赤い口紅はもういらない

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ほんとうは、赤なんて別に好きじゃなかった。   赤という色を自ら進んで身に着けられるのは、自分に自信のある人だけだと思う。色そのものがもつ力が強すぎて、わたしのような小さな人間は押しつぶされてしまいそうになるのだ。長い間わたしは必要以上に目立たないように、それでいてダサいって笑われないように、周りの友達と雰囲気を極力合わせてきた。これまでつるんできた女友達はみんな流行り物が好きだったから世の中の流行もそれなりに追えたし、このやり方で十分うまくやっていけた。 あなたは大学に入って初めての彼氏だった。彼氏自体は人生で三人目だったけれど、あなたは前の二人とは全く違って、わたしに変わることを望んだ。付き合って一か月の日がちょうどわたしの誕生日で、あなたがくれた血のような色の口紅は、お世辞にもわたしに似合うとは思えなかったし、合わせられる服も持っていなかったから、 「これ、わたしには似合わないんじゃないかな」 と思わずこぼしてしまった。あなたはしばらく黙ったあと、はがした後の無意味にキラキラしたラッピングを見つめながら口を尖らせた。 「俺は好きだけどな」 「それ、答えになってなくない」 そのしぐさがなんだか不思議とかわいくて、まあいっかと笑ってしまったのが、今思えばいけなかったんだろうか。  その次のデートの朝。鏡の前で試した口紅はまるでそこだけ別人のようで、ずいぶんと居心地が悪かった。やっぱりやめとこうかとも何度も思ったけれど、あの日のやりとりがリフレインして、クローゼットからできる限り真赤な唇に負けないような服を探した。  待ち合わせの時間はいつもより人の視線が気になった。風も吹いてないのに、やたらと前髪をいじってしまう。自然と顔は下を向いていた。そんな不安を知りもしないのだろう。五分遅れでやってきたあなたは、顔を見るなり世界で一番幸せですって顔をした。 「きれい」 「なんか軽くない」 「そんなことないよ」 反論の余地を与えられず手を握られて、やっぱり似合うよなんて言葉をまんざらでもない気持ちで受け流した。その日は流行りの安っぽいボーイミーツガール的な映画を観て、コーヒー一杯七百円のカフェで時間をつぶして、別れ際、これまでで一番長いキスをした。  だんだんとわたしは、あなたの好きなわたしになろうと努力するようになった。真赤な口紅に合うような服を買って、メイクも髪型も変えた。友達からは、あの人と付き合いだしてから変わったねと茶化された。きっとどこかバカにしてもいたのだろう。自分に似合うとは思えない服を買い続けたのはべつに、そういう周りの目が気にならなくなったとか、恋は盲目とかそういうわけじゃない。どんなに「強い女」な恰好をしたところで卑屈な性格は変わらなかったし、鏡に映る自分を見るたびに覚える違和感は、いつまでたっても拭えなかった。ただそのほうが、あなたが近くにいてくれるような気がしていた。  別れを切り出されたのは、付き合って二年と少したった日のことだった。就活が本格的に始まる前に、旅行でも行こうかなんて話をしていた。 「あのさ」 「なに」 「好きな人できた、ごめん」 「……」 「ごめん」 「そっか」 「ごめん」 「いいよ」 最後の会話はずいぶんあっさりと終わって、一杯七百円のコーヒーはあなたが代金を払った。付き合い始めのカッコつけていたころを思い出しておかしくて、すこし笑った。駅まで一緒に歩いて、それぞれ反対方向の電車に乗って家に帰った。その日は夕飯を作る気が起きなくて、賞味期限ぎりぎりのカップ麺を食べた。一口目のスープが思ったよりも熱くて、急に寂しくなって、少しだけ泣いた。  次の日は二限が休講になったから、三限は一緒に受けている友達にレジュメの回収を頼んで休むことにした。鏡の前に立って何代目かの赤い口紅を塗って、やっぱり似合わないよなんてつぶやく。もうこの口紅は、わたしには必要ない。クローゼットは真赤な口紅に合わせた服ばかりで、あの人と付き合うまえに着ていた服はもう流行りに取り残されてしまったから、新しい服を買いに行かなくちゃ。別れたとたん服装を変えだしたら、また友達に笑われるんだろうけれど。  なるべく目立たない服を選んで、化粧はほとんどせずに買い物に出かけた。途中のコンビニで立ち読みしたファッション誌によると、今年の夏はペールトーンがトレンドらしい。  別れてから三か月くらいたったころには、服装の変化を友達に指摘されることもなくなって、周りの色に目立たず溶け込めるようになっていた。お昼ご飯を一緒に食べる友達を学部棟の前で待っていると、あの人が女の子と一緒に歩いているのが見えた。その女の子はいかにも「女の子」といった感じで、パステルカラーのふんわりとした服を実に自然と身にまとっていた。  うそつき。あなたは、やっぱりひどい人だ。
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