第4話

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第4話

 田んぼ道を少しばかり行くと、小規模な農村があった。中年や老人ばかりの村だ。夕暮れ時も相まって昼寝しているように沈んでいる。  そんな風景の片隅に埋もれるように、その屋敷は門を構えていた。もっとも、屋敷といっても風通しの良さそうな古家で、門といっても廃墟じみたお情け程度の残骸だったが。  凛という少女に招き入れられ、門をくぐった所で庭に柿の木を見つけた。実も葉も落としながらそこに居残っているこの木こそ、この家を象徴しているのではないかと思えた。 「旦那、何してるんだい。早く早く」  開けっ放しの玄関からあやめが呼んでくる。溜息でもつきたい心境で敷居を跨ぐと、そこで老夫婦が歓迎してくれた。 「あらまぁ、いらっしゃい。うちの子がたいへんお世話になったそうで」 「ささ、上がった上がった。汚い所じゃけどな」  そういって爺さんは右頬を吊り上げた。男くさい鋭い笑みが、若かりし日の面影を残す顔によく似合っている。  話によると、凛はこの家で老夫婦とともに3人暮らしをしていたらしい。 「――――お凛はね。延珠の里に捕まって、私たちと同じ道を辿るところだったのさ」  縁側で、湯のみを手にしたあやめが言った。老夫婦はいない。凛が、急須で俺にも茶を淹れてくれた。 「どうぞっ、若旦那!」 「……ああ」  胸中複雑だが、そのよく分からない呼び方はあやめの影響なのだろう。自分の茶を拵えてパタパタとあやめの横に陣取る娘だが、そうして並んでいると血の繋がった姉妹のようだ。  どう見ても普通にしか見えないこの娘が、延珠の里に。 「暗殺者になるか、身売りになるか選べって言われたんですよ。本当忍びの里は勝手ですよね、資金を作るために女を道具扱い。まあ、選択肢があるだけ男衆よりかはましだったのかも知れませんけど。……あれ? 逆に不幸だったのかな」  うーん? と娘が我が家の金銭事情のように語ったそれは、多くの暗闇を孕んだ内容だ。「……そうだね。でも、例え人生の岐路に立たされても、人を傷つけることを善しとしなかったお凛には恐れ入るよ。私は、そんな風にはなれなかった」 「よしてください。私は馬鹿で間抜けな小娘ですよ。それを、あやめさんが救ってくれたんじゃないですか」  凛は、切実なものを湛えた目であやめをまっすぐに見ていた。 「あやめさんが、里と取り引して私を自由にしてくれた。解放されたときは住む家もなかったけれど、こうして気のいいおじいちゃんとおばあちゃんに巡り合って、家事や畑仕事を手伝いながら穏やかに生きていられる。あやめさんは私にとって、人生を救ってくれた恩人なんです」  眩しそうに目を細めて微笑む。あやめも似たような表情だった。  俺からすればいっそ不思議なくらいだ。忍びの里と関わったにも関わらず、凛は健全にまっすぐな娘としてやっていけている。  なるほどあやめがこの娘に親身になっているのは、自らの希望の写し鏡だからか。 「ねぇお凛、聞かせておくれ。あれからいままでどんなふうに過ごしていたんだい? 私はずっとずっと心配でならなかったんだよ」 「はいっ! えっとですね、あのあと山を下りて――」  そこから先はよく聞いていなかった。話し込む二人の背中を見ながら一人で茶をすする。 「……?」  えらく渋いな。爺さん婆さんの好みというか、鈍った舌に合わせているのか。この年齢でしっかりしているし、老人の世話も大変と見える。  表情豊かに話すお凛を見て、あやめも楽しそうに声をあげていた。断片的に聞いているだけだがなかなかに大変だったらしい。確かに、里の外にも里の外なりの過酷があるのだろう。  