さよなら相棒

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さよなら相棒

 「13万キロか」    実父の呟きに、情を感じた。  父は現実主義者で、なにかあればお金お金で、不要物はすぐに捨てる、不要な人間関係も即座に切り捨てるといった生き方をしている人だ。  そんな父ももう、後期高齢者となる。昔から頑として融通がきかない人だったが、老いてますますその兆候が強くなった。  そんな父が、もうダメになりかかっている車に対し、そんな危ないもん早く乗り換えろでも、買い替える金はあるのかでもなく、「ああ、だいぶ頑張ったなあ」など、慈しむようなことを呟いた。  その軽は12年前、父が自動車販売店をあちこち見て回り、これだと決めたものだった。 **  社会人になったばかりのわたしは、両親がせっかく買い与えてくれた新車を荒く扱ったと思う。初代の軽は、しょっちゅうぶつけたり、変な音を立てたりしていた。可哀そうなことをしたと思う。  初代の車が、ハンドルを回す度に凄まじい音を立てるようになり、見かねた父が今の軽に買い換えてくれた。  どうやら嫁ぎ先の義両親が実父に「車が酷い音をたてていますよ」と言ってきたらしい。    もうわたしは働いているのだし、本来、自分で買うはずの車だった。  「えっ、買ってくれるって」  そんなことになるなんて、夢にも思っていなかったわたしは、父が例の威圧的な口調で電話をかけてきた時、思わず叫んだ。いいよ、そんなの、まだ乗れるもん、と主張したが、「あっちの御両親が気にしているから」と実父は譲らなかった。  わたしは父が買ってくれた車と一緒に嫁に行ったのだった。 **  人生の流れをある期間ごとに区切ると、その時期にどの車に乗っていたのかということが、感慨深く思われる。あるいは車は、人生のとある時期の象徴のようなものかもしれない。    初代の軽は、重苦しく先の見えないトンネルをさすらっていた暗黒期の友だった。この車の中で悩み、泣いた。どこかに逃げたい時は、あの車であてもなく夜を走った。  何度も転居したけれど、どこまでも一緒についてきてくれた車だった。その車に、わたしは結構な仕打ちをしてきたと思う。  あの頃わたしは、自分の人生に対してもいい加減だったが、車に対してもぞんざいだった。  初代の車は、わたしの心の闇を詰め込んで、廃された。 **  父が買ってくれた軽、つまり今乗っている車。これは、激動の時間をわたしに従ってくれた相棒だった。  この車を伴って嫁いだ相手とは、早い段階で離婚した。相手というより、相手の家と揉めたので、そこから逃げるために迅速かつ秘密裏に動かねばならなかった。  法律に詳しい人が身内にいる家だったので、下手なことはできないと考えた。もう壊れた惨めな生活からすぐにでも脱出したかったけれど、もう少し次の段階に進んでからだ、と、じりじり辛抱した。今だ、と見切った瞬間から、気づかれないよう車に荷物を積んでは逃亡先に運び、引っ越しの準備を進めた。  真夜中、あるいは早朝、人目のない時を狙って秘密の作業を続けた。ろくに呼吸もできないような緊張の中で、事故も起こさずわたしを乗せて走ってくれたのが、この車である。  離婚、それから次の就職先を求める、生活をかけた活動。  物凄い勢いで目減りして行く貯金の残高は恐怖だった。頼むからこんな時に故障だけは起こしてくれるなよ、と、祈るような思いでハンドルを握った。車はその思いに忠実に応えてくれたと思う。  就職、再婚、さらなる引っ越し、そして次の就職、それから妊娠、大きな病院に通うことになった――随分と、長い距離を移動したと思う。全部、この車で走った。  思えば12年間、大きな故障もなく、よく頑張って来てくれたと思う。事故があったといっても、止まっている車に一方的にぶつけられた位だ。   走行距離がだいぶ伸びているのを見ながらも、まだ大丈夫、まだ乗れる、というか、大事にしてずっと乗っていたい、と思った。    だけど、今年の夏、車はついに故障を起こした。  冷房がまったく利かず、おかしな音がするようになったので、ディーラーに見せたら、コンプレッサーに重大な故障が見られると言われた。修理にかかる金額は結構なもので、しかも、その修理だけで完全になおるわけではなく、追加でまだ何かしなくてはならないかもしれない、とのことだった。  おまけに今年の秋に車検が控えていた。今回の修理分と車検のお金を合わせると、片手くらいはいくかもしれなかった。  「ああー」  わたしは溜息をつき、ディーラーの営業も「ああー、ですよね」と、気づかわしそうにした。    結局、今回は応急処理的にガスだけを入れて、様子を見るという話に落ち着いた。 **    エアコンが故障した車。修理して乗り続けるか、乗り換える時期が来ているのか。  