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机の上のラジオから、ジャズ風のBGMと共にパーソナリティを務める男性の声が聴こえてくる。
『そろそろお別れの時間がやってきました。本日のお相手は、貴方の心の恋人澤木沢ケンとDJヤナギでお送りしました。それでは皆さん、良い夢を』
そんなありきたりな締めの言葉を男性が言い終えると、後ろで流れていたBGMは次第にフェードアウトしていき、やがてラジオからは深夜零時を伝える時報が流れ出した。
『七月十五日 月曜日、午前零時をお伝えします』
時報を聞き終えた私は、ベッドに横たわらせていた体を起こしてのそのそと立ち上がると、ラジオが置かれた机の方へと向かい、放送休止時間に入ったラジオの電源をオフにした。それからデスクライトの淡い光だけを頼りにクローゼットからグレーのパーカーを取り出すと、それを部屋着の上から羽織り、ポケットにスマホと数百円の小銭だけを入れて静かに部屋を出た。
私はすでに寝静まった家族を起こさないよう慎重に階段を降り、微かに軋む廊下を通って玄関までやって来ると、お気に入りのスニーカーを履いて玄関の扉をゆっくりと押し開ける。そうして外へと出た私は、むき出しの頬にひんやりとした心地のいい夜風が当たるのを感じながら深く息を吸い込み、透明感のある澄んだ夜の空気で肺をいっぱいに満たした。
「よし」
私は誰にも聞こえないようにそう呟くと、一直線に立ち並ぶ白い街灯のぼんやりとした光の輪郭に向かって静かに歩き出した。
***
私は夜が好き。
肌に触れる空気の温度や辺りに漂う透き通った夜の匂い、そんな夜を構成する全てが好き。
夜には無駄なものが一切ない。あるのは濃い青色をした暗闇と真っ白な光の粒だけ。
昼間あれだけ忙しなく動き回っていた人や自動車も、夜にはそのほとんどが活動を休止し、まるで時間そのものが動きを止めてしまったかのように世界がしんと静まり返る。
昼と夜。同じ世界でも時間が変わるだけでこんなにも世界の見え方が変わってくるだなんて、本当に不思議なことだとつくづく思う。
この時間だけは、私が世界の全てを独り占めしているような、そんな優越感にも浸れてしまう。
だけど、そんな私はまだ十八歳になったばかりの高校三年生。
条例では、未成年の深夜外出は基本的に禁止されている。だからこれは決して褒められた行為じゃない。万が一、警察に補導なんてされてしまった日には、卒業も危ぶまれる状況に陥ってしまう。それは十分に理解している。
それでも、これだけはどうにもやめられる気がしない。
車道の真ん中の白線の上を歩いてみたり、赤信号の横断歩道をスキップして渡ってみたり、公園の遊具を全部独り占めしてみたり。そんな『やってはいけない』と言われていることをついついやってしまうのは、私が子供だからというわけではなく、真夜中という特殊な時間帯と人間の本能的な何かが関係しているからなんだろう。
だから私は、今日もこうして人目を憚りながら真夜中の街を闊歩する。
***
ずっと遠くまで等間隔で立ち並ぶ街灯。白い光を発しながら低い唸り声をあげる自動販売機。私と静寂な世界を映し出すオレンジ色のカーブミラー。
どれも当たり前に日常に存在するはずのモノなのに、今初めてそれらをしっかりと認識したような錯覚に捕らわれながら、私は街を歩いていく。
そんな日常であり非日常なものに触れながらしばらく街を歩いていくと、街灯が二本立っている公園の前に差し掛かった。入り口には『夕景公園』と彫られた石碑が設置されている。
ここは私が夜に出歩く際、決まって訪れる場所の一つだった。
日中は平日でも小さな子供や学校帰りの中学生がよくここに集まり、賑やかな広場として街では有名だけれど、今はそんな子供たちの弾んだ声は聞こえず、遊具たちも昼間の疲れを癒すかのように一時の眠りへと就く。
私はそんな公園で眠っている遊具たちを端から叩き起こして乗り回したり、ベンチに寝そべって星空を見上げたりすることが好きだった。