俺には、その感覚は分からないが。女二人の細首、そこにどれほどの握力を込めれば綺麗に殺せるかまで知っている。手に染み付いた感覚だ。俺の手は、この二人をたやすく殺してしまえる――そんな視界。  俺はあやめを殺すのだろうか? 凛の話に感じいったのか、いつの間に目尻に涙まで浮かべて笑っているが。 「あのっ、おふたりは恋人なんですか!? 一緒に駆け落ちしてきたんですか!?」  羨望のような期待のようなもので頬を染め、乙女が俺の方に身を乗り出してきた。  あやめと恋仲? 冗談じゃない。 「悪いが――」 「ああそうさ、旦那は私の旦那様になるお方だよ。オトコマエだろう?」  黄色い声を上げる凛。俺を制して嘘を教えたあやめが、こちらに視線で「話を合わせろ」と言ってくる。 「よかった……あやめさんも、ちゃんと素敵なひとを見付けたんですね……」  本当に、よかった――と凛が胸を撫で下ろし、あやめの肩に凭れた。 †  あやめと凛、女二人が台所で夕食の用意をする背中を見せていた。  こちらは手持ち無沙汰というか、そもそもこの家に用がない。居心地がいいわけでもなく、どこかで時間を潰しているかと立ち上がった途端、目の前に爺さんが現れる。似合わない盆なんか持って、二人分の茶菓子を載せていた。 「おう兄さん、ゆっくりしとってくれやねぇ。ほぉれ、羊羹食いね」  そう言われては、腰を降ろすしかない。渋々また縁側に座り込んで茶を飲む。一体何杯目だろう、あまり渋い茶ばかり飲んでいると腹を下しそうだ。 「どうだんね、将棋でも」 「いや……俺は」 「あぁさよか。まぁ、それもよかろうて」  血のように赤い夕陽を、誰とも知れない老爺と共に見ていた。将棋盤を引っ込めた爺さんは少しばかり退屈そうだったが、こちらはそのような娯楽のやり方など知らない。  のどかに暮れていく農村の片隅で、夕焼けを横切る柿の木が影になっている。なんだか砂っぽい、しかし温かみのある場所だと思った。  台所に婆さんも加わって、女どもがいっそうはしゃいでいる。特にあやめが嬉しそうだった。この壊してはいけないような空気に理解する。  ――ああ、これが、あやめの恋しがっていた家族の温かみというやつか。  俺自身は無感情に理解している。理解した所で何が変わるでもなく、自分がその流れに参加するわけでもないが。 「好きなだけこの家におればよか。もう兄さんも疲れたやろね」  背中を丸めた爺さんが言った。耳に響く女たちの声に、何故だか優しい顔をしている。  その傍らの湯のみの横、食べかけだった羊羹の笠になるように一枚のもみじの葉が乗った。 † 「よかった」  消え入りそうな声であやめが零した。場所は変わらず縁側、夕焼けもそろそろ宵闇色に塗りつぶされかけている。  凛も爺さん婆さんもいない。おそらく娘が気を利かせたつもりなのだろう、意味のない気遣いだが気楽ではある。 「ああよかった。縁起でもないけど、もう思い残すこともない――って感じだよ」 「……そうか。なら往くか」 「あはは。旦那は冗談が通じない」  そう笑ったあやめの姿は、夏祭りが終わったあとに花火の消えた空を見ているようだった。  あるいは、その辺りにある黄泉の国でも探していたのか。 「ねえ旦那、お凛は幸福だ。まっすぐな乙女のままでいる。これからもきっと、殺しや身売りとは縁のない穏やかな人生を生きて、いずれ優しい農夫の男でも見付けて夫婦(めおと)になるよ」 「……そうか」 「よかった。本当に、安心したんだよ――」  そう言って深い息をつくあやめは、やはり凛のことを想う実の姉のようだった。  姉は、妹に、自らが心のどこかで望んでいた幸福を託したのだろう。その成就にたいそう喜んでいるのだ。 