彼が僕を忘れるくらい

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 弓場さんは赤色が似合わない。  赤を基調とした大ぶりな花柄シャツは、顔をしかめてしまうぐらい、彼に似合ってない。いや、似合わないというより、ダサいが正解かもしれない。僕の持っている茶色いコップのほうが、彼には似合うだろうし、そのダサいシャツは僕が着れば、なんとかまともに見えると思う。なんで、そんな恰好で外に出ているのかわからない。家を出るときに言えば良かったと、今更ながら後悔して、ストレートティーが入ったコップを持ち上げた。同時に、彼もブラックコーヒーが入ったコップを持ち上げる。そのコップにおしゃれな花束のイラストが小さくコップに印刷されているのに気づき、僕はひっそりと息を吐いた。 「その服、どこで買ったんですか」 「下北の古着屋さん。いいでしょ?7980円」  馬鹿じゃんと思ったが、言わないで微笑んでおく。かちこちに固まった微笑みだっただろうが、彼は気にもせず、東京駅周辺の地図をカフェ特有の小さいテーブルに取り出して、どこに行こうかと悩み始めた。  彼が東京に来て、3か月になる。僕より2つ上の彼は社会人をしていたが、急にお笑い芸人になると言い出し、上京して2年目の僕の1Kの家に転がり込んできた。そのせいで、男2人でルームシェアできる部屋に引っ越さなきゃいけなくなった。2週間前に新居に引っ越してきたが、よく考えれば、彼を僕の家から追い出せば早かったんじゃないだろうか。疑問が浮上して、彼が椅子から立ち上がった大きな音でそれはかき消された。 「そろそろ行こう」 「どこ行くんですか」 「プラネタリウム。アンタレス、見れるし」  男2人でプラネタリウムってとか、そういえば高校のとき同じ部活だったけど、彼だけは天文部と兼部してたなとか、アンタレスってなんだっけとか、いろいろ思うことはあったけど、ストレートティーと一緒に飲み干して無かったことにした。 「目」 「え?」 「目。充血してるよ」  あぁ、昨日は夜中までテスト勉強してたんでと言った僕の言葉を遮るように、彼は立ち上がって金魚に餌をやりにいってしまった。彼は話している最中でも、ふっと思考がどこかに行くことが多い。ルームシェアまでしている僕はもう慣れてしまい、何も思うことはない。しかし、それに戸惑い怒る人もいるようで、バイトの店長に怒られている最中に金魚のことを考えて上の空になり、二重に怒られてしまったと彼が肩を落としていた。あほですねと笑ったのは、つい最近のことだ。  風呂場の近くに置いた水槽に、嬉しそうに彼が餌をあげている。少し前にあった花火大会で、彼は赤と黒の小さい金魚を買ってきた。22歳のくせして子供っぽい人で、レポートのせいで行けなかった僕にりんご飴も買ってきてくれた。甘いものは苦手だったから、彼の優しさとりんご飴の半分だけ受け取って、残りは彼が美味しそうに食べてくれた。  隣に来た僕に気付いた彼が、水槽の前から少し離れてくれる。一緒に2匹の金魚を見つめる。まるで、僕と彼みたいだ。ふらふらして自分の好きなことに突進していく黒い金魚と全体を見ようとするかのようにじっとして動かない赤い金魚。2匹だけの真新しい水槽と引っ越して2か月たたない綺麗なこの家。いや、この赤い金魚は、彼の相方かもしれない。養成所で出会ったという初めての相方と一緒に作る漫才が、この水槽なのかもしれない。 「そうだ、コンビ名はジュウケツにしよう。カタカナでジュウケツ」  そう言った彼は、僕をのぞき込んで、いいコンビ名じゃない?と笑った。僕は、彼の目に僕が考えていたことが全て見透かされているように思えて、目をそらしながら理由を聞く。彼は、充血してる目が似合っていたからお前なんて倒置法を使って、それにこいつお前に似てるよと赤い金魚を指さしながら答えてきた。  彼と相方だけで作られた世界に、僕が由来の名前を付けようとしてくれている。この何かと何かが混ざり合いそうな気持ちも、彼はわかっているのだろうか。ちらりと彼を見た僕に、どう?と笑いかける。彼は金魚を見ながら、何を考えていたんだろう。早いスピードで混ざり合う気持ちに勢いよく蓋を閉めるように、僕は言葉を吐き出した。 「だっさ」  ジュウケツは、1年目にしては面白くて完成されているコンビらしい。彼がお笑い芸人の飲み会に連れて行ってくれるので、僕にもお笑い芸人の友達ができ、彼と同期だという男からそんな情報を得た。養成所で作家に褒められ、来月にはテレビのオーディションに行くらしい。全く知らなかったと言うと、1年一緒の家に住んでるのに弓場は何も言ってないのかと驚き、ジュウケツは自慢の同期だと男は酒をあおった。彼はお笑い芸人のことを何も言わないし、僕も大学3年生でインターンやサークルで忙しいから何も聞いていない。