、家族とはいえない。自分が死んで辛い思いをする人間なんて、もう一人もいない。  彼も――、坂本も、もう他人になってしまった。葵がいなくても彼は幸せに生きていくだろう。そう、葵が死んだことさえ、知ることもないかもしれない。  結局同じことの繰り返しなんだと、葵は思う。何度恋をしても、いつか相手は離れて行ってしまう。多少長く持つか、短いか、ただそれだけの違いだ。  (――もう、いい)  そうして葵は、だんだんと薄れていく意識を、手放した。    コーヒーの薫り――。 気持ちよく目覚めかけて、ふと違和感を覚えた。葵はコーヒーを飲まないから、家にはインスタントすら置いてない。  目を開けて、周りを見渡す。  (――ここ、どこだ?)  葵の部屋ではもちろんないが、坂本の部屋でも、ホテルでもなかった。見知らぬ誰かの家――。  匂いは部屋の外からだった。人の気配もする。葵は体を起こして立ち上がろうとしたが、だるくて頭も重い。なんでだろう? 昨夜のことを思い出そうとしたとき、開けっ放しだった部屋のドアから男が顔を出した。  「よう。目が覚めたか」  誰だ? 葵はまだちゃんと覚醒していない頭でぼんやりと考える。  「二日酔いだろ? もう少し寝てろ」  男はそう言いながら入ってくると、壁際の机に置いてあった書類カバンを取った。  「悪いが、あいにく外せない仕事があって休日出勤だ。昼過ぎには戻るから、それまでゆっくりしてればいい。シャワーは勝手に使ってくれ。着替えも適当に引っかけてろ。腹が減ったら、マンションのすぐ向かいにコンビニがある。鍵と、エントランスの暗証番号はリビングのテーブルの上だ。じゃあな」  男は用件だけ一方的に告げると、とっとと出ていってしまった。壁掛け時計を見上げると、八時十五分。  葵は、なんとか頭の中を整理しようとする。  (今日は土曜日だ、確か。今週は出勤当番じゃなかったはずだし、役所には行かなくていいよな…。で、僕はなんでここにいるんだろう? ――だめだ、頭が働かない)  とりあえずシャワーを浴びながら考えようと、葵は立ち上がった。  熱いシャワーで残っていた酔いを醒ました葵は、昨日土手で意識を失うまでの過程を、ひととおり思い出していた。  (そう、昨夜坂本さんと別れて、あの土手で、もう死んでもいいかって思ったんだ――)  けれど、そこで意識は途切れている。結局、どうしてここに居るのかはさっぱり分らない。  チェストの中にバスローブがあったので、それを借りた。葵は、リビングのソファーに腰を下ろして考えた。さっきの男、そうだ、バーで声を掛けてきた男だ。  (だけどなんで、自分がその男の家に居るんだろう。男が帰ってくるのを待って、訊くしかないか…)  葵は、まだ重い体をソファ預けて周囲に目をやった。一人暮らしのようだけど、それにしては広いマンション。ダイニングキッチンと繋がったこのリビングだけで、葵の借りているマンションと同じくらいの広さはありそうだった。それと、寝室。他にも部屋があるようだ。  そういえば、ここがどの辺りか、場所もわからない。  壁のフックには、昨夜葵が脱ぎ捨てた上着が掛けられていた。鞄と、店に忘れてきたはずのコートも。  それをぼんやりと見上げながら、別に待っている必要はないかもしれないと、葵は思った。どこの誰とも知らない男の部屋で、ぼーっと待っているのも変な話じゃないか。頼んで助けてもらった訳でもなし。このまま、黙って帰ればいいんだ、と。  でも、――どこへ? 一人ぼっちのあの部屋には、もう帰りたくなかった。  葵は目を閉じて、ソファの柔らかい感触に身を任せた。体から力が抜けてゆく。  (あのまま、放っておいてくれればよかったのに)  テーブルの上に置かれた、鍵とメモ。葵は溜め息をついて、それを見つめた。  (それでも、一応お礼くらいは言っておくべきなんだろうな――)  「風邪引くぞ」  男の声で、葵は目を覚ました。ソファの上で、そのまま眠ってしまっていたらしい。もう昼の一時を過ぎていた。  「あ、――あの、どうして、俺ここにいるんですか?」  かなり間抜けな質問だが、他に聞きようがなかった。  「食ってないんだろ?」  男は葵の目の前に、コンビニの袋を置くと、さっさとキッチンへ向かう。  袋の中身はおにぎりが二つと、惣菜のパック、ペットボトルのお茶。袋を覗いて、どうしたものかと固まっている葵の横、ソファの端に男は軽く腰掛けた。コーヒーカップを片手にじっと葵の様子を見ている。  仕方なく、葵はおにぎりを口にする。  「河原で拾ったんだ」  もそもそと美味しくなさそうに食べる葵を見ながら、男がにやりと笑って言った。獲物を見る肉食獣の目。  「バーで会いましたよね?」  「ああ、それは覚えてるんだな」  意外な面持ちでおかしそうに言った。訝しげな目で見つめ返す葵に、男が続ける。  「コート忘れただろう。だから、届けようとすぐ俺も店を出て後を追った。そしたらタクシーに乗り込むのが見えたから、こっちもタクシー拾って追っかけたんだ」  葵は思わず、食べる手が止まる。  (普通、タクシーに乗り込んだらそこで諦めるよな?ストーカーじゃないのか、それ)  「そしたら、あんな人気のないとこで降りるし、ふらふら歩いてるし、ついてったら案の定倒れてるあんたを発見したってわけ」  ごく自然の成り行きのように話しているが、そこで警察か救急車を呼ぶのが普通だろう。なんで、わざわざ自分の家に連れて帰るんだ。と葵は思わず警戒のまなざしを向けた。  「まるで自殺行為だな、一人であんな飲み方して、あんなとこ歩いて。失恋でもしたのか?」  男は笑って、からかうような言い方をした。  「ーー覚えてない」  葵は横を向いて、素っ気無く言った。  「もう食わないのか?」  おにぎりを手に持ったまま、口に運ぼうとしない葵に、男がにやにやと笑ったまま言う。欲しくはなかったが、このまま置くと拗ねているようで嫌だったので、葵は無理に食べた。  「ものを食べる行為って、なんかエロティックだよな」  言われて、葵は思わず男を見た。男は葵の口元を、ごくりと飲み込んだ首筋を見つめていた。男の視線に晒されて、残りが口に出来ない。葵は急に、バスローブ一枚の自分の姿を意識した。  男は、そんな葵の手から残りを奪うと、それを口に運ぶ。そのあいだも、男の視線は葵から離れなかった。それに引きずられるように、葵も男の口元から目が離せない。口を開いたときに一瞬のぞく赤い口腔。舌。咀嚼のたびにうごめく唇。ごくりと上下する喉仏――。  カップのコーヒーを飲み干して、男は立ち上がり、彼の目の前に立つ。葵は身じろぎさえ出来ずに、降りてくる男の唇を、受け止めた。  男の名は、梶原直人。大手都市銀行に勤める銀行員で、年は二十五歳、葵よりも三つ年下だった。行為のあと、見ず知らずの他人を家に一人にしていいのかと皮肉っぽく云った葵に、梶原は葵の上着のポケットから勝手に抜き取った名刺を見せる。  「鵜川葵、市役所の戸籍係。身元の確認は済んでるよ」  抜け目ない笑顔でそう言った。  結局その日一日中、そして次の日も、二人はベッドのなかで過ごした。  そしてそのままなし崩しに、葵は梶原の部屋に居着いてしまうことになる。  職場へは、梶原のマンションの方が近かったし、部屋も余っていた。何より、体の相性が良かったから。  梶原はともかく、葵はもともとセックスにあまり関心がある方ではなかった。