今年高校三年生になった私には、昼の明るい時間帯に子供たちに混ざって遊具を乗り回すことが、なかなか難しい行為になってしまった。それは、私が少しずつ大人に近づいていることの証明なのだと嬉しく感じる反面、人の目を気にせずにはしゃぎまわれていたあの頃が懐かしく思えて少し寂しい気持ちになる。だからこそ、こうして人のいない時間帯に出来るだけ童心に返り、日頃のストレスを上手に発散させているのだ。
そして今日も、溜まりに溜まったストレスを童心に返って発散させるべく、私は胸を高鳴らせながら公園の入り口へと足を向けた。
今日はいつもより月が大きく見えるから、もしかするとブランコで月まで到達できるかもしれない……なんて、今時小学生でもしないようなメルヘンチックな想像を膨らませながら『夕景公園』と彫られた石碑を通り過ぎようとしたその時、私はあることに気が付き、ピタリと足を止めた。
それからゆっくりと首を右に九〇度回転させ、その違和感の正体に目を向ける。
──人がいる。
公園入口から見て右側。二本ある街灯のうちの一本に照らされたベンチに、誰かが腰を下ろして休んでいる。
……こんな時間に一体誰だろう。ここで何をしているんだろう。
そんな疑問とほんの少しの好奇心に心を支配された私は、腰を屈めて公園の周りを囲む生垣から目だけを覗かせると、ベンチに腰を下ろすその人物を静かに観察し始めた。
そうして注意深くその人物を見てみると、頭から足の先まで全身を黒色の衣服に包んでいることに気が付いた。遠目からだと、不審者としか思えないような格好だ。これは怪しい。
それに眠ってしまっているのか、ベンチに座って俯いたまま動こうとしない。これじゃあ、相手が男性なのか女性なのかすら分からない。
これは遊具の独り占めを諦めて、大人しく家に引き返した方がいいかもしれない。
そんなことを考えて、その場に立ち上がろうとした瞬間、ベンチに座っていた人物が俯けていた顔をゆっくりと上げた。
私は上げかけた腰を今一度屈めて、その人物に目を向ける。
すると、白い無機質な光を放つ街灯に照らされて、ようやくその人物の正体が顕になった。私はその人物の顔を見るなり、思わず小さな驚きの声を漏らした。
「……あれって」
ベンチに腰かけていたのは不審者などではなかった。そこにいたのは、雪のように白い肌をした一人の儚げな少女だった。そしてそれは、私が知っている少女で間違いはなかった。
──そう。あくまで〝知っている〟だけ。
私は少し考えたのち、今度はしっかりと腰を上げて立ち上がると、公園入り、その少女が座るベンチに向かって歩き出した。そうして正面までやって来ると、じっと瞼を閉じたままでいる彼女に向かって声を掛けた。
「……如月さん、だよね?」
すると私の声に反応した彼女──如月涼香──は、ゆっくりと目を開き、虚ろな瞳を静かにこちらへと向ける。
「…………」
けれど、彼女から返ってきたのは肯定の言葉でも、ましてや否定の言葉でもなく、不自然に続く沈黙だった。その沈黙が、ひょっとして彼女は私のことを知らないんじゃないかという不安を駆り立てる。
「……あの、私、篠崎だけど……。篠崎美春。同じクラスの」
そう。私と如月さんは同じクラスなのだ。それも三年連続で。
だからわざわざこんな自己紹介をしなくても、お互い名前くらいは知っていて当然なはずなのだが……。
そんなことを思いながら、出席番号とか教室の席の位置とかも教えた方がいいだろうかと一人真剣に悩んでいると、ようやく彼女の唇が小さく開いた。
「うん、知ってる」
夜の静かな雰囲気にぴったりと合った透明感のある細い声に私は安堵する。
「そっか、良かった。覚えててくれてありがと」
そんな返しをしながら、そう言えばこんな近くで如月さんの声を聴いたのはこれが初めてかもしれないな……なんてことを考えていると、如月さんはまるでおかしな人を見るような目をして首を傾げた。
「三年間も同じクラスなんだから、知ってて当たり前でしょ」
全くその通り。相手が如月さんだからって、これは流石に心配しすぎだった。
私はヘタクソな作り笑いを浮かべて「ごめんね」と謝ると、ようやく話を本題へと移した。
「ねぇ、如月さん。こんな時間にこんな場所で何してるの?」
私のクラスには、私以上に派手に夜遊びをしている生徒が少なからず存在している。そんな生徒がこうしてこの場にいたなら、わざわざ声を掛けるようなこともしなかっただろう。けれど、今私の目の前にいる如月さんは、私の知る限りではそんな夜遊びをするような生徒ではない。私の中の彼女のイメージは、そのような生徒とは真逆に位置している。
