第5話

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第5話

 ああ、俺は空蝉だ。ふらりふらりと蝶を追う。あやめという名の女の、椿の花の入れ墨を追っている。  ああ、俺は死人だ。足元は白く、それ以外はすべてが真っ黒い。あの懐かしい絶望に森林が塗りつぶされている。この手には刀しか無く、この胸にあるものは死に(てい)を見下ろす同情、ただ、枯れ際に水をくれと訴えるように駆けた。  遠い背中が少女に見える。なんて哀れなんだろう、血に染まった商人の家から引っ張り出され、忍びの里の暗殺者に追い掛け回される幻影。無論暗殺者は俺だ。  少女は俺を泣き出しそうな、潤んだ瞳で見ていた。  ずっとずっと少女を追いかけてまっくらな雪山を走っていたら、いつしか大きな河に出くわした。少女が水の上を駆けていくものだから俺も、迷わず水をかき分け進んだ。たくさんたくさん邪魔なものが浮いていて、ぬかるんでいて生暖かい。  邪魔だ――絡みついてきた凛の死体を横へ押しのけ、恨みがましそうに俺を視ていた鴉天狗の死体にぶつかった。やけに足が重いと思ったら、水の底で老夫婦が俺の足首を掴んで重しになっていて、その川底の表情はまさしく亡者、腐りかけた(むくろ)が俺を睨んでいる。  ああ、本当に……本当に本当に邪魔で仕方がない。俺はまた死体河を進んでいるのだ。しかし今日は、あまりに身体が冷え切っていていっそ暖かくさえ感じる。  ならばここで溺れてしまえばいいよ、と鴉天狗の妹が囁く。一体いつからこの女はこんな煙のようになってしまったのか、あまりに薄っぺらで怖気を誘う。  ――――河を覆う、かつて俺が殺した者共の死体。  次々と流されてくる。肉と肉がぶつかり合っている。すべて俺の知る顔、すべて俺が奪った人生。  肉片が呻いている、あるいは無言で俺を見上げて呪っている。  女子供も一人二人ではなく、老人に病気持ちは言うまでもなく妊婦さえいた。俺が殺した。何の躊躇いもなく殺して捨てたのだ。  妊婦の死体は、裂かれた腹から引き摺り出されて死んだ子供を抱いている。お前のせいだ、とこちらに未熟児の崩れた顔を向けて死んでいる。母体も子供も蝋人形のように動かない。  そのような肉片に掛ける言葉など無く、また死体をかき分け前へと進む。俺が前を向いた途端、後ろの死体共が呻き始め、見えない背後から千の腕を伸ばしてくるのが感じられた。  ああ、地獄だ。まっくらでただただ情のない地獄のような現世だ。  せめて何か美しいものを見なければ気が狂ってしまう、と顔を上げれば、対岸。河の向こう岸で、美しい少女が俺を待っていた。  背中にのしかかってくる死体、無数の肉片共を背負わされながらふらふら歩く俺を無表情に見ていた。 「――――――重いの……?」  その表情に憐憫が垣間見えるのは気のせいか。おとなしそうな少女の分際で、たいそうな椿の入れ墨など入れていやがる。  腹が立ったものだから、言い返してやった。重くなどない。こんなものは重荷でもなんでもない、と笑い捨ててやったのだ。 「死が、重いの……?」  聞く耳がないらしい。不快だと思った。水が、一歩進むごとに沼の泥のように重くなっていく。背負った死体に潰されそうだ。  俺はこんなにも腐った血と肉にまみれているのに、潔白なままで俺を見下ろしている少女に腹が立った。  だ が、  よく見れば少女も同じだった。少女が立っている対岸は何だ? ただの陸かと思ったら森だ。底のない森なのだ。――そこで、草木に隠れるようにして死んでいる死体共はなんだ?  よくよく見れば、少女の着物は赤い。唇も紅い。何故だか白いはずの肌まで朱く、そして少女が着ていたのは白色の死に装束だったのだ。  返り血まみれの少女型の修羅が、地獄のような双眸で俺を見下ろしている。