行為そのものへの欲求よりも、スキンシップや愛情表現の延長として求める方が強い、女性的な感覚をもっていた。  それが、梶原との行為はまるで麻薬のようで、我を忘れて快楽に流されてしまう。触れられるだけで我慢できなくなる。自分から求めてしまう。葵は、自分がこんなに淫乱だったのかとあきれるくらいだった。梶原は梶原で、葵の淫乱さを楽しむように、ゆっくり時間をかけて葵を翻弄した。  ほとんど残業のない葵と違って、梶原は毎日残業で、休日出勤も多い。一緒に暮らすといっても、梶原は家にはただ、寝に帰ってくるだけの生活。恋人同士のように余計な時間をかけることなく、ただセックスを楽しむには、これがいちばん合理的だから。二人の同居の発端は、ただそれだけの理由だった。  葵は、今日も一人コンビニ弁当をつついていた。  午後八時、梶原はあと二時間は帰ってこないだろう。葵は部屋を簡単に片づけて、各部屋に掃除機をかけた。ついでに洗濯もしようと、浴室に向かう。  洗濯機に洗い物を放り込んでボタンを押すと、勢いよく水が出始める。葵は洗濯機の前に立ったまま、ぼんやりと響く水音を聞いていた。  (あの日で、もう終わりにしようと思っていたはずなのに…。僕はどうしてここでこんな生活を続けているんだろう――)  「ただいま」  耳元で囁かれて、葵は飛び上がった。驚く葵を後ろから抱きすくめて、梶原はくすくすと笑いながら耳に唇をあてたまま言う。  「そんなに驚かなくても」  かかる息と唇の動きが微妙な愛撫となって、葵の背中をぞくりと震えが這い上がる。  「あ、」  思わず声を出してしまった葵の頬に軽く口付けると、梶原はすっと身を引いた。  「どうしたんだよ。やけに早いじゃないか」  反応してしまった自分が気恥ずかしくて、ぶっきらぼうに言った。梶原はわざとやっているのだ。葵の反応を楽しんでいる。  「たまには早く帰らないとな。いくら若くても体がもたない」  言いながら、リビングへと戻っていく。  そういえばここ二、三日、帰りは連日深夜だった。葵が眠ってから帰ってきて、起きた時にはもう居ない。横で眠っていた形跡はあるが、きちんと顔を合わせたのは何日ぶりだろう。役所勤めの葵には、民間企業の、それも銀行の仕事など想像もつかなかった。  「銀行員って、みんなこうなのか?」  葵は、思わず口に出していた。  「まぁ、程度の差はあれ、俺たちくらいの年代の奴らはみんなそうだな。今忙しくない奴はおわってる。出世街道から外れてるってことだ」  「ふーん。大変だね」  葵は、キッチンでコーヒーをいれながら考えていた。出世か…、他人事だな。  梶原は見た目に違わずバリバリの上昇志向の持ち主のようで、出世しなければ銀行にいる意味がないと言い切る男だ。実際、順調にエリートコースを歩んでいるらしい。今まで葵が惹かれて、そばにいたいと思った男は出世よりも家庭を優先しそうな人間ばかりだった。世の中にこういう野心家がいるのは知っていたが、好んで近付くことはなかった人種だ。  梶原は、葵にとって何もかもがイレギュラーな男だった。  「はい」  何気なく差し出したカップを、梶原は少し眉を上げて受け取った。  「どうしたんだ? 今日はなんだか親切じゃないか。部屋は片付いてるし、コーヒーサービス付きか」  一緒に暮らすようになって、最低限の家事は、時間に余裕のある葵が自然とやるようになっていた。もともと、葵はまめで尽くすタイプだった。梶原に対しては、恋人ではないのだから必要以上の世話を焼かないように今まで自制していただけだった。本当は料理だって、コンビニではなく自分で作りたいのだが、それこそ押し掛け女房みたいに思われそうで、その手のことは最低限にしようと気を付けていた。  