「――ねぇ旦那。誇っても、いいかな?」  その掌がまた、見えない生き血を掬い上げる。緋色を見下ろしてなおあやめは微笑んでいられる。 「私は守りきれたんだ。あの時、延珠の里の狭い牢で泣き腫らしてた可哀想な女の子をさ、この千月あやめが救ってあげられたんだ。人殺しばっかして生きてきた私がさ」  成る程、そういう考え方もあったのか。俺は人を救った覚えなどない、あやめとは違う全面的な人殺し一色だが。 「…………ここにいよう、旦那」 「何?」  風が冷たくなってきた。否、もとより冷え切った冬の風ではあるが――それでも、よりいっそう冷えたのだ。 「ねぇ知ってるかい? あっちの方にさ、ひとつ大きな山があるんだけど、冬は雪山、春には桜の山になるんだって。その桜がまたたいそう綺麗らしくてさ」  凍てつく風を浴びてなお、あやめは夢見ているようだった。その顔がどこか弱い人間らしさのようなものを取り戻しつつあることを感じた。  ――不意に。  あやめが俺の着物を掴み、初めて俺という人間に縋った。その顔には歳相応の不安しかなかったのだ。 「――――桜が咲くまで、ここにいよう。ねぇ旦那、お凛たちと一緒に、家族のように暮らしていこうよ」  ……ああ、忘れていた。あやめは女だ。里に追われ、目の前には暗殺者、どこまで逃げても追ってくる延珠の忍び――このような過酷な旅が恐ろしくないはずはなかったのだ。  あやめの潤んだ双眸が俺を見ている。吸い込まれてしまいそうな目眩を感じて、その意味を理解し損ねる。何かを思い起こしそうになって恐怖さえ感じた。  虚勢を張るように、俺は言ってはならない言葉を言ってしまっていた。 「俺は関係ない。残りたいならば一人でここに残れ」 「ひとりは淋しいものだよ。旦那は忘れちまってるかも知れないけれど、本当に……本当に淋しいことなんだ」  そのような感覚は俺には理解できなかったが、かつて幸福だった女がそう言うのならそうなのだろう。 「…………は……」  がっくりと肩を落とした。乾いた笑みが溢れる。 「ああ――お前の言うとおりだな、あやめ。きっとここに残るべきなのだ。そうでなければ淋しい」 「だろう? なんだ、分かってるじゃないのさ」  淋しいという言葉の意味さえ、俺には理解できないけれど。 「家族のように暮らそう。みなで食卓を囲み、意味のない語らいに花を咲かせよう」 「そうさ。そうやって毎日を繰り返していくのさ」 「爺さんに、将棋でも教わろうか、娯楽など時間の無駄だが、退屈しのぎには向いているかも知れない」 「そうだよ。私は毎日、お凛と一緒にとびきり美味しいご飯を作るさね。畑仕事だって覚えてやる。旦那も、この家の人間になったら畑仕事するんだよ?」  畑仕事か――まったく想像もつかないが、それはきっと穏やかな日々なのだろう。  朗らかに未来を語らい、俺は初めてあやめと和やかに談笑した。笑いあい、たまに叱られ、だがあやめは楽しそうだった。軽く酒も飲んで、夜遅くまで居間であやめと過ごした。  その夜、俺は老夫婦と凛を惨殺した。 †  血濡れた切っ先が緋の線を描き、まっすぐ畳に落ちて血溜まりに溶けていく。寝静まった深夜の、息も凍えるような暗い夜のことだった。 「なんで……」  ことここに至って、あやめの顔が浮かべていたのは非難よりもまず困惑だった。構わず俺は睨み据えていた。傷を負い、しかし体を引きずって壁まで逃げてきた少女の眉間に短刀を向けている。  ――血濡れた、凛が俺をきつく睨み返している。 「なんで……ねぇ、なんでだよ旦那! どうして……どうしてこんな惨い真似を……!? そんなに私の話が気に食わなかったのかい、だったら何故! どうして私を殺さないんだよ!」  