その背後に、俺以上に陰鬱な死の森を押し隠して。 「――――私も、重い……」  その手の短刀が、襲いかかってくる死体共を振り払う。悲しいくらいに圧倒的だった。少女はあらゆる脅威を美しい剣閃で刻み殺した。  ああ、少女は死なない。おぞましい真空の目が冷め切った感情をたたえてすべてを無感動に見下ろしている。  少女は死なない――死なないからこそ、その足元には余計に死体が折り重なっていった。  気が付けば少女の全身に、死体の首から伸びた無数の縄が絡み付いていた。  それでも少女は殺戮をやめない。何故? 当然、生きるためだろう。ああ、生き抜かねばならない。例えどのような非情な状況であろうと殺して生き残らなければならない。できなければ死ぬ、だから生きた。たったそれだけのこと。  たったそれだけのことで、気が付けば女の足元には死体が折り重なっていた。背後に山が形成されていた。まるで鶏肉料理を作ったあとの鶏がらのように、裁断された人間どもの残骸が散らばっていて、足の踏み場もなく、それが少女の地獄だった。  河と、森。  どちらも最低だ。こんな修羅道(じごく)に落とされるくらいならとっとと死んでしまえばいいああ死んだほうが楽に決まってる正しい、だって、さっさと死んでしまえばこのような地獄は生まれないのだ。  気が付けば他者の死に何も感じてはいない。 「――――死が重くない人間なんて“いない”よ。」  ……なのに、少女は俺を哀れんでいた。同じ地獄を生きる悪鬼だったはずの相手が。  目を開ければ雪山の真ん中で、目の前には、傷だらけになったあやめが立っていた。 「本当は重いんだろう? 死が。」  まっすぐに、無防備に俺を見上げている。斬り合っていたのだ。長い長い時間、俺はあやめを殺そうとしていた。  そのことごとくを、あやめに防がれてしまったが。  凄まじい防衛だった。千月あやめが生き残り続けた理由。鴉天狗をも下した武器。それは、生き延びることに長けた、あまりにもしぶとい「防衛戦」だった。  寒さに震え、白い息を吐きながら凍傷寸前の手をかたかたと持ち上げる。まるで壊れたカラクリ細工のような不出来さだった。 「俺は…………お前、を…………!」  意味のない言葉を、口から漏らした。刀を向ける手はがたがたと寒さに震え、そんな俺に女は見守るように微笑んでいた。  あやめは自身に向けられる不確かな鋒を捕まえ、 「本当は死が重いんだろう? こうやって刃を向けるたび、本当はずっとずっと怖かったんだろう? ――実感できない、ヒトゴロシの罪の重さが」  自らの白い首に、向けていた。あやめは俺の刀を自身の首に向け、しかし優雅に微笑んでみせる。 「ねぇ旦那、簡単なことだよ。死が重くない人間などいない。当然なんだ。だって、旦那だって人間の1人だから――だから人間の死が、自らの終焉が重くないはずなんてないんだ」  何を言っている、俺は重くなどない。女子供だろうが妊婦だろうがどうしようもないほどの善人だろうが、殺すことを躊躇ったりはしないし、また痛むこともない。  俺は死に傷んでなどいないし、誰かの死を悼んだことなど一度もない。 「その暗い眼は、何をうつしているんだい?」  ただただ、この世は地獄に視えて。俺はたびたびあの死体川に吸い寄せられた。  あのぬかるんだ水面にいつ俺が浮くのか、一体いつ俺自身が流れてくるのか、あるいはあの死体共はすべて俺自身だったのか。  あやめはしおらしく、同じような地獄を見てきた目を伏せた。そこにある呪いを俺に向けないように。 「……死はね、苦しいよ。慣れたって、痛まなくたって、どんなに平気になってもだめなんだ……どれだけ平気だと繕っても、必ずどこかが綻びる。絶対に間違いなく心のどこかが腐敗する。