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第3話
睨みつけることいくばくか、忍びではあり得ない優雅さでもって男が足を進める。
さん、と日本刀の一閃が藁を斬り倒した。3本斬り、どうにも見せ場であったらしい。虚しく転がる3本の残骸と、残心をとる男だけがそこにあった。
「おー」
ぱちぱち、と軽薄に手を叩くあやめ。真昼の寺社の敷地内には俺たちしかおらず、不景気ながらいちおう見世物の居合をやっていたので拝見した次第だ。
ひゅーひゅー言って陽気にお捻りを投げるあやめの背中。男は仏頂面だがあやめは楽しんだらしい。
太刀筋を思い返すとまぁ下手ではない。下手ではないのだが――
「おい…………いまのは、すごいのか?」
「え? まぁ、たぶん」
声を潜めたつもりだったのだが聞き咎められた。斬りかかられるかと身を引くが、黙々と用意を進めた男が再度藁を睨み据える。
鯉口を切った。男の甲高い声、稲妻のように翔ける白刃、今度こそ俺もあやめも目を見張った。
†
寺社をあとにし、あやめと道を歩きながら俺はからの手で軽く動きをなぞってみた。
「…………速かったな」
「だねぇ」
人体とは、自分の腕とは存外重いものだなと得心した。忍びとしての自分があの男に脅威を感じたのだ。あれでは立ち会えば小間切れだろう。いずれ果し合いの場で巡り合ってしまわぬことを祈ろう。
まぁああいった手合いは正面からやり合うのではない。立ち会えばその時点で下策なのだ、と自分を戒めながら昼の町をゆく。
街道沿いにあった見知らぬ町だ。それなりに活気があり、街道のそばということもあってか娯楽に満ちていた。先の居合などもその一例だ。
に、しても――。
「居合いをみる用件だったのか? これは一体どういうつもりなのだ」
「あ、旦那旦那! 孔雀だよ! 噂に名高い外国鳥!」
橋のところでまた見世物。仰々しい鳥だ。あのような着物をどこぞで見たことがある。
孔雀に興味津々で見世物親父の話を聞いている横顔は、まったくもって歳相応の少女のようだった。
「……付き合っていられるか……」
しかし、放っておいて逃げられたらそれはそれで困るのだ。立ち去ろうとした足を止め、女を視界に収める。
ただ楽しんでいるだけのように見える。何を、考えている――?
†
顔が引きつったまま戻らなくなった。それほどまでに酷いものをみたのだ。
「いやー、すごかったねぇ旦那。いやすごかったねぇ旦那。あたしゃナマの相撲ってやつを初めてみたよ、いやー、いやいやすごかったねぇ旦那」
隣を歩く女は、元通りの遊女じみた着崩した着物。椿の入れ墨も変わりはしない。目をきらきらさせて回想にふけっていること以外は千月あやめだった。
大相撲を見てきた帰りだ。あやめの手には記念の土産に、力士の錦絵まであった。
「最高だったねぇ旦那、ねぇ、ねぇ最高だったねぇ旦那?」
そんな恋する乙女のようなあどけない目で見られたとて、こちらは相撲より遥かにとんでもないものを見せられた帰りなので到底そんな気分ではなかった。
――――余談、この時代、相撲は女人禁制なのである。
「……ぐ」
思い出しただけでゾッとする。目の前のくのいちときたら、相撲を見るためならば気合を入れた忍び変装も辞さないと言って聞かなかったのだ。ああ、まったく素晴らしい出来だった。関心せざるを得ない高度な変装技術だった。――その、女人禁制の場に忍び入ることが出来るほどに。
「おばあちゃん、みたらし2本とあん団子3本! 熱いお茶も忘れないでよ!」
「あいよぉ」
気がつけば通りすがった団子屋に陣取っている。こちらは立ったまま、あちらは知らぬ間に腰を下ろしてくつろいでいた。
「ふぅー……あれ、どうしたんだい小太郎の旦那? はい、座った座った」
「……お前は、一体」
何がしたいのだ。ただ遊び呆けているようにしか思えないのだが。
――――昨夜の鴉天狗の死体と、そのそばに立つおぞましい目の女が浮かぶ。目の前で頬にあんをつけている女とは結びつきやしない。
「ったぁく、遊びひとつにも問答が必要なのかいこの男は。はい分かったよ。話してやるからとっとと座っとくれ、目の前に突っ立ってられると団子が食べにくいのさ」
