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空になった皿を回収して厨房に戻る。
誰もいない空間で1人、気合いを入れる為に袖を肘まで捲り上げる。ここからは力仕事だ。
綺麗に舐め取られた皿を洗剤を混ぜた水に浸してゴシゴシと力任せに擦ると、透明な薄い膜のようなものがぷかぷか浮いてくる。
この膜を剥がさないと皿を洗えないのだが、この作業の骨の折れること。
おかげで私の上腕二頭筋はいつのまにか立派に育ってしまっていた。
じわりと滲んで流れた汗を、肩を回して雑に拭き取り息を吐く。
さっさと終わらせてしまおうと意気込んだところで、厨房の扉がウィンと音を立てて開いた。
「…お、つかれさまです、教授」
「ああ、おつかれ」
普段、この厨房に私以外の人間が出入りすることはない。それでもたまに、こうして月に一度あるかないかの頻度で訪れる人はいる。
それは決まって私より立場の偉い人が来るもんだから、私は体を硬くする以外にないのだ。まあ、私なんかより立場の低い人間が存在するのかとか、そういうのは置いておく。
とりあえず立たせたままはまずいと思い、この厨房に1つだけある椅子を持って来ようとするとやんわり静止された。
「仕事を続けてくれて構わないよ。大した用事じゃあないしね」
大したことないなら来ないでほしいのだけれど。
と、そんなことは言えないので、言われた通り仕事に戻りながら耳だけ意識を向けておく。
「アレは餌をちゃんと食べているようだね」
教授が横から私の手元の皿を覗いて感心したように言う。
「君がここに配属される前は何を与えてもすぐに吐き出してしまったり、食べてくれないことも多かったんだ。余程君の作る餌が気に入っているらしい」
「そんなんじゃないと思います」
「はは、謙遜しなくていいさ」
愉快そうに笑うと、少しだけ声のトーンを落として、そういえばと続けた。
「君、もうここに来て何年になる」
「えっと、5年…ですかね」
「そうか、もうそんな経ったのか。こっちの仕事には慣れたかい?」
「ええ、おかげさまで」
「それはよかった」
なんてことない普通の会話だ。
教授がこんな意味のない会話を、わざわざ私とする為にここに来たのだろうか。
「心配していたんだよ。なにせこの仕事を紹介したのは僕だからね。研究室でも最近の若い子はすぐ辞めていっちゃうから困ってるんだ」
「私は…辞めませんよ。奨学金の返済だってまだたくさん残ってますし、他人と一緒に…とか、そういう仕事向いてないって、わかってるんで…ここ以外で私なんかにできる仕事なんて、ないです…。あ!いや…っ、ここの仕事が大したことないとかそういうのではなくてですね…その、」
そうだ。私は昔から他人との関わりが極端に少なく、私自身も1人でいるのが好きだったせいで、今更誰かと関わり合う仕事なんてできるとは思えなかった。
なんの才能もない人間が、ここみたいに1人で誰と会話することもなく黙々と作業をすることができる職場なんてそうそう無いだろう。
あの生き物さえいなければ、この仕事は私にとって天職と言っていい。
ただの倉庫整理のバイトだった私にこんな理想の職場を紹介してくれた教授には感謝してもしきれないほどだ。
「ああ、わかっているよ。気にしないさ、君は口下手だからねぇ」
「はぁ…へへ、すみません」
「とりあえず、君に辞める意思がないと知れて安心したよ。僕としても周りから顔馴染みがいなくなるのは寂しいからね」
「恐縮です」
「じゃあ、これは今週の分ね」
そう言って白衣のポケットから取り出した小さな袋を近くの台に置いて、教授はにこやかに扉から出ていった。
「……あっ、」
見慣れたその袋が視界に入った瞬間、錆びた鉄のように体が硬直する。
ぐわんと世界の揺れた感覚に胸からせり上がってきそうになるものを堪え、シンクに凭れるようにして体を支えた。
いつもは自分で取りに行くもんだからと油断していたのだ。
常備している胃薬を取り出して、ラムネみたいにボリボリ噛み砕いて飲み込む。
1人でいるのに、私を責める無数の声がする。
罪の意識が、声になって私を責めた。
本当に、これさえ無ければ天職なのだ。
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