その翳りは、自分自身では気付けないかも知れないけれど――」  俺はこの瞬間、またしても死体河の真ん中で腰まで浸かっていた。  ああ、おぞましい。どうしてどうして俺はこのような幻影に飲み込まれるのだ。 「…………私は眠りが怖くてね。白状するとさ、ひとりで眠るのってつらいんだ。あは、一人でいると、夜毎目に見えない忍びが私の首を掻き切りにくるんだよ……」  ようやく顔を上げたあやめは、まるで失恋したばかりの少女のような、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。 「ひどい顔だね、旦那。まるで失恋したばかりの少年のようだ」  いつかどこかの草原で見た、すぐそばに鴉天狗の死体を転がせたあやめ。  俺は一体どんな表情を浮かべている? 初めて俺は、自らの顔に手を触れた。 「俺は……」  苛まれて、いた――のか? 「…………馬鹿な……は、」  ありえぬ。延珠の里で、暗殺者として腕を振るってきたこの俺が。どのような過酷な任も淡々とこなしてきた俺が。  ――――ただの一度として、立ち止まることのなかったこの俺、が…………?  フワリと舞う花のようにあやめが飛び込んできた。躱さねばきっと殺されるのに、俺は愕然とただの一歩後退することしかできなかった。  もうそれ以上は動けず、何も考えられない。ここが俺という機構の限界。  限界を見たのなら、あとはもうビキビキと亀裂まみれになって崩れ落ちるしか無い。  崩落していくように俺は打ち砕かれるしかない。いままで目を伏せていた土壁を、今までなかったことにしていた殻を。 「もういいんだよ……旦那はもう、意味もなく人を殺すことも、それを我慢する必要もないんだ。感情を殺す必要なんてないんだよ」  ああ、俺は 「ねぇ旦那、言っていたよね――」  このような地獄を創造するほどに、 「始めからない人生と、途中で失う人生はどっちがつらい――?」  ひとりひとりの顔を忘れられないほどに、 「私の答えはね、ずっと前から決まっていたよ――――」  ……こんなにも、絶望することにさえ絶望してしまうほどに。 「――――始めから無い人生なんて(ぜろ)だ。……そんなもの、苦しくないはずがない」  気が付けば、目の前は真っ暗で。  こんなになるまで耐え忍んでいた。  俺の胸で最後の何かの砕ける音を聞いた。溢れ出したものは、現実だけだ。 「ねぇ、旦那の人生は悲しいね。淋しいね。つらかったねぇ、ずぅーっと一人で我慢するしかなかったんだよねぇ……」  槍で突き抜かれるように、胸の真ん中に風穴が空いた。死体川だった風景が溶け落ちて七色をした別物に変わっていく。  置き去りにしてきた現実がある。  俺は相棒の妹を殺した。逃げまわる病弱な少女を追い詰め、必死で生きようとする無力な腕を押さえつけ殺した。  生きたい、生きたいと泣いていた。許して、ごめんなさいと泣き崩れる少女の胸に短刀を突き立てた。――少女は、自らの肋骨の間を抜ける刃を見せつけられて、泣き崩れるように絶望していた。  鴉天狗は俺を殺そうとして、しかし返り討ちにあい、負傷したところを他の忍びたちに取り押さえられ地べたに押し付けられた。  鬼のような目をして、鬼のような罵声を浴びせてくる天狗にしかし、俺がどんな言葉を掛けられるだろう――?  ただ、任務だから殺すしかなかっただけなのだ。  それきり鴉天狗の姿を見ることはなかった。いつかは奴も理解するか……? そのような夢物語を一度だけ夢想し、失笑に伏した。  ああ――兄貴分を名乗る男たち。  そして何度も顔を合わせた気がする精悍な顔つきの男。  他にも、他にもたくさんの人間がいた。たくさんの人間を殺した。他人に縋ることしか知らない愚かな女を見て俺は、ひどくひどく気分が悪くなったことがある。  結局はあいつも、死んでしまったけれど。  