私たちは彼女も言うように一年生の頃から同じクラスで学校生活を共に過ごしてきた。しかし、そんな学校生活の中で彼女が誰かと親しげに話をしているところを、私は一度たりとも見たことがない。
休み時間は大抵一人で席に座って本を読んでいるし、部活にも入っていないらしく放課後はすぐに教室から出て行ってしまう。そんな如月さんからは、何だか不用意に話しかけてはいけない雰囲気というかオーラみたいなものが出ている気がして、積極的に彼女に声を掛けようとする生徒はいないように見えた。
そんな如月さんの存在は良く言えばミステリアス、悪く言えばとっつきにくいというイメージが強く、それは彼女を知る人の中での共通認識になりつつあった。
だからこそ、そんな彼女がどうしてこんな時間にこんな場所で、それも全身を真っ黒に染め上げたような変わった服装でいるのか、とても気になった。
普段であれば、どんなに気になったとしても直接尋ねることはしなかっただろう。
きっと、真夜中という不思議な時間の不思議な力が、私にそんな質問をさせたんだと思う。
すると、彼女は首を微かに上の方へと傾けて小さく口を開いた。
「──夜を、感じてたの」
それはまるで私ではなく、夜空に浮かぶ月に向かって呟いたようにも聞こえた。
私はそんな彼女と同じように夜空を見上げながら問い返す。
「……夜?」
「うん」
──夜を感じる。それはつまり、どういう意味の言葉なんだろう。
私がこうして、度々真夜中の街を闊歩する理由と同じ意味の言葉なんだろうか。
濃紺色の夜空に音も立てず佇む白い月を瞳に映しながらそんなことを考えていると、彼女は続けて言葉を口にした。
「……こうやって目を閉じるとね、夜にすっと自分の身体が溶け込んでいくような不思議な感覚がするのよ」
如月さんは、そう言ってもう一度目を閉じると「ほら、美春も」と私にも目を閉じるようにと促してきた。
私の記憶が正しければ、如月さんとこうして二人で話すのは今が初めてのはずなんだけれど、彼女があまりにも自然に私を呼び捨てにするもんだから、私はつい言われたままに目を閉じてしまった。
すると、閉じた瞼の向こう側から薄っすらと街灯の光が透けて見えて、まるでここが現実の世界じゃないように思えた。例えるならそう……夢の中を泳いでいるような、そんな感覚。
「こうしてると、夜の冷えた空気とか透明な匂い、それに周りの色や音なんかが私の身体をそっと包み込んで、どこか遠くの深い場所に連れて行ってくれるような、そんな感覚がするの。……ねぇ、私の言ってること、理解できる?」
正面からは、そんな如月さんの問いかけるような声が聴こえてくる。
私は閉ざしていた瞼をゆっくり開くと、私の顔をじっと見つめる如月さんに向かって言葉を返す。
「うん、わかるよ。如月さんの言ってること。私もそんな夜が大好きだからさ」
それを聞いた如月さんは、ほんの少し口元に笑みを浮かべて表情を和らげると「そっか」とだけ小さく呟いて、自分の左隣の席を二度叩いてみせた。
私はその指示を素直に受け取ると、彼女と同じように笑みを浮かべ、隣の空いた席へ静かに腰を下ろした。
……三年間。教室という限られた狭い空間で、ただの一度も言葉を交わすことなく学校生活を送り続けてきた私たちが、今こうして真夜中の公園のベンチに並んで座っている。
それは何だか、現実と呼ぶにはあまりにも嘘っぽいように思えて、これは真夜中が創り出した幻覚だと言われる方がまだ納得できた。
私はそんな嘘みたいな現実に存在している彼女に向かって、問いかける。
「ところでさ、どうして如月さんはそんな奇妙な格好してるの?」
「……奇妙?」
「うん。だって全身真っ黒だし、如月さんだと気が付く前は不審者かと思って焦っちゃったよ。……もしかして、そういう系の服好きなの?」
私はこっちを向いてきょとんと可愛らしく首を傾げる如月さんの格好を、再度舐めるように眺めて尋ねる。