梶原は、煙草とコーヒーを手放せない。家にいるときは必ずどちらかを手にしている。葵は、煙草はやめて久しいし、コーヒーは飲めなかった。ついでもないので、今まで煎れてやったことはない。梶原の方も、葵に何かしてもらおうという気はさらさらなく、当たり前だがすべて自分のことは自分でやっていた。  けれど今日は、疲れた様子の梶原に、葵はほとんど無意識にコーヒーをいれてしまっていた。  「べつに。片付けや洗濯くらい、居候だからね、それくらいはやるさ」  葵はなんだかばつの悪い思いで、気が緩んでいたと後悔しながら言った。  「部屋代なら、体で充分払って貰ってるけど?」  笑って言う梶原の口振りに、いつものことながら葵はかちんとくる。どうしていつも、この男はこういう言い方をするんだろう。  「そうか? 最近滞納しているような気もするけど」  腹立ちまぎれに、逆に煽るようなことを言ってしまう。これもいつものことだった。  「だから、今日はまとめて払ってもらおうと思ってな」  梶原はカップを置いて、ネクタイを緩めつつ近づくと、そのままソファに葵を押し倒した。上から葵のシャツのボタンを外しながら、それを追うように、梶原の唇が肌をすべり降りてゆく。  「ん…、ここで?」 潤みかけた声で問う葵に、  「ここでだけじゃない。どこででも、何度でも。三日分まとめてフルコースだ」  「ほ、…んっ」  本気?と問いかけた葵の唇を口づけでふさぐと、梶原は予告通りのことを実行した。  「鵜川くん?」  「あ、はい」  何度も声を掛けられ、葵は何度目かでやっと気付く。怪訝な顔の上司に、   「すみません。ちょっとぼんやりして」  「大丈夫かね。体調が悪いようなら帰りなさい」  「いえ、大丈夫です。すみません」  立ち上がって、書類を受け取りながら答える。普段から真面目な勤務態度の葵は、蒼い顔でぼうっとしていても、心配されこそすれ叱られることはなかった。  葵は自分の席に戻ると、小さくため息をつく。週末ならまだしも、平日は翌日に響くセックスは控えて欲しいと思う。体中だるいし、腰が重い。冬だから全て隠せてはいるが、体中に赤い斑点があって、キスマークというよりへんな病気みたいだった。手首まで付けられているから、手を洗うときでさえ迂闊に袖をまくれない。  年下とはいえ、自分よりずっとハードな生活を送っているくせに、と梶原の体力には呆れてしまう。今日も、起きたらもういなかった。いつ寝てるんだろう。あんな生活、いつか体を壊しそうだ。葵はまた溜息をついていた。  お昼のチャイムとともに、めずらしく上司が昼食に誘ってきた。窓口を昼当番の女の子に頼んで、葵は上司について地下食堂に降りた。  「鵜川くんは、いくつになるんだったかね」  「二十八になりましたが」  なんだろう。葵は唐突に年を聞かれて、戸惑いながら答える。  「そうか、――そろそろ身を固めてもいい年頃だなぁ」   (う、とうとう来たか…) 葵はなんだか胃が痛くなってきた。そういえば、この上司は世話好きで有名だった。  市役所はかなり保守的な環境で、結婚している人たちは職場結婚が圧倒的に多かった。  真面目でもの静かな葵は、上司の評判も悪くなく、周りにも好意的に受け入れられてはいる。しかしその反面、あまり深く人と関わろうとはせず、人当たりはいいが誰に対しても一定の距離を保っているように見えた。そのせいか、少し線は細いがルックスもよく親切で、女子職員たちの間で人気は高いのに、今まで積極的にアプローチしてくる女性はいなかった。  