泣き崩れるように、あやめは老夫婦の亡骸に縋る。どちらも死んでいる。俺が殺した。仕留め損なうことは万に一つもない。慣れ親しんだ仕事を淡々と終えただけだ。  凛は俺を見上げながら、震えている。憎悪を浮かべようとするのにうまくいかない。当然だろう、死ぬというのはそういうものだ。 「――どうした。心が折れそうか? この、ドブネズミめ」 「っ!」  俺の嘲弄に、少女が怒りで顔を赤くした。あやめの声は悲痛だった。 「やめとくれ! 頼むよ、お凛は、その子だけは――! ねぇ、なんで!? どうしてこんな、酷い真似を……っ!」 「どうして? 何故だと? まったくどうかしているなお前は」 「え……?」  凛がいっそう、猫のように視線を強める。そこに昼間の純情さなどない、嫉妬に狂った妖怪のような視線だった。 「何のことはない――爺さんは茶菓子に睡眠薬を混ぜ、婆さんは荷物から短刀を抜き去った。極めつけはこの娘、俺が薬で眠っているものと見て寝首をかきに来たのさ」  あやめが亡者のように温度と表情を失う。あとは話すまでもない、襲ってきた凛から短刀を奪い返し、庇いに入った老人二人を殺しただけ。何の苦労もない、あっさりとした平穏の終焉だった。 「なん、で……どうして、お凛がそんなこと、を?」 「騙されていたのだ。いい加減に受け入れろ、この娘も爺さん婆さんも、延珠の里の暗殺者だ。俺たちを殺す任務だったのさ」  錆びついたカラクリのようなあやめの視線が、幽霊でも見るように凛を見る。憤怒。憎悪。恐怖。絶望。そんなものしかない、明るかったはずの凛の顔を。 「ちぃ――この、木偶(でく)がァ……ッ!」 「いよいよ本性が出たなネズミ。で。なんだ? どういう経緯だったかくらい言い遺しておけばどうだ」 「ちくしょう……この野郎!」  男子のような声を上げて掴みかかってきた娘を、しかし片手で転ばせ畳に押さえつける。がむしゃらに腕を振り回して暴れようとも無意味だ。実力も腕の長さも単純な筋力も違いすぎる。赤子を嗜めるように顔を、目隠しするように押さえつける。  ――家畜の屠殺は、目を閉じさせてするものだ。視界を閉ざされれば畜生でさえ抵抗をやめる。  だというのに、この娘は生き残れないと悟ってなお開き直りこちらに怨嗟を向けてくる。 「ああそうだよ、アタシは延珠の里の暗殺者だ! この死に損ない共め、なんで生きてってんだよちくしょう! はなせ! 汚い手でアタシに触れんなぁあ!」 「な……なんで、お凛!? どうしてアンタまで暗殺者なんかに!? 里との取引は――!」 「はぁっ!? 馬鹿じゃねぇの、土台忍びの里がそんな取引に応じるわけねぇんだよッ!」  あやめの表情がいよいよ悲痛に泣きそうに歪んでいく。 「てめぇのせいでアタシは、選択肢を奪われて人殺しの道へ進まされたんだ! どうだよ、コロッと騙されちまったろ!? 再会を喜んで信じきっちまったろ!? アハハ、そうやってみんなアタシの見てくれに騙されて死んだんだ! 姑息な手を使って暗殺暗殺暗殺、ふざけんなよ! 人を殺すのが嫌だから身売りを選んだのになんでアタシは血まみれなんだよ! ちくしょうっ、全部おまえのせいだぁあっ!」  びくりとあやめが震えた。凛の暴れ方は聞き分けのない、駄々をこねる子供のようだった。  「この汚らわしい人殺し共め」と叫ぼうとした凛の喉を掻き切り、みなまで言わせなかった。別に意図したことではないが。凛は血を吹きこぼしながらのた打ち回る。  喉を裂かれ、潰れた声を上げて鼻から口から血を吹きこぼすさまは凄惨だ。毒でも食らったように煩悶している。  暫くは死ねまい。死ねないように裂いたのだ。せいぜい悶え苦しんで死ぬがいい。殺しを知り尽くした忍びに襲いかかるというのはこういうことだ。 