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仕事が終わると敬輔はチェーンのさび付いた自転車に乗って、海岸沿いを走る。
時間は六時を過ぎている。太陽が沈んでしまう前に、浜辺に着かないといけない。こぐ脚に力を入れると、チェーンが大げさにギコギコと音を立てる。タイヤの空気もしっかり入っていないから、あまり速度は出ない。
三〇分ほどこぎ続けた。敬輔はガードレールに放り投げるように自転車を立てかけて、左右を確認することもせず、横断歩道のない道路を渡って、浜辺へ駆け入った。
やっとたどり着いた。五月のこの時間はまだまだ明るい。それに今日はよく晴れている。小さな波に反射した光がキラキラと瞬く。白くてまぶしいこの光が、もうすぐオレンジ色に変わる。そうなってしまうと探し物は難しくなる。
敬輔は焦るような気持ちで、砂浜に眼を向けた。そして、大きな8の字を描くようにウロウロと歩き回る。
眼につく物があると拾う。それが貝殻だと元の場所へ放り投げる。貝殻が目当てではない。
そんな行動を繰り返して、もうすっかり夕暮れになったときだった。今日は運がよかった。
「あった!」
無色透明のシーグラスだった。先週から取れていなかったから、久しぶりの喜びだ。
シーグラスを太陽にかざす。波に揉まれ続けたガラスは角がなくなり、無数の傷を表面に受けて曇りガラスのようになる。シーグラスに入り込んだ太陽の光も切り刻まれて複雑に散らばる。色や形でこの光はさらに変化するから、シーグラスを拾ったとき、敬輔は必ず太陽に透かして見る。
十分にその光を見た敬輔はシーグラスをしっかりと握りしめて、少し遠くの防波堤を見た。
やっぱりいた。赤い野球帽をかぶった、初老の釣り人。丸まった背中で立っていて、その鋭い眼は釣り糸を見つめている。
敬輔は自転車に駆け寄った。あの防波堤に行くには、砂浜を出てテトラポッドがたくさん置いてある場所を迂回して行かなければならない。
敬輔は防波堤の上を自転車に乗って全力疾走する。
チェーンの耳障りな音も敬輔の荒い息も聞こえていたはずなのに、釣り人は振り向きもしない。耳が悪いのでもない。胸ポケットに入っているラジオから聞こえる野球中継の音はさほど大きくはない。
「おっちゃん! みてみて! あった!」
敬輔は釣り人の横まで行くと、先ほど拾ったシーグラスを目の前に差し出して見せた。
釣り人は顔を動かさず、横目でジロリと敬輔を見た。普通の人ならこんな風ににらまれるとひるんでしまうが相手は敬輔だ。これぐらいで逃げないことを釣り人は知っている。ちっ、と舌打ちをしてから面倒くさそうに口を開いた。
「おまえ、ずいぶん久しぶりじゃのう。ガラス、まだ取りよったっんか。もう取れんのんじゃけん、ここに来るなや。おまえが来ると騒がしゅうて、魚が食いつかんわ」
今日の釣り人はいつもよりもしゃべった。ラジオから聞こえる歓声が大きいのが理由なのかもしれない。
敬輔はバケツを見た。釣り人の言葉とは裏腹に、バケツの中にはキスが一匹泳いでいた。やっぱり機嫌がいいのだ。
敬輔は自転車にまたがって、また防波堤を走ろうとする。その前に振り返って釣り人に手を振った。
「じゃあね、おっちゃん」
「おう。もう来るなよ」
その言葉はいつもの決まり文句だったから、敬輔は全く気にすることなく自転車をこぎ出した。
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