まるで一本一本に命が宿っているかのように見える黒く細い長い髪。そんな美しさを凝縮したような髪が生える頭には黒のキャップ帽。そして、首より下には普段大人しいイメージがある彼女からはなかなか想像がつかない、活動的な黒のランニングウェア。さらに両手には黒い革製の手袋を身につけ靴までもが黒という、明らかに意図して統一しているとしか思えない格好だ。何か、彼女なりのこだわりでもあるんだろうか。それとも、ただ単にファッションに対するセンスが欠けているだけなのか。どちらにしろ非常に気になる。
すると、如月さんは自分の今の服装を確認するかのように袖の部分に目を向け、何かに納得したみたいに小さく笑みを浮かべた。
「これはね、制服なの」
「制服……?」
「そう、制服」
一体どういうことなのか、今一度尋ねようとしたところで如月さんの口が開いた。
「こうして黒い服を着ていると、夜が私を仲間だと思って守ってくれるような気がするのよ。これからの進路や将来に対する不安とか、面倒くさい人間関係とかからね。……だから、これは制服。私が夜の一員であることを証明し、色々なものから守ってもらうための特別な服なの」
そう言って如月さんはまるで自慢するかのように胸を大きく前に突き出し、着ている服を見せてくる。そんな彼女が私にはあどけない少女のように見えて、何だかとても微笑ましい気持ちになった。
「なるほどね、そういうことだったんだ」
私は知らない間に自分の唇の端がわずかに上がっていることに気が付くと、続けて言葉を口にした。
「……でも如月さんって、何だか変わった考え方を持ってる人だよね」
「そう?」
「うん」
そこに関しては完全な無自覚なのか、如月さんは私の目をじっと見つめながら再び首を傾げてみせた。それに対して私は、真夜中の空みたいに深く濃い青色をした彼女の瞳を見返しながら静かに頷く。
私も、冷たくて静かで真っ暗で……だけど、その全てに優しさが含まれているような夜が好き。でも、彼女のような独特な考えを持ったことはこれまでになかった。
時が止まったかのような真夜中の雰囲気をただ五感で味わうだけで、そこに何かしらの意味や自分なりの考えを持つことはしてこなかった。
だから、私にはそんな人とは少し変わった価値観というか、変わった考えを持っている彼女が夜空に浮かぶ月よりも輝いて見えた。それと同時に、私が当初彼女に抱いていたイメージは少しずつ変化していき、同じ学校の、同じ教室で学校生活を共にするクラスメイトとしてではなく、夜を愛する一人の少女としてとても興味を持った。
こうして、真夜中の公園に私たち二人が引き寄せられたことにも、何かしらの意味があるはず。きっとこの時間は、夜を護る何者かが与えてくれた〝私たちだけの時間〟に違いない。それなら、この貴重な時間を無駄にするのは良くない。
私は、身体を隣に座る如月さんの方へ向けて口を開く。
「──ねぇ、如月さん」
「なに?」
「私、ずっと勘違いしてた」
「……勘違い?」
「うん」
私は暗い夜の中にいても周りの全てが反射して映り込むような、そんな透き通った瞳を向けながら疑問を口にする彼女に言葉を返す。
「如月さんって教室でも常に一人で、積極的に誰かと関わろうとしないから、正直根暗なのかと思ってた。私みたいな人と話が合うことなんて、絶対にないんだろうなぁ……って、そう思ってた。……でも、実際にこうやって話してみて、それが間違いだってことに気が付いた」
そう言って私は、彼女のまっすぐな瞳に自分の姿を映し出しながら静かに続ける。
「……ねぇ、如月さん。私、もっとあなたと話がしてみたい。……如月さんのこと、もっとよく知りたい。今まで、話をしてこなかった時間を埋められるほどたくさん──」
私たちが腰掛けるベンチの周りには、夜の闇と街灯の無機質な白い光、それと足元に落ちる二つの濃い影だけが残っていて、それ以外のものは全て、自分たちが元居た場所へと還っていく。初夏の夜に小さく響く虫の声や遠くの車道を走り去る自動車の走行音、そして、つい数分前まで彼女に抱いていた感情すら、どこか遠くの見えないところへ消えていく。辺りには夜本来の静寂が訪れ、内側からじわじわと身体全体に広がる熱を冷ますような、ひやりとした風が彼女の綺麗な黒髪を梳くようにそっと揺らす。
そんな沈黙が数秒続き、驚いたように開かれていた如月さんの口がにこりと、まるで夜空を切り裂く三日月のように形を変えた。
「私も、美春と同じことを考えてた」