ただ、目の前で温かに微笑んでいるあやめを見ていると、あいつと同じような、けれど真逆のような感情が胸に棘を生む。 「…………お前は地獄を知っている。俺と同じ地獄をだ。なのに、そんな風でいられるなどおかしい」  いよいよ、あやめの白い手が俺の両頬に触れてきた。凍りついてしまいそうな冷たい手だ。どうして気づかなかったろう――? 「そんな風って、どんな風さ。私も旦那も、そう変わらないよ」  震えている。寒さに震え、死に怯え、理解されないかも知れない恐怖に千月あやめはずっとずっと苛まれていたのだ。  俺たちは雪の野原の真ん中で、見合っていた。その、飢え死ぬ直前にあたたかな世界に憧れる子供のような、孤独に澄んだ双眸を。互いの瞳に互いが映る。 「生きよう、旦那。まだきっと死ぬには早い」 「…………」 それ以上、言葉で語れることは何もなかった。しかし割り込むように影が入り込んでくる。 「――――――――」  ざざざざざ、とそれぞれに「みの」や手ぬぐいで顔を覆った者たちが現れる。みなばらばらの格好なのに一瞬で連携し、俺たちを取り囲んでしまった。 「千月あやめに、小太郎だな」  先頭の黒口布が問うてくるが、返す言葉などない。追っ手だ。おそらくは延珠の里の忍び共なのだ。 「お命頂戴」  全員が一斉に凶器を取り出す。あやめと背中合わせになりながら、俺は恐怖のような絶望を感じた。  数が、多い――。 「……ああ……愚かだな」  刀を構えながら俺は、本当にすべてが嫌になってしまった。どうしてなのだ。何故襲いに来るのだ。何故、こんなにも敵が多いのだ。  一人暗澹とした気分に浸っていると、背中のあやめが言ってきた。 「旦那、どうかしたのかい。何を考えているのか聞かせておくれよ」  肩の荷が軽い――いつ、どこで下りたのか。しかしあやめのいうことももっともだろう。  俺は延珠の里に捨てられ、無感情で冷酷な暗殺者という立場を破壊され、いまもこうして延珠の里の手の者共に囲まれている。  虫の如き多勢で蠢いている忍びどもを見ていると、やはり俺の胸中は暗く陰った。  先の黒口布の男が、いまにも刀を投げ捨ててしまいそうな俺を見て嘲弄を浮かべる。 「どうした小太郎、青い顔をしているぞ? 噂に名高い冷徹非情が聞いて呆れる。所詮、数の前には怯えるしかないか」  青い顔? ――ああ、それはそうだろう。なんたって寒くて仕方が無いのだ。 「……ああ、」  怯えるとも。苦痛だとも、恐怖だともまっくらだとも。  視界を覆うほどの忍び共が、包囲網を狭めて寄ってくる。出口など無いのだから、もう避けられまい。  絶望だ。 「敵が多いのだ。俺はまた、こんなに多くを殺して生き残る」  これが絶望でなくてなんだと言う。俺はただ距離を詰め機能のように刀を振るう。  あまりにも恐ろしくて、刀を振るう手にすこしばかり熱が入ってしまった。一刀のもとに首を切断するなどまったくもって、豪快すぎて俺に似合わない。  それでも殺した。  荒々しく殺し続けた。  きっとこれからを生きながらえていく理由などないのに、なのに何故だか殺して生き残ろうとした。たくさんの負傷を負い、血だるまになって死にそうになりながら俺はただただ殺し続けたのだ。  そこで、狼の如きヒトの貪欲さ凶暴性を知る。俺は吠えた。人は生きるためならばぜんぶを投げ打つのだと初めて実感した。  一方、あやめの太刀筋は美しかった。かなしいくらいに優しげな軌跡がしかし、触れる全てをなますにしていく。  より集めのような忍び共は勢い良く数を減らしていった。土台先の3人からして、凛の任務の監視役か尻拭いだったはずなのだ。ならばこいつらなど急場の非常招集でしかない。  いま、呼吸を合わせ隙を突こうとした者たちが仲良く血祭りに挙げられた。  そのような雑な練度で、あのような真空じみた目に勝てるわけがない。