「………………」  石のように立ち尽くしていたあやめの横を抜け、俺は屋敷を出た。氷のような大気。いつの間にか田園風景を雪の白色が覆い始めていた。 † 「よう、久しいな小太郎」  雪の積もる山道を歩き始めた途端、後ろから声を掛けられた。これから延珠の里へ行こうというのに邪魔が入る。降雪は、既に背後に立っていた3人組の顔が見えないほど濃くなっている。  俺に声を掛けてきたのは先頭の、剛健たる粗野な剣客だった。見覚えがある。延珠の里の、力自慢の忍びだ。 「……何の用だ」 「おぉ怖い怖い。その目、相変わらず悪鬼の双眸だねぇ」  力自慢の後ろに立っていた坊主頭が言った。特大の槍を背負っている。こいつらは相棒同士、任務の際にはいつも二人で行動している里の道具だ。  その背後に静かに立っている清廉な男は別口だが、とかく前の二人は分かりやすかった。 「決まっているだろう、小太郎。“刀”を抜きな」 「はッ! 俺たちはよぅ、小太郎がお払い箱だってんでわざわざ志願して来てやったんだぜ。感謝しろよ、なぁ、兄貴分共の手で死ねるなんざ気分がいいだろう? 心置きなく死んどけや!」  勢い良く犬のように襲いかかってくる2匹だったが、俺はようやく長年の疑問が溶けて納得していた。  いつもいつも高圧的に絡んでくるから何事かと思っていたが、そういうことだったか。 「刀を抜け小太郎! 俺はよぉ、お前の腕だけは買ってんだぜぇ!?」  振り下ろされた暴風の切っ先を掻い潜って後ろへ一歩二歩、絡みあわされる相棒の槍といいなかなかのものだ。  しかし、 「――――兄貴分とは何だ? そのような盟約を交わした覚えはない」  あっさりと血華を咲かせて死んだ。刀を振るいかつての同輩の顔を裂きながら思ったわけだが、やはり、人間といういきものはどうしても死にやすい。  白い雪路を染める赤、臓物、それを見下ろしてしかし3人目の男はまるで動揺がなかった。 「……さすがは百戦錬磨の小太郎の旦那。井の中の蛙共じゃ話にならないか。でもアンタも人が悪い、こいつらはこいつらなりに、里一番の暗殺者って称号を、旦那から正面切って奪いに来たんだぜ?」 「人が悪い? それは何だ。手加減でもしてやればよかったのか」  男が苦笑する。いつだったか、どこかで小汚い物乞いを演じていた男が。 「ふん、どうしたのだ? すたすた坊主は引退か」 「おめでたやおめでたやー……か。何、変装なんてものはいつだって一期一会。一度演じた役柄は、二度と使わないのが忍びの定めさ」  演技がかった動作で男が笠を投げ捨てた。まったくもって元通り、精悍な顔つきをした男がそこにいる。  低い低い、どこかで見た居合いの構えを取った。 「――悪いが旦那、俺の方に仕事が回って来ちまってね。ここで潔く死んでくれ」  やはり……こうなったか。あの太刀筋を戦場で敵に回すことだけはしたくなかったのだが。 「しかしアンタにしちゃ珍しかったな、さっきの仕事。アンタの仕事ぶりは知っているつもりだが、それにしちゃあ随分と余計な真似をした」 「? 何だ、あやめのことか」 「凛のことさ――ああ、俺の後輩なんでね、監視の目については気にしなくていい。しかし解せないのは、旦那が恐らく初めて、即・息の根止めるべき相手を、苦痛を長引かせて殺したことだ」 「……何を言っている」 「そんなに腹が立ったのかい? そんなに許せなかったのかい。こいつぁ……まったく、イカレちまってるね。まさかアンタがあんな女に肩入れするとは」  何の話だ。まったく笑わせる。男の絶望的な剣閃に身を切り刻まれながら張り合い、俺はすっからの気分で雪空を見上げた。  あやめに肩入れだと? まったくもってばかばかしい。  