「…………」
座敷犬の心境を理解する。座れと言われて座ることは屈辱的としか言いようがない。
隣であむあむと美味そうに団子を食う女を視界から追い出し、活気ある町の風景を傍観した。同じ着物でも様々な人間がいる。貞淑に日傘を差して歩く婦人もいれば、刺青だらけの筋骨隆々たる上半身を晒して肩で風を切る坊主頭もいるし、俺と同じように暗い影を背負った男もいる。流行りの着物も本書きが流布した好ましいとされる髪型もある。そんな有象無象の中、団子屋で腰を下ろす俺たちだけが浮いている。
忍びなど異分子だ。市井に溶け込むことは一生あるまい。目の前をゆく人々の流れの外へ追い出され、こうして隅でその流れを傍観する。いままでと何も変わらない、外側の異端としての自分自身。
だが珍しく、今日は隣に自分と同じような者がいたのだ。
「――――すまないね」
萎れた声、意味はよく分からなかった。しかし、その言葉は間違いなく、仮面の下の俺の本心へと向けられた言葉なのだ。
「仲間を殺しちまって、すまないね……」
あやめも、町を傍観していた。自分は一生混ざることのない、川のような他人の流れを。
俺の脳裏にようやく、鴉天狗の仰々しい仮面が蘇った。
「…………仲間ではない。」
「そうなのかい? よく、分からないよ」
あやめは雨の翌朝の、澄んだ水たまりのような目をしていた。
「かつては仲間だった――いや、単に同業だっただけだ。お前と同じさ。顔以外は何も知らない他人だ」
相棒なんてのは、仕事の時に顔を突き合わせるだけの道具に過ぎなかった。俺が奴の妹を屠る以前に向こうが突っかかってくることもあったが理解不能だった。俺たちは延珠の里に所属する、暗殺者というただの機能だ。並べ置かれた隣の苦無を愛おしく思う苦無などない。仲間なんて概念はどこにもないのだ。
「……俺が奴の妹を殺し、そこで相棒としての関係も終わった。もともと何の執着もなかったし、到底好ましい相手ではなかった。はっきり言って、どうだっていい――」
それにしてもまるで分からない。奴も妹も里の忍びとして覚悟を決めて生きていたくせに、いざ妹が死んだら奴は俺を憎んだ。ただでは済まないことを覚悟で手ずから殺しに掛かってきたのだ。
結果・犬死にした。俺は鴉天狗が殺されたとて、絶対にそのような愚行はおかさない。
「………………悼んで……いるね」
――――何?
「旦那は悼んでいる……あの男の死を、ひどく悲しんでいるんだ…………」
あやめが、澄んだ目をして俺を見ている。どこか荘厳で気圧される。……何を馬鹿な。俺が何故、あのような男の死を悲しまねばならない。どうでもいい相手がどうなった所で、まるで痛みやしないのだ。
「悪いが、そのような同情心は持ち合わせていない。あの男はどのような愚かな死に方をした? 間抜けだったか? ――興味がない。俺は里の忍びに仲間意識などない」
「そうだね……でも、旦那。あの男は違うんだよ。妹を殺した。恨まれて殺しに掛かってきた。それが自分の預かり知らないところで死んだ。旦那にとってそれはきっと、ひどく重い自責の後悔なんだ……」
女の表情が重いものを背負ったように沈みきる。そこで、すべての感情が冷め切ってしまった。
俺は何を血迷って、こんな所で安穏に女の感傷に付き合わされている? 目の前の相手は、ただ根拠のない情に浸っているだけではないのか? ――ああ、そのような愚かな女もいた。派手な着物で着飾って、他人に依存することで飢餓を補おうとしていたつまらない女だ。
「用は済んだか。満足したか? そこらで時間を潰している。ではな」
意味のない時間を過ごした。あやめに背を向け、俺はまた、溶け込めるはずのない町の流れに身を浸す。
「ああそうだ――今日の遊び歩きがお前なりの謝罪だった、などとは言ってくれるなよ。お前の腕や隙のなさ、そして薬を食らいながら鴉天狗を下した胆力はそれなりに評価しているのだ。最後の暗殺に不足ない相手だとな。これ以上、くだらん感傷で評価を下げるのはやめろ」
対象を絆して自らの脆さに引きこもうとする素質も、暗殺者という機能としては悪くないのかも知れない。男の情に訴える。ああ、くのいちらしい姑息な手法だ。