飲み込まれていく。みな吸い寄せられ、飲み込まれるように消えていく。  花が散る肉が散るひとの命が(あくた)と消える。  すべてが終わる頃には、白かった雪野原が一面赤に様変わりしていた。 †  ――――さすがに、息を切らすどころではなかった。  俺は立っている。ボロボロの刀を支えにして、なんとか崩れ落ちるのを押しとどめた。呼吸しても肺がいつまでも飢えたまま、視界は明滅し、地上で溺れるサカナのようだった。  ぐらりと(かし)いで意識を手放しかけ、足元の雪を見下ろして目を覚ます。赤一色。寝静まった獣に目を覚まさせて逃げるよう促す危険色が、最後の最後に俺をつなぎ止めた。  あやめは、どこだ。見つけた。雪の中に崩れ落ちる音で気がついた。 「……、?」  あちらは呆然として、自分が転んでしまったことにさえ不思議そうにしている。べったりと手のひらに付着した血を、まるで記憶が飛んでしまったような目で視ている。  どちらも、満身創痍通り越して死の域だ。俺は足に突き立った数本の矢を抜くべきか否か逡巡してやめた。顔が染まるほどの出血。このうえ血が吹き出してしまえば失血死は免れ得ない。 「グ……ォおおおお!」  血染めのあやめの背後――ぬらりと立ち上がり、怒号を上げる枯れ枝のような男がいた。  負傷からか出血からか、呆然としているあやめの背中に斬りつけようとする。その胸にボロボロの刀を突き立てて男は死んだ。  投げつけた俺は、ようやく立ち上がる。いまにも転びそうな足でしかし、この赤絨毯の真ん中で生存している。 「愚かだ小太郎…………何故、里を裏切った」 「何――?」  見下ろせば右方、死体共の中に混じっていた瀕死が錆びついた人形のような所作で顔を上げたところだった。致命傷、かすれ切った声、もうじき死ぬだろう。しかし質問はつまらなかった。 「何故裏切るのか、だと? 笑わせるな。俺を裏切って陥れようとしたのは里のほうだろう。まったくくだらない茶番だった」 「なんだと……? は、これはいい……はは、」  喘息のように男が肩を震えさせた。命の残り火まで燃やして笑っている。俺はいきなり猿回しの猿にされた気分になった。 「どういう…………ことだ?」 「聞け、小太郎。おまえはそこの女とは違う」  そういって男が汚らわしそうに見たのはあやめだった。その視線にようやくあやめの目の焦点が帰ってくる。  山賊じみた男は、なおも死なない。俺たちに呪いを遺そうとしている。 「――首領が、替わるのだ。忘れたのか? 延珠の里の頭、神代十臓が死んだ」  ああ、そういえばそんなこともあったかも知れない。興味のない出来事は覚えていても表層に上がってこないものだ。 「里が、一新されるのだ。小太郎、おまえは首領の世代交代に巻き込まれて捨てられたに過ぎない。新しい頭はお前を恐れているのだ。その目が怖ろしくてたまらない、とな」  ああそうだった。あの日あやめと顔を合わせる前日に、直々に『目付きが恐ろしい』と畏怖するように言われたのだった。 「だから、お前に最後の任務として千月あやめの抹殺を命じた。自由は本当なのだ小太郎。その女さえ殺せばお前は、追っ手に追われることもなく、大手を振って娑婆へ帰れるのだ」 「待ちなよ――なんだい、その待遇。一体小太郎の旦那は何者なんだ。それにおかしい。だって、忍び共は旦那の命を何度も狙って――」 「それはどこの命知らずだ? だが呆れてやるなよ、その男ほどの相手となれば、荒くれ揃いの忍び共は最後に仕留めて自分の名を上げようと思うものだ」  あの、滝を見ていた時に背後から投げつけられた手斧――  宿の部屋を荒らした覆面連中――  奴らは俺を殺して手柄を立てようとしていたのか。  個人的な感情で妹の仇を討とうとした鴉天狗。  