だが最近は、独身で見映えのいい男は残り少なくなってきたのか、それとも葵の年齢のせいか、女子職員から彼女いないんですかとか、そろそろ結婚とか考えないんですかとか、聞かれることが多くなってきた。その上、上司からもこんな話がでてくる。周囲が、この人は結婚しないんだろうなと自然と納得するようになるには、あと五、六年はかかりそうだった。  まさか、ゲイなので一生結婚はしません。なんて言うわけにはいかないだろうな、やっぱり。と、葵は気が重くなった。  「はぁ、まぁそのうちに…」  葵は適当にお茶を濁して、食べることに集中しているふりをする。  「誰かお付き合いしている女性はいるのかね?」  「いえ、特には…」  「実は、知り合いの娘さんで、じつに良くできた娘さんいてねぇ、年も二十六で――」  葵は、蕩々としゃべりだした上司に気付かれないように、こっそりとため息をついた。  「あー、もう、めんどくさい」  市役所からの帰り道、公園を抜ける近道を通りながら、葵は思わず呟いていた。何もかも面倒だった。仕事も、人間関係も。本当は生きていくことすら面倒なのだ。けれど自分で命を絶つには、きっかけがいる。強い衝動がなければ自殺なんてそうそうできるもんじゃない。葵は、ため息をついてしゃがみこんだ。  (あの時が、最大のチャンスだったんだけどな…)  大切なものを失って、自分にはもう何もないと思った。だから、もう死んでもいいと思った。  何もない人生って、なにか意味があるのだろうか。と葵は思う。  仕事をするのは、生きていくためだ。葵にとってそれ以上の意味はない。家族もいない。友達や知り合いはいるけれど、無ければ生きていけないほどの繋がりじゃない。生き甲斐と言えるほどの趣味もない。  それでも、そういう人間は世の中にたくさんいるだろう。そういう人たちが皆、葵のよう死を考えているわけではない。生きたいと思うのは、一番大切な本能なのだから。  葵は、自分に言い聞かせた。何もないことに慣れてしまえば、生きていける。最初から大切なものがなければ、失って、生きる意味を見失うこともない――と。  葵が立ち上がって歩きだそうとしたとき、どこかから子猫の鳴き声が聞こえたような気がした。思わず葵は声のする方へ向かう。すると雑木林の奥、植え込みの下に小さな黒い固まり。  「これって、やばいシチュエーションだよな…」  まずいと思いながらも、葵は固まりに近づく。案の定それは子猫で、近寄る葵に、警戒しているのか威嚇するような鳴き声を出すが、逃げようとはしなかった。不思議に思い、葵は子猫に手を伸ばした。  「っつ、」  猫の爪は、薄いけれど尖っていて鋭い。引っ掻かれて、指先に細く赤く傷が浮かぶ。よく見ると、子猫は足を怪我しているようだった。逃げたくても逃げられないのだろう。毛を逆立てて威嚇しながら、ぶるぶると体を震わせている。恐がっているのだ。  「大丈夫。大丈夫だよ。痛くしないから、おいで」  今度は優しく宥めるように囁きながら、そっと手を伸ばして、葵は子猫を抱き上げた。  「なんだこれは」  ソファの横、タオルの敷かれた空き箱の中のすぴすぴ寝息をたてている黒い物体に、帰ってきた梶原が言った。  「ライオンにでも見えるか?」  ソファに寝そべって文庫本を読んでいた葵が、冷たく言った。そのまま動物病院に寄って、手当てをしてもらい連れて帰ってきた。 犬か野良猫にでもやられたのか、全治二週間のひどい怪我で、生後一ヶ月くらいらしいが、栄養失調で小さくやせ細っている。行きがかり上とはいえ、放り出すわけにはいかなかった。  「ここは、ペットを飼うのは禁止なんだが…」  「外に出さなければバレないよ」  平然と言う葵に、梶原がため息をついた。口を開きかけた梶原を制するように、言う。  