本当は、もう少し悩みたかった。今乗っているこの軽は、わたしにとって相棒のようなものだ。決して平たんな人生ではなかった、この車に乗っていた時期は。車の中で泣いたこともあるし、車の中に逃げ込んで体の痛みを堪えたこともある。わたしの、人には見せられない素顔を嫌になるほど知っている車だ。  だけど、たまたまタイミングよく、安価で未使用車が手に入ることになった。決断するなら今しかなかった。  「乗り換えようと思う」  夫と話し合い、そう決めた。  それから、二代目の車を買ってくれた実父に連絡し、良い車だったけれど、そろそろお別れしようと思う、と伝えた。    電話で父は、静かにわたしの話を聞いた。  父にとっても、この車は思い入れのあるものだったのだと思う。最初の結婚の時に買ってくれた車だし、なにより、人生の最も行く先がわからない時期に、わたしを乗せて走ってくれた車だった。父は、この車に娘を託したように思っていたのかもしれない。  車に出ている症状を聞き、父は無言になった。修理工の資格を持つ父だから、車の状態がよく理解できたのに違いない。  やがて父は、おもむろに走行距離を問うてきた。  13万、と答えたら、そうかあ13万キロか、と、ため息交じりに言ったのである。 **  「今まで頑張ってくれた車だから、乗り換える瞬間まで大事にしてやりなさい」  と、父は言った。  なぜかわたしは、ぐうっと涙がこみあげてきて、言葉が詰まった。電話なので顔が見えないのが救いだと思った。  初めて今の車に引き合わされたのは、寒くなりかけた晩秋だった。  実家の庭木が赤くいろづいて、落ち葉が車体にかかって綺麗だったことを覚えている。  「大事にしなさい」  と、父が例によって威圧的に、ばすんと叩きつけるように言い、わたしは内心、うんざりした。ありがた迷惑だよ、とまで思っていたかもしれない。  周囲の同じ年あいの女性は、もっとお洒落な車に乗っている。  ああ、コイツに乗るのかあ、まあいいか、変に洒落てないほうがわたしらしいのかな、と納得しようとした。  その後、実家に戻る度、車の調子はどうだとか、タイヤの圧は大丈夫だとか、父はうるさく車の事を注意した。あまりにも煩くて、しかも言い方が一方通行なので、ストレスになったこともあった。  「オマエ、めっちゃ心配されてるじゃん」  車のハンドルを握りながら、嫌みを呟いたこともあった。そんな日でも、車は真面目に安全に走り、無事故で一日を乗り切ってくれたのだ。  10万キロにさしかかった頃、父が「買い替えの事を考えているのか」と、また威圧的に問いかけて来たので、何となく情報を収集していると嘘をついておいた。  買い替えという言葉を最初に口にしたのは父だったくせに、いざ買い替えるとなると、大事にしてやれとか、頑張ってきてくれた車だとか、言うんだなと少し笑った。  父に電話をしたのは、仕事が終わって暗くなった職場の駐車場、車の中からだった。  ちらほら、同じ時刻に還る社員が駐車場を歩いているのが見えた。  新しい車を迎えるのは、あと何日後だろう。  瞼が熱くなったけれど、それを押し殺して、父との通話を終えた。フロントガラスからは半月が見え、空は夕焼けの名残を残していた。  じいじいと、思い出したように油蝉がどこかで声を立てる。  次第に夏に近づいている。  湿気が強く、肌にべっちゃりした空気が貼りつくようである。  今日も、日中、駐車場は暑かったことだろう。車の中はぼんやりと不快に温かかった。できればエアコンを効かせて電話をしたかったが、コンプレッサの状態が悪いので、クーラーを入れたらたちまちすさまじい音が出る。  そのため、わたしは仕方なく、車窓をしめ、エアコンもつけず、暑いのを堪えながら父に電話をしていたのだった。  ああ、やっと涼しくできる。  電話をカバンにしまい、エンジンをかけた。  エアコンをつけた時、やっぱりすごい音がした。切ない音だった。ガスを入れてもらったことで一時的にエアコンが効くようになったとは言え、その音が車の不調をはっきりと告げている。    車の声が聞こえるような気がした。  「ご主人よ、そろそろ楽にしてください。俺はここまで。次にあんたに従う相棒は、もう決まってるんだろ」 **  ああそうだね、さようなら、本当にありがとうよ。  心で呟いて、ハンドルを握った。  人生のある時期が、まもなく終わろうとしている。次の時期が始まろうとしている。新しい相棒と走る、まだ見ぬ時間。  すぐに慣れるだろうか。快適に、安全に走ることができるだろうか。  最初は生ぬるい籠った風が噴き出していたが、やがて、ひんやりとしたエアコンの風が車の中を冷やし始めた。  その風は、わたしのくよくよした不安を、潔く吹き散らしてくれるようだった。
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