底の浅い闇から降り注ぐ、白い白い、遺灰みたいな灰色の雪。こうも凍てつく大気に全身を溶かされ浮かされていると、余分な言葉を紡いでしまうのも無理はない。 「……ひとつ聞いておくが」 「何だ」 「貴様は誰だ。名前を、覚えていなくてな」  男はまず目を見開き、次にはとびきりの冗談を聞かされたように肩を震えさせた。実のところすたすた坊主の時から俺は、この男が誰なのか、どういう付き合いだったのかいまいち思い出せないでいる。おそらくは俺に任務の情報を提供する何者かだったと思うのだが。 「おい、この薄情者。もう何年の付き合いだ?」 「そうだな。しかし薄情? ――それを言うなら“無情”だろう」  かけらの情もなく男を斬り殺し、しかし俺は何も感じなかった。足元が緋色に染まったとて井戸水が溢れた程度の認識でしかない。そんなことより息が白く、ただただ寒くて寒くて仕方がなかったのだ。 †  山は、進めば進むほどに険しさを増していった。漂う亡者のような足取りで雪景色の中を進んでいく。  頭上は木々に遮られ、枝の隙間から濁った夜空と、そこからすべて浄化するように降り注いでいる雪だけがあった。ときおり枝から落ちた雪がどさりと生きているような音を立てる。  白い息を吐き、全身を冷気に包まれながら俺は進んだ。あまりに寒い。この辺りには民家さえもないのか。いまなら、皆殺しにして暖を奪ってやるくらいはいいかと思えた。  逃げるように雪山を進む途中で――救いを、蜘蛛の糸を求めるように曇天を見上げた。ただ、黒。絶望一色で何もない。もとよりこの目はそれ以外をただのひとつとして知らない。  血濡れた刀を手にふらふらと進む。俺は逃げようとしているのか、戦いに向かおうとしているのか、あるいはその両方なのか。  耳に木霊する男の声が消えない。俺があやめに肩入れしている? 凛の裏切りに、我が事のように怒り狂っている? 馬鹿な、ありえない。  そう――  そのような都合のいい心変わりなどありえない。俺の手は老夫婦に小娘と二人の忍びとあの男を殺し、しかし何も感じてなどいない。このような土壁じみた人間が情など持っているはずはない。  脳裏をよぎるのは、団子屋で腰を下ろし騒がしい町の片隅で人々の流れからあぶれていた時のこと。  俺たちは異物だった。そして、俺はあやめを受け入れることも、女の考えに共感することもまるでなかった。  土台あやめに対して何も感じていない。  きっと、男が言うような、そんな美談など微塵もなく……。 「は、はは……」  詰まるところ、そういうわけか。気が付けば全身傷だらけ、まったくもって、俺という機能は“故障”していた。  何故立ち止まる? 何故二人の忍びを前にして言葉など紡いだ? どうして、俺は凛の息の根を即止めずに、もてあそぶように苦痛を長引かせた?  完全無欠の非情な忍び、目の前に立つものは一人残らずあの世へ送る。それが俺という延珠の忍びだったではないか。  なのに――と両の手を見下ろせば、俺もまた血に濡れ、そして震えが止まらないでいた。  ああ、俺は故障している。  よく考えてもみろ、あやめがどうとかそんなことより先に――――俺は、延珠の里の忍びっていう、これまで自身の根幹を為していた事実を失いつつある。  いや、事実失ってしまった。なら、俺は何だ? 誰だ? どうして、こんな場所でまだ生きながらえているのだ――?  ただひたすらに、あかり一つない雪山を進む。ああ、俺は遭難するかも知れない。しかし自殺のような鍛錬で磨き抜いた身体はこの程度では潰れてはくれない。  こんなにも凍えているのに、寒くて冷たくて仕方がないのに、なのに構わず脚だけが前へ前へと進んでいく。 「――旦那ッ!」  