そう――この女もまた人殺しだ。数えきれないほどの人生と尊厳を手にかけてきた人型の災禍なのだ。人ではない忍びが、修羅が先のような人らしい感傷など持ち合わせているはずがない。
この女の感傷は仮初の演技だ――修羅は感情など持ち合わせない。
また、毒の言葉を背中に浴びせられる。
「人の死が重くない人間なんて“いない”よ――」
そのような弱々しい声の演技で、俺を貶めようというのか。誰が振り返るものか。つくづくどこまでも不愉快な女だ。
「ねぇ旦那? まるで悼んでなどいない。そう言う割には珍しく、さっきからずぅぅっとひどい顔をしているじゃないのさ……」
意味のない言葉が、町の流れに呑まれた。
†
帰り道は一切の会話がなかった。珍しくあやめも口を塞いでしんみり歩き続けていた。
まだ日は高い。久しぶりに静かになった気がした。お互い、顔を見合わせることも相手に興味を示すこともない。
――――もともとこういう間柄なのだ。こじれたとはいえ、俺はこの女を殺すためにここにいる。色々と有耶無耶になってしまっている部分はあるが、こうして隣を歩いていること自体が不思議だった。
あやめは呆けてしまったように溜息をついた。
「…………ふふ………嫌われちまったね」
別段、もともと好かれてもいないがな。蝶の鱗粉を吹くような吐息が憂鬱げだった。
「まぁ、いいよ。宿に戻って、昼ごはん食べて、またしばらく町をぶらつく。旦那は好きにしておくれ。あたしゃこの町が気に入ったんだ」
けらけら笑う女だが、返事を要求されているわけでもあるまい。あやめは、勝手に話を続ける。
「いいよねぇこの町。なんていうか、どこかしこと趣向があって、みんな遊びに貪欲で飢えてて浮かれた感じだ」
道すがら猿回しを見掛け、ほんの一瞬だけ足を止める。はしゃぐ子供に興味深そうな男女。確かに、いっそ小規模な祭りみたいなものだろう。
「――遊びは大事だよ。うん、きっと、とても大事なことなんだ……」
楽しいような淋しいような曖昧な声だった。それきりまた黙って、ぼうっと童女のように青空を見ていた。人混みに溺れるような街の片隅から。
――――宿に帰りついた途端、事件は起こった。
「ただいまー」
がららと戸をくぐってあやめが気だるそうに声を投げる。気さくだった宿屋の店主の声はない。
「おやま……何だろう、騒がしいねぇ」
確かに、どたばたと走り回るような音が聞こえる。なんだ? 転びそうにながら店主が階段を下ってきた。
「お客さん、お客さん!」
「なんだい騒がしいねぇ。河童でも出たのかい」
店主の返答ははっきりしない。青い顔をして2階、俺たちの部屋を示すばかりだ。
あやめの目が熱を失い、憑かれたように階段を上がっていく。俺は店主の憔悴しきった顔を見た
「何があった」
「……へ、部屋……部屋が、っ」
自分の目で確認したほうが早いと溜息をつき、階段を上がる。戸を開けたまま立ち止まるあやめの背中があった。肩越しに見える室内。
――――何のことはない。部屋が荒らされていたのだ。
「ふん……そういうことか」
目的は盗みではあるまい。忍び込んだはいいが、俺たちの留守に腹を立てて徹底的に破壊していったのだ。
「店主。下手人は見たのか」
「か、顔を隠した奴ら、が……ッ」
見ていたらしい、よく殺されなかったものだ。それにしても。
「……忍びか。なるほど、どうにも――本気で命を狙われているようだな」
乾いた笑みが浮かんだ。胸の中にあった堤防のようなものが瓦解していく。つまるところ、延珠の里は俺に死ねと言いたいらしい。
しかしはっきりして欲しいものだ。俺の最後の任務は暗殺なのか、自害なのか殺害されることなのか。まったく面倒で困る。
「――出よう、旦那」
「何?」
「町を出るのさ。こんな所にいたら見付かっちまうよ」
あやめは無事な荷物を拾い上げ、早々に階段を降りていった。どこか冷めたような目をしているように思えた。
「……町をぶらつくのではなかったのか」
気が重くなる。俺は一体どうすればいいのだ。命令通りあやめを暗殺し義を示せば、元の鞘に収まれるのか?
