第2章 再び、向こう側の世界へ

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「私の見張り人としての役目は、もうすぐ終わりです。同時に、私の人生も終わりということです、間もなく」 「それは……」  七都は驚いて、彼女を見つめる。 「そんな顔なさらないで。人は必ず死なねばならないのです。それは魔神族も同じこと。人間より長い時間を生き、魔力を使う魔神族も、死からは逃れられません」 「もう、そういう話は……」  昨日父もそういう話をした。人はみんな死ぬんだよって。  やりきれない、せつない話。  わかっている。それは、改めて言われなくてもわかっていること。  だけど、日頃はそんなこと忘れてしまっている。  考えずに過ごしている。考えるのが怖いから。認めるのがおそろしいから。 「私は、もう十分に生きましたよ。やり残したこともありません。後悔することも、誰かを恨むこともありません。実に穏やかに最後の時まで過ごせると思います。そりゃあ、やっぱり死ぬのは怖いですけどね。自分がなくなってしまうのですもの」 「あ、あの……。こんなこと訊いて、とても失礼かもしれませんが……」 「何ですか?」  彼女は、透明な紅茶色の目を七都に静かに向けた。 「いい一生でしたか?」  彼女はしばらく七都を見つめていたが、やがて微笑んだ。 「ええ。とても」  人生の最後に、誰かに『いい一生でしたか?』って訊かれて、胸を張って、清らかな心で『いい一生でしたよ』って答えられたら最高だ、と父は言った。  この人は、そう答えることが出来る最高の素敵な人生を送ったのだ。  それはちょっぴり羨ましいことなのかもしれない。  でも、やはりこの人がいなくなるのは悲しい。  もう会えないなんて。今、目の前にこうして存在するのに。今、ちゃんと生きているのに。  七都は、彼女に腕を回した。彼女の体は、手だけではなく、全部が冷えていた。  彼女に何かしてあげたかった。何か言いたかった。でも思いつかなかったので、取りあえずそうしてみた。 「ご苦労さまでした。あなたがご自分の役目を全うしてくださったことを感謝します。本当に長い間、ご苦労さまでした」  彼女を抱きしめると同時に、七都の口から言葉が漏れた。  なぜだかわからなかったが、そう言いたかった。そう言わなければならないような気がした。  彼女はもう一度、さらに丁寧に、先程と同じ挨拶を七都に向かって行った。 「最後にあなたからそういう言葉をいただけるとは思いませんでした。でも、とても嬉しく感慨深いです。私たちを派遣したのは、あなた方なのですから」  あなた方? あなた方って……?  彼女は七都の手を取り、金色のペンダントを握らせた。  そっと開けてみると、それはピンポン玉を半分に切ったような形と大きさの、ドーム型の透明な石だった。  ドームの底の金色はよく見ると、同じ金色をしたいろんな形の機械の集まりだった。  その機械の上あたりに、闇色の線がふわっと浮かんでいる。  半球のそのペンダントトップは、金色の猫の目にそっくりだった。 「これは……」 「私たち古い世代は『案内の目』なんて呼んでましたけど、若い人たちは、単に『ナビ』って言ってるみたいです」 「ナビ?」 「これには、向こうの世界の地形的なデータが入っています。魔の領域のことも、もちろん。向こう側で役に立つと思われます。あなたに差し上げましょう」 「え……。私に下さるんですか?」 「私は、これを使うことはほとんどありませんでした。向こうへは、めったに行きませんでしたからね。おそらく私の仕事の継承者も、私に輪をかけて向こう側へは行かないでしょう。だから、あなたがお持ち下さい。もしあなたがこれを必要としないくらいに向こうの世界に詳しくなったら、その時は、これは私の仕事の継承者に返していただければ結構です」 「ありがとうございます。では、そうさせていただきます。でも、この使い方は……?」 「手のひらに乗せてかざすだけです。そうすれば、それはあなたの意思を汲み取って、あなたの知りたいことを教えてくれるでしょう」  七都はその『ナビ』を手のひらに乗せ、アイスグリーンの扉に向かってかざしてみた。  透明なドームの部分に、重なり合う長方形が二つ現われる。一つは金色、一つは銀色。 「それがぴったり重なるとき、このドアは開きます。向こう側の世界に」  彼女が言った。 「もうすぐ重なります。あと少しで」  七都は、呟く。 「では、お気をつけて。向こうでは、お辛いことが多いかもしれませんが、私たちは『魔神』なのですよ。魔神として生きていかねばなりません。そのことをお忘れなく。風の……姫君」 「え?」  七都は顔を上げたが、そのときにはもう、部屋の中には誰もいなかった。  あの白猫も消えていて、籐のバスケットもなかった。  ナチグロ=ロビンがソファに座っていて、じっと七都を見つめている。 「行ってしまった……」  七都は、呟いた。  もう二度と、あの人に会うことはない。  あの人の姿を見ることも、声を聞くことも、もう永遠にないのだ。  七都はたまらなくなって、ナビをぎゅっと握りしめた。 「あの見張り人さん、私のこと姫君って呼んだ。風の姫君って……」  <ああ、そうだね>という感じで、ナチグロ=ロビンが欠伸をする。  七都は時計を見た。  一時五十五分。  彼女が設定し直してくれたのは、二時。  あと五分で扉は開く。 「ロビン、もうすぐ行くよ。準備して!」  七都は『ナビ』を首にかけ、衣類を抱える。  ナチグロ=ロビンはそれまでと同じく、のんびりとソファに座っていた。  <準備ったって、猫だから特にないもんね。いつものことだし>と、その態度は言っていた。
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