ギロリと俺は、祟り殺すような目をしていただろう。背後、木々の隙間から、大樹に支えられるようにして女が歩み出てくる。  千月、あやめ……。 「お前……どうしたのだ、その、手――」  あやめの両手は夥しい血に濡れてぬかるんでいた。特に胸に抱きしめた短刀などは酷い。あやめは、頬に血を付けたまま、泣いているような顔をして笑った。 「お凛がねぇ、あんまりにも苦しそうでねぇ……」  あやめが鼻をすすり、目元を指先で撫でた。そうか。苦しむ小娘に最後の慈悲を与えてきたのか。  ――――その、自分自身の手で罪を背負ってきたというのか。 「………………」  雪林に取り残された童女のように、あやめが立ったまま泣いていた。声など上げない。ただ、俺は何かを待った。  何を待っている――? くだらない、意味のない時間だと気がつく。 「…………意味のない人生だった」 「え――?」  困惑されるのも無理はあるまい。俺自身も、なぜこんなことを話しているのか理解できない。脳に、身体に精神が、あるいは感情に知性が追いついていなかった。 「もとより、ろくな家の出身でなかったのでな。俺は人間らしい生き方など知らない。家族の温度など知らない。俺にあったのは始めから何もない人生だけだった」  そうだ、あやめが言っていた。初めから無い俺の人生と、もとあったものを奪われてしまったあやめの人生――果たして、どちらのほうが辛いだろうかと。 「…………旦那っ、」  俺の答えはとうに決まっている。無論後者、途中ですべてを失ってしまったあやめの人生の方が苦しいに決まっている。 「俺には淋しさなどない。淋しいという言葉の意味が分からないのだ。俺は――――ああ、凛の言うとおり、確かに意味も価値もない木偶(でく)だった」  だが――木偶は木偶なりに、生き方があったのだ。 「なぁあやめ。俺はいまこの瞬間、お前に対して初めて感情らしきものが芽生えたのだ」  血染めの刀を握り直し、一歩、あやめににじり寄る。この胸の真ん中に咲いた花。――ああ、まったくもって、あやめの絶望に凍っていく表情を見ているといっそう彩りを増す。  こんなにも忌まわしくて、冷水のように冷たい―― 「――――同情だ」  俺の、中にある感情。 「……え……?」  あやめが、心底理解できないという顔をしながらしかし後退していく。くのいちの身体が危機を察しているのだろう――まったくもって、その手に短刀1本きりとはどこまでも哀れだ。 「なぁあやめ、殺したのだろう? 殺してきたのだろう――自らの希望を重ねあわせた、お前の唯一の光だった凛を」 「なにを……ねぇ、小太郎? アンタはなにを考えているんだい? どうして、私に刀を向けるんだい? ――まさか、まだ里の任務を引きずってるってんじゃないよね?」  ああ、千月あやめを抹殺せよ……か。くだらない。本当に何の意味もない上辺だけの命令だった。  まったく笑みが溢れてしまう。俺は一体、どこまで愚かだったのだ。 「……ばかばかしい。俺を殺そうとする里に、何故俺が汲みせねばならない。――ああ、俺が延珠の里を溺愛していたならばそのような結末もあったろう。義を通し里に尽くして自ら命を絶って死ぬ――しかしな、この身は溺愛どころか、薄情の情も持ち得ぬ空蝉なのだ」 「いや……止まって。止まってよ、小太郎の旦那……頼むから、それ以上こっちへ来ないでおくれよ……!」 「しかし、そのような俺にもただの一握りの感情が芽生えた――ああ、喜んでくれあやめ。俺はな、凛を殺してきたお前に同情した。そして初めて共感したよ。その血濡れた姿を見た途端、ああ、これだ……と納得したのだ」  血を吹き零し、憎悪を溢れさせながらのた打ち回る凛を見下ろしてあやめは何を思ったろう?  