もしかしたら、彼は予想以上に早く手の届かない場所に行ってしまうのかもしれない。そして、僕のことも忘れて、相方と2人の世界で生きていくのかもしれない。そう思ったら、いてもたってもいられず、勘定もそこそこに僕は居酒屋から走りだした。 「オーディションに受かったら、お前に言おうと思ってたんだよ」  バイト終わりの彼は遅めの夕食を食べながら、子犬のような顔をした。隠し事が嫌いな彼女のように問い詰めるつもりはなかったのだけれど、彼からしたら問い詰められている気分になったらしい。ケチャップがついた箸を舐めて、あとジュウケツはまだ面白くないからと目を伏せた。夕飯のオムライス、彼はおいしく感じないだろうな。居酒屋から走り出て家に帰って、彼のために作った彼の大好物のオムライスなのに。こんなつもりじゃなかったし、言ってしまってから自分に対する嫌悪感で顔がゆがむ。 「オーディションに呼ばれるくらい面白いんでしょ?ジュウケツの漫才、見たいです。ライブ行かせてください」 「うん、受かったらね。そういえばさ、次何か飼いたいものある?」  1年前の夏に飼っていた2匹の金魚は、冬には死んでしまっていた。僕のご機嫌取りをするように聞いてきて、嬉しさと腹立たしさと寂しさと変な感情がぐるぐるする。こうやってすぐにはぐらかして話題を変える彼が嫌いだし、それをわかっていながら流される情けない僕も嫌いだ。 「金魚、買ってください」  再来月の夏祭りでと付け加えると、彼はふわりと笑ってオムライスを食べ始めた。嫌いだよ,本当に。彼の口の端についたケチャップにも、心の中で悪態をつきながら、ケチャップの存在を教えてやる。彼のありがとうという声に、背を向けてくそっと呟いた。  スーツを着て漫才をしている彼はなんだか滑稽で、家で見るだらしない人とは別人のようだった。漫才の中でも、彼はダサいシャツを着て、相方演じる彼女とプラネタリウムデートをして、夏祭りでプロポーズをし、客席のところどころから笑いが起きていた。ステージから一段下がった場所から見る彼は、明るい照明のせいでキラキラしていてもう触れられない雲の上の人になっていた。彼は最初から最後まで、「ジュウケツ弓場」に変わっていた。  ジュウケツがオーディションに受かり初めてのテレビ収録も終えた8月に、僕は彼に金魚を買ってもらった。水槽の生活環境を前よりもいいもので整えたおかげで、こころなしか赤と黒の金魚たちは元気そうに見える。今日のライブで一番笑い声があがっていたのは、ジュウケツだった。ライブ終わりの観客投票でもジュウケツが1位になっており、ひいき目で見なくても圧勝だったと思う。ジュウケツという名前の水槽の中の黒い金魚が彼で、赤い金魚が彼の相方だ。このまま、もっともっと遠くへ行ってくれ。僕のことを忘れるくらい遠くで輝いてくれ。 「ただいま。金魚見てたの?てか、どうだった?初めてのお笑いライブと、ジュウケツの漫才」  ドタドタと音を立てて家に帰ってきた彼に、面白かったですと言うと、お前に面白いと言ってもらえて良かったと安心した笑顔を浮かべた。彼の手の中には、差し入れと思われる紙袋が3つ程ぶら下がっていた。俺の視線に気づくと、お菓子食べる?と紙袋から辛そうなお菓子を取り出し、おもむろに食べ始める。出待ちしていたファンの女の子たちからもらったのだろうか、弓場さんが好きそうな激辛のお菓子だ。あの女の子たち同様に、僕も一線を引いたこちら側にいる。なのに、家に帰れば同居人ですぐ隣にいる。 「あの漫才、全部僕と行った場所ですよね」 「せっかくお前が来るんだから、お前と行ったところのネタをして、お前が笑ってくれたら嬉しいなと思ってあのネタにしたんだよ」  あぁ、悔しいな、やっぱり嫌いだ、この人にはかなわない。めちゃくちゃ笑いましたと言うと、口角をあげたあとに、なんでそんな悔しそうな顔してんのと不思議がられた。バクバク食べていたお菓子に飽きた彼が、水槽の前に座り込み、金魚に餌をあげ始めた。黒い金魚は餌に一直線だが、赤い金魚は警戒しているようでなかなか食べてくれない。   今、僕と隣り合わせに座っている彼は、彼のような「ジュウケツ弓場」で、彼ではないのだ。それに、僕は認識してしまった。水槽はもうジュウケツのもので、彼はもう僕と一緒に住むべきではない。死んでしまった2匹の金魚が彼と僕で、目の前の水槽にいる金魚たちがジュウケツなのだ。僕は、ライブの高揚感でまだ頬が赤い彼の横顔を見つめる。この赤だけは彼に似合うなぁ。水槽を見つめたまま、彼の唇が動いて僕の名前を呼んだ。 「この赤いのお前に似てるけど、俺の相方にも似てるね」 「・・・そうかもしれませんね」  弓場さんが僕を忘れるくらい、僕は弓場さんは赤色が似合わないことを忘れるくらい、僕は遠くへ行く。
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