そう言って笑う彼女の表情は、今まで見たどんな笑顔よりも静かで美しくて、可愛らしいものだった。
***
それから私たちは、街灯と白い満月の淡い光に照らされた暗闇の中に、ぼうっと浮かび上がる特等席に腰かけたまま一つ一つゆっくりと、なるべく丁寧に、自分という人間について互いに語り合っていった。
生まれた月。血液型。好きな食べ物。嫌いな教科。気になっている異性。お気に入りの小説。よく見るテレビ番組。今、一番欲しいもの。座右の銘。最も記憶に残っている夜の思い出──。
これまでの三年間、同じ教室で学校生活を過ごしていながら、どうして今まで彼女と言葉を交わすことをしなかったのかと後悔するほどに、彼女との会話は楽しかった。まるで自分の分身とでも話をしているかのような錯覚に陥るほど、彼女との会話はよく弾んだ。
そうして、ただでさえ時間の感覚が曖昧になる真夜中に時間を忘れるほど話を続けたことで、私がこの公園を訪れてから一体どのくらいの時間が経過したのか上手く把握することが出来なくなった。まだ三十分も経っていないようにも思えるし、もう少しで朝日が昇って来てしまうような気もする。
……いや。ひょっとすると、最初にこの公園で彼女の姿を見た時から、時間なんてものは一秒も進んでいないんじゃないだろうか。それならそれで、一向に構わない。私たち以外のあらゆるものが静止したこの世界で、彼女とずっと言葉を交わし続けていられればそれでいいと、私は本気でそう思った。
だって時間が進む世界では、どんなものにもいつか必ず終わりがやって来てしまう。そういう風に、この世界は出来上がっている。
だからどうか、世界から真夜中の私たちだけを上手に切り取って、ショーケースの中にでもずっと飾っておいて欲しい。……鳥がさえずる朝の来ない、静かな夜の中でずっと──。
けれど、そんなフィクションじみた妄想が現実になることはなく、気がつけば公園中央に設置された時計の時刻は、深夜二時を回っていた。
私たちもそろそろ、家に帰らないといけない時間だ。何せ、今日は月曜日。太陽が昇れば、いつものように学校へ登校しなくてはならない。私のわがままに付き合わせて、如月さんを寝坊させるわけにはいかなかった。
私は長い夢から覚めるように、彼女に向かって口を開く。
「もう、こんな時間。……私たち、結構長い間話をしてたんだね」
「そうね」
そう言って如月さんは微かに笑みを浮かべると、長い髪を前後に揺らしながら静かに立ち上がり、頭の上のキャップ帽を深く被り直した。それから、ベンチに座る私に体を向けて口を開く。
「美春とのお喋りは、なんだかとても楽しかった。もっと早くに話をできていたら私たち、……きっと親友になってたと思う」
まるで、物語における最大の敵が主人公と対峙した時に吐くようなセリフを何の違和感もなく口にする彼女に向かって、私は言葉を返す。
「うん。確かに」
しばらくして、真夜中の公園には二人の非行少女の小さな笑い声が響いた。
そんな夜に相応しい静かな笑い声は、やがて夜の闇の中へすうっと溶けていき、辺りには再び濡れるような静寂が訪れた。
私たちは次の言葉を模索するかのように、互いをじっと見つめ合う。
そして一秒が経過し、二秒が経過し、三秒が経過しようとしたところで、彼女よりも先に私の唇が動いた。
「ねぇ、如月さん」
「なに?」
「……私たち、今日からでも親友になれると思う?」
彼女の夜空みたいな濃紺色の瞳を見つめながら、尋ねる。
すると如月さんは、考え込むように「うーん」と小さく唸った後で言葉を返した。
「分からない」
「そっか」
私は、彼女のその答えに少しだけ安堵した。
きっと、今と同じ質問を如月さんじゃない別の誰かにすると、打てば響くように肯定的な答えが返ってくると思う。
「もちろんだよ」「絶対になれるよ」
そんな保証もない無責任な言葉が、彼女の口から出て来なくて良かった。
そう胸を撫で下ろしたい気持ちで短く息を吐き出すと、如月さんは「でも」と静かに言葉を続けた。
「……『友達』なんてありきたりな言葉では表せないような特別な関係には、もうなってると思う」
「えっ?」
「だって、考えてみて。真夜中の公園で夜について話をする女子高生なんて、他にいると思う? ううん、いない。そんなことするの私と美春だけだよ。……だから、私たちは特別。夜に出逢って始まった、私たちだけの特別な関係」