†
一段と静かな景観の中をゆく。人の姿はなく、しかし穏やかな、よく晴れた冬の田んぼ道だった。
遠く向こうの山まで視界を隔たるものはない。整然と、時に雑然と仕分けされたこの土地も、収穫を終えた冬となってはどこか淋しいものだ。
色抜けた大地を懸命に飾るように、橙の雛芥子の群れが点々と咲いていた。
「ねぇ旦那、ドジョウだよ。夏なら蛍が見れそうだねぇ」
そう言ってあやめが見下ろしていたのは、路地の左側をゆく小川のせせらぎだった。雄大な雲の流れを反射している。
ついに街道を外れて田舎道へ来た。ひとつ小山を超えてかなり歩いてきたのだがまだ日は高い。もともと、あの街道を直進していくことはあやめの任務内容だったらしい。あやめは任務を放棄したのだ。
俺は、どうだろう。うやむやのままひとまずあやめを見失ってはどうにもならないとついて来たが。
「いい天気だねぇ」
――不思議なことに。何かが吹っ切れたように、あやめは翻って機嫌を直していた。どこか老後のばあさんのような色抜けた声に感じるのは気のせいだろうか。
秋の空というやつかも知れない。冬空を見ながら考える。本当に、まったくこの女の考えていることは理解不能だ。
「あ。ねぇねぇ、小太郎の旦那はどこの出身なんだい?」
すべて忘れて水に流した、というように明るい顔を向けられる。生気が有り余っていることだけは羨むべきなのかも知れない。
「……さてな。北の方だった気もするし、南の方だったような気もする」
「なんだいそりゃ、旦那は隠し事が好きだねぇ。あ、ちなみに私は江戸出身の大阪住まいだったよ。気持ち江戸のがふるさとって感じがする。見えないだろう?」
「見た目通りだな。特に意外なことでもない」
「そうかい? まぁ江戸も大阪も、10に満たない子供の頃の話だけどね――」
そういえば聞いた気がする。確かあやめは父が商人だとか言っていた。任務上の捏造だと思っていたが。
「覚えとくといいよ。うまい嘘のコツはね、真実を混ぜることなのさ」
なるほど確かに、商人の娘が武士の娘を演じるよりは、商人の娘が商人の娘を演じるほうが余計な齟齬もなく効率的だろう。
しかし分からない。
「お。珍しいね、何か聞きたそうな顔」
あやめに興味が湧いたわけではないが、理屈が合わなくて不快なのは確かだ。
「……その商人の娘が、なぜ延珠の里で忍びなんかに身を落としている。大人しく家業を継ぐなり富豪に嫁ぐなりすればよかったのではないのか」
「そりゃ無理だ。一家全員、とっくの昔に延珠の忍びに皆殺しにされちまったからねぇ」
感情の抜けた、幽霊のような声だなと思った。ああ壊れている。千月あやめの人生は、幼少の頃に根底からねじ曲げられていたのだ。
――――折れるほどに。
「言ったろう? 父の商いで大阪に住んでたのは、10に満たない子供の頃の話。それ以後はずっと、延珠の里のくのいちさっ」
笑い話のようにあやめが語ったのは、壮絶極まりない半生だった。
「……親の仇のもとで暗殺者か。俺が言うのも何だが、ろくなものではないな」
「そうだね。でも、目の前で家族を殺された小娘に、そんな選択権があると思うかい?」
あるわけがない。善悪や憎しみの判断さえつかぬ幼い子供を攫って、年単位の殺すような訓練で徹底的に使えるよう“調整”する。よくある話だ、土台、秘密裏の忍びの里に志願者なんてものは現れ得ない。
「身売りするか暗殺者になるかと突きつけられたよ。ねぇ旦那、どっちがいいと思う? 選択権といえば、それが私に与えられた唯一の選択権だった。どっちなら楽だろう」
どちらも大差はないだろう。人を壊す道か、人に壊される道か。
「――あたしゃ自分が痛いのが嫌でね。他の娘たちから身売りの酷さも聞かされたし、結局人殺しの道を選んだのさ……」
ざぁぁああ、と狼の群れのような風があやめの髪と着物を揺らし、田園風景を撫でて駆け抜けていった。
あやめが、その風に手を触れるように手のひらを上に向ける。そこに緋色を幻視した。
「それからは生きた人間を死体処理する人形だった――ねぇ旦那、忍びの候補生のガキにさ、まず生き物殺すことを教えるだろう? 旦那はやらされたのかい、アレ」
アレといえば、アレのことか。俺自身はかなり昔のことなのではっきりと覚えてはいないが。
目の前のあやめと結びつけにくい、あどけない千月家のご令嬢だった頃を重ね合わせる。