ああ、そして、任務でありながらあやめ個人を憎んで、そのそばにいた俺を殺そうとした凛と、それを返り討ちにしてしまった俺。  ――その瞬間だ。  直後にあの精悍な男が現れ、俺を殺す仕事が回ってきたと言った。これは笑える。ひとしきり声を上げて笑ってやった。 「…………は。そうか、辻褄はそれなりに合っているな」 「だろう? だが誤解するなよ、俺は命乞いをしているんじゃあない」  男の言葉を信じるなら、俺は踊っていたらしい。一人で状況を勘違いして、あやめと共に滑稽な動きをしていた。  俺のあやめ抹殺任務は本物で、あやめの俺抹殺任務は偽物。土台力量差を考えれば当然の話ではある。あやめは俺にぶつければ死ぬ。両者を知り尽くした里からすれば当然の話だったのだ。  だが仕方がない――――興味もない。真相など、いつだって灰色でつまらないものなのだ。 「……命乞いではないと言ったな。では何だ?」  雪に突き立っていた刀を引き抜き、顔の前に鋒を差し出してやるも、瀕死の男には怯えなどない。もとより俺が殺そうが殺すまいが死ぬ傷だ。こうして話せているのは気迫にすぎない。 「………………呪いだよ小太郎。おまえが、己の滑稽さ無慈悲さ無関心さ故に里を敵に回して、そして地獄をみるのだと思い知るように」 「まったくくだらんな。潔く死ぬがいい」 「そうさせてもらう。地獄へようこそ小太郎、死ぬまで追われ続ける日々に心折られるまでは生き続けるがいい」  それが、お前の罪なのだからな――と嘲弄しているような気がした。頭部を真2つに裂いてもそのような幻聴が聞こえてしまったのだ。  ようやく、一帯から動くいきものの気配が消え失せる。刀を振り下ろしたまま暫く俺は停止していた。一声発することさえやめて回復に努める。 「…………そうかい。旦那はすごいおひとだったんだねぇ、そりゃ心強いや」  はぁとひとつ息ついて、そんな言葉を言ってきた。女という生き物は本当にお喋りだ。 「心強い? 話を聞いていなかったのか、俺はお前を裏切るかもしれん立場だ」 「あはは、そん時はまた泣くだけさ。凛の時と同じようにね」  その力ない笑みにふと気づく。あやめは、あんなことがあってもまだこころを閉ざしてはいない。 「………………」  この世に絶望していない。ひとに絶望していない。血だらけ傷だらけになった自らの手のひらに絶望してなどいない。  正しく、悲しんでいたのだ。 「……強いな」 「え?」  焦がれるほどに強いと言ったのだ。口に出しては言ってやらないが、この期に及んでまるで死ぬつもりなどない女に辟易している。――俺は、雪の上に大の字に崩れ落ちてしまって、いまにも死んでしまいそうだというのに。  あやめが寝たら死ぬぞと叫んでいる。そんなことを言われたとてもう立ち上がれない。意識は断線し、身体の力は抜け、あとはこのまま死ぬだけだ。 (…………まったく……理解しかねる)  俺には理解しかねる。このような地獄を経てなおあやめは何故生きたがる? 何故慈悲の介錯を受け入れようとしない? 何故千月あやめは、この期に及んで生に絶望していない?  この世がどれほど恐ろしい場所か知っているはずなのに。  俺はここらでこのまま静かに死んでおくのがいいと思うのだが? しかしあやめは違うらしい。こんなにも景気よく声を上げている。そんなに叫んだらあっさり体力が尽きて死んでしまうだろうに――なのにあまつさえ、俺の肩を支えて歩き出そうとしている。  反面、あやめが叫べば叫ぶほどに俺の意識は遠のいていく。その、赤い椿の入れ墨だけをずっと見ていた。そこから先の記憶はまるでない。美しい白い肌に刻まれた傷跡の意味を、俺はまだ知らない。  ――――雪は止むことを知らず、朝になっても、昼になっても降り続けていたらしい。
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