彼女はそう言って、想像もしていなかった言葉を耳にして驚く私の瞳を真剣な表情で覗き込む。
……まさか、如月さんからそんな言葉が出てくるなんて思ってもいなかった。それと同時に、私のことを〝特別〟だと感じてくれていることが、何だか無性に嬉しく感じた。
もう夏とは言っても夜風はそれなりに涼しくて冷えるはずなのに、顔と心臓だけがすごく熱くて溶けてしまいそうだ。口の端だって、さっきから無意識に上がってしまっている。
一体、今の自分がどんな表情をしているのか分からないけれど、とにかく如月さんにだけは見られたくないなと思った。
そうして足元の丸い影に視線を落としていると、如月さんは「さて」と声を漏らした。
「それじゃあ、私はそろそろ帰る。今日も学校あるし。美春も、帰りには気を付けてね」
「あ、うん」
私は全身を黒で包んだ彼女にそう返すと、徐にベンチから立ち上がる。
「如月さんも帰り、気を付けてね」
すると、それを聞いた彼女は、何かを否定するかのように小さく首を左右に振った。
「ううん、違う」
「えっ?」
思わず困惑の声が口から零れ出た私は、今一度彼女に向かって問い返す。
「違うって、どういうこと?」
今の短い会話の中で、何か気に障ることでも言ってしまったんだろうか。それなら何か謝罪の言葉を述べないといけない。
そんなことを思っていると、如月さんは私の目を見て囁くように呟いた。
「……『如月さん』じゃない」
それから彼女は、夜空みたいな濃紺色の瞳をこちらに向けて続ける。
「涼香。……そう呼んで」
その瞬間、空に浮かぶ白い月が強い輝きを放った。
向かい合って立つ私たちの影が、永遠にこの場所に残り続けるんじゃないかと思うほどの鮮烈な光。
私は、その後次第に落ち着きを取り戻していく月光を浴びながら、彼女が口にしたどこまでも透き通るようなその綺麗な名前を、何度も何度も頭の中でリフレインした。
そして、これから何度呼ぶことになるかも分からないその名前を、夜風に乗せるようにそっと口に出す。
「涼香」
「うん」
今日、初めて話をしたとは思えないほど自然にその名前を言えたことに、他でもない私自身が一番驚いた。まるでずっと前にも、こうやって名前を呼び合ったことがあるような気がするほど、何の引っ掛かりもなく彼女の名前を呼ぶことが出来た。
私はそれに続けて、先程のセリフを言い直す。
「気を付けて帰ってね」
「うん」
涼香は、つま先を公園の入り口に向け背中を私の方へと向けると、首だけを少し後ろに回して言った。
「それじゃあ、また後で。おやすみ、美春」
私も、彼女の背中に向かって同じように言葉を返す。
「うん。おやすみ、涼香」
彼女は微かに口元に笑みを浮かべて歩き出すと、そのまま公園を出て、真夜中の闇の中へと静かに消えていった。
***
私は彼女がいなくなった真夜中の公園で一人、夜空を見上げた。
『ミッドナイトブルー』とも称される濃紺色の夜空には、吸い込まれそうなほど大きな白い月が浮かび、その周りには砂粒ほどの小さい星のかけらが点在しているのが見えた。
私はそんな、遥か遠くに存在する生きた光の群れに向かって長く息を吐き出すと、公園を出て、ここに来るまで通ってきた道を反対方向にゆっくりと進んでいく。
そうして、家まで続く街灯の灯りがアスファルトに落ち、光の円を描くようにして照らされた静謐な夜道を歩きながら、彼女の言葉を思い返す。
──こうやって目を閉じるとね、夜にすっと自分の身体が溶け込んでいくような不思議な感覚がするのよ。……ねぇ、私の言ってること、理解できる?
私は街灯に照らされるアスファルトの上でふと足を止めると、そっと瞼を閉じ、記憶の中の彼女に向かってもう一度言葉を返す。
「……うん。わかるよ」
そうしてゆっくりと目を開けると、私は光の白と夜の濃紺が合わさった夜道を再び自分の足で歩き出した。
初夏に吹く涼しげな風のように軽やかな足取りで——。
そんな無駄なものが一切残っていない、静かでどこまでも透き通ったような帰り道から見上げる真夜中の空は、何だかいつもよりも一段と青く煌いて見えた。
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