怯える少女、その手の短刀。
「…………“犬殺し”か。ああ、確かに商家育ちの小娘には厳しいだろうな」
短刀ひとつ持たせて、牢に入れられ犬と共に過ごすのだ。食料は一切与えられない。犬を殺すまで牢から出してはもらえないのだ。
犬といっても気性の荒いものもいれば、どこからか攫ってきた、人懐こい穏やかな座敷犬もいた。
それを、殺すのだ。殺さない限り食料を与えられずに飢えて死ぬ。狭い牢の中で、犬と共に死ぬしかないのだ。
それが犬殺しと名付けられた、いきもの殺しの初級鍛錬。いままで平穏に生きてきた子供たちに、人間をやめさせるまず一歩なのだ。
「可愛い犬っころでさぁ……ああ、思い出しただけで涙が出そうになる。三日三晩、ただの一度も吠えずに私のそばに居て、寒い牢で一緒に眠ってくれた友達だった……」
3日もすれば餓死は見えている。目と鼻の先の死だ。監禁され、飢えて苦しみながら犬と共に眠り死を待てば、部屋の大気すべてが恐ろしく思えてくるものだ。
何よりつらいのは、
「――水だな。」
「そうだね。本当、あれは地獄だったよ。餓死の前にまず水が来る。水がないと、人間は脂肪を燃やしきる前に死んじまうのさ」
吐き気をこらえるように、あやめが口元を袖で覆った。
「胃の中が焼けるように熱かったよ。いまにして思えば、胃酸で溶けてたのかも知れないねぇ」
それにしても3日。それだけ一人の少女が粘ったのだ。どこにも希望などないというのに大したものだろう。
だが、飢えに屈し心の折られたあやめは、ついに目の前の相棒を殺そうとする。
「でも……いきものは死ににくい。覚悟を込めていざ喉を裂いても、ねぇ、刃物って切れにくいよねぇ。どうして生きてるやつって、あんなに切れにくいのかねぇ?」
素人の下手な殺しが出会う光景はまずそれだ。殺したと思っても殺し損ねる。見たこともない量の血を撒き、見たこともないような苦しみ方をする死にかけに凍りついて我を失う。
最後は血だらけになって、これでもか、これでもか、と叩きつけるしかない。
「――――吐いたよ。吐く胃液すらなくなっても吐いた。血の、あたたかさが恐ろしくってねぇ――」
……やはり、あやめは自らの手のひらに血を見ていたのだ。すぅと顔を上げるも、髪に隠れた横顔の表情は読めない。
「ねぇ、旦那はどうだったんだい? いままで当たり前にあった平穏を失って、何を思った?」
「……悪いが、俺に平穏などなかった。真っ当な生まれでなかったのでな」
「そうなのかい? じゃ、旦那は家族の温かみも知らず、当たり前のように忍びになった?」
「それでも真っ暗だったような気はするがな。――ああ、漠然と、やはり世の中は地獄だったのだなと受け入れた」
久方ぶりに足を止め、振り返ったあやめと向き合った。この女はかつて、暖かい家庭で大切に育てられていた少女だった。
似ているようで、俺とは真逆のように違うらしい。
「ねぇ――」
その瞳に今もあるその澄んだ輝きが、幸福というやつの残照なのだろうか?
あやめは、無表情に問うてきた。
「始めからない人生と、もとある幸福を失ってしまう人生なら……一体どっちが惨いんだろうね?」
そんなの、問われるまでもない。俺は生まれつき幸福な家庭を知らない。だから、あやめと違って家族恋しの念に駆られることも、あったはずの温度を悔いることもない。
「つらいのは失う方だろう」
「淋しいのは、もとから無い方だろうね――」
何故だか優しく諭すように、あやめが俺に微笑んでいた。もとから無い方が淋しい? つくづく分からない、寂しがるのは、家族の温度を知っている方だろうに――。
そのとき、俺の背後でどさりなんて何かを落とすような音が聞こえた。
「……?」
殺気はない。振り返れども、見知らぬ田舎娘が足元に荷を落として愕然とこちらを見ていただけ。訳がわからない。そんな風に幽霊でも見るような顔で見られる覚えはない。
「――――、お凛? まさか、お凛かい?」
「なに?」
なるほどあやめの知り合いか。どういう成り行きか知らないが、少女の方はあやめを見つめ、目に涙まで溜めている。
「あやめ、さん……っ!」
田んぼ道の真ん中で、再会を喜び合うあやめと少女の間に挟まれていた。
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