第2章 再び、向こう側の世界へ

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「誰だろう? 果林さん、きょうは誰も来ないって言ったのに」  誰かが訪ねて来ても、出なくてもいいと果林さんは言っていた。  配達や集金は全部この時間は外しているし、平日のこういう時間に来るのは、何かの勧誘とか、あまり歓迎したくない人のことが多いらしい。 「居留守使っちゃおうか。もうすぐ扉が開くかもしれないものね」  七都は呟いたが、果たして扉が開いたとして、あんな夢を見た後で、向こうに行く勇気が出てくるのかどうか。  扉が開く僅かで貴重な時間は、躊躇している七都の前を、ただ通り過ぎて消えてしまうことになるかもしれない。  ナチグロ=ロビンが、ソファから、ぽんと飛び降りた。  彼は片手を伸ばして、リビングのガラス扉を慣れた様子で難なく開け、玄関に走る。 「あ。ちょっとおお。それ、出ろってこと?」  七都は仕方なく、ソファから立ち上がった。    ガラス扉を開けると、ナチグロ=ロビンは、既に玄関で尻尾をくるっと巻いてきちんと座り、七都が来るのを待っていた。 「誰? あなたの知ってる人なの?」  七都は、玄関ドアを開ける。  真昼のやけに明るい白い空間が、ドアの隙間から細長く現れた。  それを背景に、ひとりの女性がそこに立っていた。 「こんにちは」  彼女は七都に微笑みかけた。もちろん、見知らぬ女性だった。  年齢は七十歳を超えているかもしれない。目は、日本人離れした紅茶色。ほとんど白髪に近くなった灰色の髪を形よくまとめ、地味目のスカートにカットソー、涼しげな夏用のカーディガンを羽織っている。胸元には、金色の猫の目を思わせるようなデザインのペンダント。  若い頃は、かなりの美人だったんだろうな、と七都は思う。  彼女の顔には、年齢に応じたシミや皺は刻まれてはいたが、過去の美しさを想像する障害にはならなかった。  彼女は、片手に大きめの白い籐のバスケットを下げていた。 「あ、あのう……」 「昨日は、うちの若い子が、大変失礼を致しました」  彼女は言って手を折り曲げ、七都に向かって頭を下げる。  その仕草は、きのう父の会社のビルのエレベーターで会った、あの青年の挨拶の仕方に似ていた。 「あなたは……見張り人さん……?」  彼女は頷いた。そして、七都に訊ねる。 「上がらせていただいても、よろしいですか?」 「ど、どうぞ」 「猫も?」  彼女は、バスケットを示してみせる。 「その中は猫ですか? あ、でも、うちにも猫が……」 「大丈夫ですよ。おたくの猫さんとは仲良しですから」  彼女がバスケットの蓋を開けると、美しい白い猫が、ゆっくりと出てきた。  白い猫は、ナチグロ=ロビンに近づいて鼻先を合わせ、それから彼の頬を舐め始める。  ナチグロ=ロビンは、仕方ないなーというような顔をしていたが、まんざらでもなさそうだった。 「もしかして、うちの猫、おたくにお邪魔してます?」  七都は、彼女に訊いてみた。 「たまにね。そうしょっちゅうじゃないけど」  彼女が微笑して、答える。  ロビンったら。もう既に、見張り人さんとはお友達なんだ。  彼は、七都の知らない魔神族のネットワークなんかを、こちらで作り上げていたりするのかもしれない。  七都はちらっと、白い猫に舐められているナチグロ=ロビンを眺めた。 「話したことあります? うちの猫と」 「それはないですね。あの猫さん、こちらではただの猫ですからね。口はきけません。深夜の、そうね、三時前後を除いてはね」  彼女が言った。 「深夜の三時? その時間には話せるってことですか?」 「そうですよ。その時間だけ、向こうでの姿に戻れますから」 「なんだ。こっちでも話せるんだ。知らなかった」 「おやおや。でもまあ、向こうの世界に行ったら、うんと話せますからね」 「向こうの世界……。そうですね。彼には聞きたいことがいっぱいあるんですけど。でも……扉は、まだ開かないんです」 「そう、その扉を見せてもらいに来たんですよ」    リビングに入った彼女はバスケットを置き、緑色のドアを見つけるなり、その前に立った。  ナチグロ=ロビンと白い猫は、寄り添ったまま廊下を歩いてきて、ソファに飛び乗った。  ソファには、白と黒の大きな動く毛の玉が出来る。白猫はすぐにまた、ナチグロ=ロビンを舐め始めた。  彼女は、首から下げていたペンダントを手のひらに乗せ、アイスグリーンのドアに、もう片方の手を置いた。  しばらく彼女はペンダントを見つめていたが、やがて七都を振り返る。 「うちの若い子は、このドアは一定の時間になると開くってあなたに言ったのでしょうけど」 「ええ。きのう、そう聞きました」 「一定の時間になっても、開かないことが多かったかもしれませんね。この通路は不安定になっています。思ったとおりね。長いこと調整もされずにいたみたいですから。その猫さんには、そういう能力もないみたいですし」  彼女が言うとナチグロ=ロビンは、白猫に舐められながら、ふいっと横を向く。 「たぶん、十五年近く、ほったらかしだったと思います」  七都は、呟く。  母がいなくなってからこっち、このドアは、たぶんその時のままの状態だ。  ナチグロ=ロビンは、ただドアを抜けて向こう側と行き来するだけで、ドアの調整や管理までは出来ない。  だから、言ったのだろう。このドアを管理するのは七都の役目なのだと。 「やっぱりあなたは、こちらでは高校生だから、この夏休みに向こうに行けなければ辛いものがあるでしょう? 悠長に扉が開くのなんて、待っていられませんものね。いろいろご予定もおありでしょうし」 「……そうなんです。調整出来ます?」 「何とかね。私は、あまり上手くはないんですけど。時間がかかっちゃってね。ほんとはうちの若い子たちが来るべきなんでしょうけど、みんな、おっかながって」 「おっかないって……。私がですか?」
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