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丸々一週間の長い出張を終え本社勤務に戻った時、世間はすっかり梅雨明けしていた。
午前の仕事が長引いたせいで遅く取ることになった昼休み、職場近くにある行きつけのラーメン屋の味が恋しくなって訪れてみれば、個人経営らしいこじんまりとした店の入り口、そのすぐ横にあるガラス窓に、不可解な張り紙が貼ってあった。
「 はじめました」。白い紙に太く黒い線で、ただそれだけが記されていた。
はて、何を「はじめた」のだろう。空白部分を想像しながら店のドアを開けると、ランチタイムの盛りを過ぎた店内は普段縁のある十二時台に比べると明らかに空いており、客数人があちこちのテーブルにまばらに坐っている程度だった。
「いらしゃいませー。お好きなお席にどうぞー」
店員に声をかけられカウンター席の一つに腰を落ち着けると、若い女性店員が水を運んできた。彼女は店主の娘で現在大学に在学しているが、学業の合間に店を手伝っているという子だった。店で働いているのを見かけるようになってから一年以上経ち、接客振りも板についている彼女だが、流石に混雑する時間帯の直後は疲れているらしく、少しぼんやりとした様子で、接客しているのが常連客だと気付くのにも少々間が空いた。
「ご注文はお決まりですか?」
「何をはじめたんだい?」
「え?」
彼女は伝票に書き込もうとしていた手を止め、怪訝な表情を露わにした。
「表から見える、窓のところに貼ってある紙。何をはじめたのかと思って」
「ああ、『冷やしつけ麺』ですけど。書いてありますよね…」
「書かれてないよ」
彼女は首を捻りつつ店の出入り口から通りに出て、店の外から張り紙を確認した。「ああっ」という声が、ガラス越しに聞こえた。
店内に戻った彼女は窓ガラスの内側から張り紙を剥がし、「ええ~?何で?」と数メートル離れた距離でも聞こえる独り言を呟いた。振り向き、手元の紙から顔を上げた時、ようやく注文途中の客の存在を思い出したようだった。
「すみません。えーと、ご注文、お決まりですか?」
「うーん、せっかくだから、冷やしつけ麺お願いします」
私が昼餉の登場を待っている間、店員の彼女は私の横でカウンターテーブルに張り紙を広げ、納得のいかない様子だった。
「ちゃんと書いたんですよ。『冷やしつけ麺』って」
「夢の中で?」
「からかわないで下さい。あー、こんなになってたから、あんまり冷やしつけ麺出なかったのかぁ。でも…、なんでだろう?」
「書いても消えちゃう、魔法のペンだったのかもね」
「マジックだけに……そんなマジック、使えませんよ。でも、ちょっと見たことない変わった色だったんですよね」
彼女はそう言ったきり、張り紙を置き去りにして従業員用扉の向こうに行ってしまった。
昼飯待ちの時間を持て余した私は、張り紙を手元に引きよせ、文字の書かれていない空白部分をじっと観察した。ごくごく薄い茶色に染められた長四角が所々に見られ、その四角を両端に見立てて繋げていけば、『冷やしつけ麺』の文字が浮かんでこないでもないような気がした。彼女がメニュー名も書いたというのは、その通りなのだろう。
「これ、使ったんですよ」
私は調理の騒音で気付くのが遅くなったが、彼女はまた店内のカウンター席に戻って来ていた。そして、彼女の手にはさっきは持っていなかった太字用とおぼしきマーカーペンがあった。
「うっわ、懐かしいなぁ」
私は思わず、「ちょっと見せて」と彼女の手からマーカーを取り上げ、それにまじまじと見入ってしまった。
「変わった色ですよね。居間の引き出しの奥で眠ってたやつで、ずいぶん古いみたいですけど」
「そりゃあ古いだろうね。まだインク使えるんだ、コレ」
「書けても意味ないですよ。消えちゃうんですから」
店員の彼女は目を輝かせるばかりの私と違い、恨めし気にペンを睨んだ。
「試し書きしてみたら、見たことない色だけど凄く目立つ色で、メニューの宣伝に丁度いいって思ったのに」
「ふふ。若い子は知らないだろうけど、この色、昔…そうだな、四十年ぐらい前の筆記具でいったら、黒に次ぐメジャーな色だったんだよ」
「そうだったんですか?そのわりに今、全然見ませんけど」
「そりゃそうだよ」
私はカウンターテーブルの上にマーカーを置くと、入れ替えるように張り紙を手にして、文字が書かれた面を彼女の前に広げてみせた。
「こうなっちゃうからね。紫外線に弱くて、日光で退色しやすい色なんだ。その性質をわかってても、昔は目立つ色だからってよく使われてたけど。でも、今の紫外線は昔の比じゃないからなぁ。これ、何日前にあそこに張り出したの?」
「ほんの四日…三日前です」
「そうかぁ。あそこは日当たりいいからなぁ。でも、それにしたって紫外線も、短い間に随分強くなったもんだ」
「お待たせしました、冷やしつけ麺です」
店主からお待ちかねの夏メニューが出されると、店主の娘はカウンターテーブルに置いていた張り紙とマーカーペンを片付け始めた。
「あー…、その」
私が話しかけると、彼女は一旦手を止めた。私は彼女の手元を指差した。
「そのマーカー、良かったら譲ってくれないかな。なんか、懐かしくて」
彼女は手元のマーカーを一瞥してから即答した。
「駄目です」
「えっ、なんで?だってそれ、もう張り紙には使えないよ?あ、ペン代だったらちゃんと払うよ?」
「そういうんじゃないです。私だって、もう普通に売ってる色じゃないなら、やっぱり持っておきたいですもん。色も好きですし」
断られてもなお、未練がましく赤インクのマーカーを見ている私に、「ほら、早く食べないと冷めちゃいますよ」と彼女はラーメンを勧めてきた。
「冷めるもんかい。もう冷えてるんだから」
「そういえばそうでした」
私たちは青黒い顔を見合わせて笑った。
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