ああ、なんて苦しそうなのだろう。こんなもの――いっそ楽に死なせてやったほうがいい。 「――――なぁ千月あやめ、ここで死んでおけ。でなければお前はさらに苦しむぞ」  俺は笑っていただろう。感情ある人間を真似て。あやめの表情はただ空白だった。 「…………」 「受け取るがいい、あやめ。これは俺がお前に贈る最初で最後の感情だ。お前は哀れだよ。手にしたと思った希望を跡形もなく砕かれ、これから先、よりいっそう苛烈に卑劣になる里の追っ手から逃げ惑う。いずれ捕まって拷問もあるだろう。どのような責め苦を受けて殺されるものか、まったくもって、忍びの里の苛烈さたるや――」  地獄だ。それを築きあげてきた道具の一人である俺が誰よりも知っている。 「…………阿呆が……」  なんとでも言うがいい。この表情がまったくの偽物でも、この胸に生まれた同情だけは本物なのだ。  俺が振るった刀を短刀で受け流し、あやめが強く問うてくる。 「私を殺して……っ! その先に、一体何があるって言うんだい!?」 「決まっている――俺は延珠の里へ行く。そして殺すさ。地獄を築こう。それ以外の生き方など知らない」 「この、大馬鹿者! 理由もなくただ無差別に虐殺するだけなんて、それのどこが小太郎の生き方だってんだ! そいつは違う生き方だよ、アンタのあるべき姿じゃないんだよ!」  雪の中、小気味よい音を立ててあやめは短刀1本で俺の剣を受け流し逃げる。惚れ惚れするほどに美しい防戦だった。  が、花なんてものは踏み潰せば折れてしまうものだ。 「あぐ――」  刀の連撃に挟んだ蹴りがあっけなく女を吹き飛ばす。紙のように軽い。高い樹のひとつに背中をぶつけて止まり、どさどさと雪が落ちてきた。  息ができないのか、立ち上がろうとしてしかしついに座り込んでしまった女の眉間に、俺は血濡れた(きっさき)を突きつけた。 「……殺すことしか知らんのだ。ここでお前を殺し、延珠の里の忍びを殺し、自身の同情を殺してより一層多くを殺し続けよう」  俺はこのまま災禍と成ろう。俺は何も持たず、ただただ殺す技術だけを与えられてきた道具だ。道具が主を失えば、もはや、ただただ機能を暴走させる呪いとなるだけ。 「修羅にでも…………なったつもり、かい……自暴自棄になった、だけの情けない男が……」 「――――」  つくづく、いちいち癇に障る女だ。 「……見苦しいな。まだ生きたがるのか? そろそろ女らしく、美しいままに死んでおけ」 「あら嬉しい。どこの誰が美しい女だって?」 「そういう意図はない。単に、このまま俺の介錯に抗い続ければ、原型がわからぬほどの肉片に成っても責任は取れんぞと言いたいだけだ」  俺の言葉を聞いて、あやめがかすかに微笑んだ気がした。 「躱しとくれよ、旦那。」  その左手に輝いたもの――咄嗟に顔を逸したが、頬をかすめ血を流させて飛んでいく。光が瞬くような速さの棒手裏剣だった。自身の負傷状況や無事を確認する隙間などありえない。俺は刀を振り下ろし、しかし棒手裏剣の回避に取られた時間分あやめの方が早い。  既に距離を開け、次の棒手裏剣3本を振り上げている。 「はっ!」  距離と呼吸がまずい、最悪の隙間に突き込まれる。躱せるか――? 「…………」  首まで逸らして、薄皮一枚を裂かれて死を覚悟した。生きている。背後を見れば棒手裏剣が突き立っていて、俺は鴉天狗を打倒し得たあやめの実力を思い知る。  ――――あやめは殺さないよう、それでいて掠める紙一重を狙った。狙いは見事的中している。  木々の深い方へ、山の上の方へ、あやめは雪にあしあとを残して逃げ去った後だった。
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