「だめなら一緒に出てくよ」  声は淡々としているが、無意識に体に力が入っていた。ここに連れて来るのは確かにためらわれたが、子猫と一緒に黙って自分のマンションに帰ることも出来なくて、連れてきてしまった。もっと素直に頼めばいいのだけれど、弱みを見せたくなくてつい高飛車な言い方をしてしまう。  「――拾ったものはしょうがない。おまえが面倒みるんだろ?」  梶原は苦笑して言った。葵は体の力を抜いてほっと息をついた。  「もちろん。ちゃんと育てるよ」  嬉しそうに笑って言った葵に、梶原の手が伸びてくる。  「なんだ、笑えるんじゃないか」  両手でそっと葵の頬を包むと、そのまま口づけてくる。だんだん深くなる口づけのなか、 (今まで俺、笑ってなかったっけ…)  葵はぼんやりと考えていた。  子猫は雌で、クロと名付けられた。梶原に名前を考えてくれと言ったら、即答されたのだ。あまりにもそのままだと呆れたが、葵は素直に従った。  土曜の昼下がり。平日の睡眠不足を補うように、梶原はまだ惰眠を貪っている。  葵はクロに猫用のミルクを与えていた。ここへ来て見る見る元気になり、足の包帯もやっととれた。まだ少し足を引きずっているが、大きくなればそれも治るだろう。そろそろ離乳食に切り替えかなと、満足そうなクロの喉を撫でてやりながら、葵は思った。  一月も下旬に入り、外では冷たい木枯らしが電線を揺らしている。けれど、エアコンの効いた広いリビングは暖かく、ベランダへ続く大きな窓からは明るい日差しが降り注いでいた。  ここで暮らすようになって、まだ二ヶ月に満たない。けれど葵は、もうずっと前からここに住んでいるかのような錯覚を覚えていた。  広々としたマンションに必要最低限の家具、こだわりのない主の性格を表すように、凝ったところのないシンプルな部屋だが、そこかしこに生活感が溢れている。  リビングのテーブルの上には、いつも煙草とライターが無造作に置かれ、今は、夕べ梶原が寝る前に使ったカップが、置かれたままになっていた。少しくらい散らかっていても気にしない梶原は、よくものを出したり使ったりしたまま放ってあったが、それも葵には心地よかった。自分以外の誰かがいる気配は、それだけで安らげる。  セックスだけの関係と割り切ってはいるが、おかげで坂本のことも考えないでいられた。  あの夜、一人の部屋に帰れなくて、真冬の河原を彷徨っていた自分がこうして普通に生活している事に、葵はずっと、本当は戸惑っていたのだ。 暖かい梶原の部屋、何処にも居場所なんてないと思っていたけれどーー。  「よかったな。ここにいてもいいってさ、俺たち」  お腹をぱんぱんに膨らませて、葵の膝の上で眠りかけているクロを抱き上げると、葵は小さく呟いた。  鳴きながら手足をばたつかせる子猫の愛らしい姿に、葵は微笑んだ。  「おまえが、そんなに動物好きとは知らなかったな」  そのとき、寝起きのぼさぼさの頭をかきながら、梶原がリビングに入ってきた。  「べつに、子猫をかわいいと思うのは普通の感覚だろ」  「ふうん」  そのままソファに座ると、テーブルの上の煙草を取って火を点ける。  「ほら、可愛いいだろ」  葵はクロを、梶原の肢の上に落とした。  「うわっ、危ねえだろーが」  梶原は慌てて煙草を落としそうになりながら、クロを受け止める。ぼさぼさの髪、眉間にしわを寄せて咥え煙草、着くずれたパジャマ姿で子猫を抱いている様子が妙にかわいらしく見えて、葵は思わず笑ってしまった。  「なに笑ってんだよ」  「別に」  くすくす笑いながら答える葵。  梶原は寝起きの不機嫌そうな顔のまま、おとなしく子猫を膝の上に乗せていた。
/4

最初のコメントを投稿しよう!