第2章 再び、向こう側の世界へ

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 やがて、長い長い時間に思われる5分間が過ぎ去り、七都の手のひらの小さなドームの中で、金と銀の二つの長方形がぴったりと重なった。  ひゅうううう……。  風の音が、緑の扉の向こうから聞こえた。  二週間前、ベッドの中で夢心地で聞いた不思議な風の音。  あれを聞いて階段を下りたのが、すべての始まりだった。  七都は、扉の前に立った。  金色のレバーハンドルに手をかけ、ぐっと押して手前に引く。  扉の隙間から、風が吹き込んだ。はっかの匂いが混じったようなあの懐かしい空気が、リビングに渦巻く。  七都は、隙間から扉の向こう側を眺めた。  紺色の空と銀の月。そして、平たく広がる石畳。間違いない。あの世界だ。  繋がったのだ。こちら側と向こう側の世界が。  この扉によって、通路は開かれた。 「ロビン、行くよ」  七都が声をかけると、ナチグロ=ロビンはゆっくりと立ち上がった。そして伸びをし、ソファから降りてくる。 「あ、ちょっと待って。持って行くものがまだある。あと、果林さんに……」  七都は、一旦扉を閉めた。  そして、電話機のそばに置いてあったメモ帳から紙を一枚はがし、同じくそばにあったボールペンをその紙に走らせる。 <果林さんへ。行ってきます。招き猫、また借りて行きますね。 七都>  七都は、その紙をセロハンテープで扉に留めた。  それから、二週間前の帰還のあの後、定位置に戻されていた巨大な黒招き猫を抱え上げる。  招き猫の傷は、果林さんによって粘土で埋められ、絵の具で塗り重ねられて、目立たないようきれいに補修されていた。 「たぶんもう、この間みたいに傷だらけにはしないから、また一緒に来てね」  七都が招き猫と格闘しながら移動させるのを、しばらく見つめていたナチグロ=ロビンは、待ってられないやと言いたげに、自分の前足で扉のレバーハンドルを開け、外に出て行ってしまう。  風がびゅうと吹いて、扉が閉まるのと同時におさまった。  七都が扉に貼ったメモ用紙がひらひら舞って、また元の位置に戻る。 「あ、待ってよ。相変わらず冷たいんだから」  七都は招き猫を抱え上げ、扉を開けた。  青い空間が、確かにそこには広がっている。  スニーカーと服をぽいぽいと扉の向こうに投げ入れ、それから七都は、招き猫と一緒に、白緑色のドアをくぐり抜けた。  既に黒髪の美少年に変身したナチグロ=ロビンが、石畳の上に体育座りをしている。この間と同じ、白いマント姿だ。  彼は、七都と巨大招き猫をあきれたように眺めていた。  ドアを通った途端、招き猫は張子のように軽くなった。七都はそれを石畳の上に降ろす。  腕にかかる自分の髪は長く伸び、緑色がった黒の、あの不思議な色に変化していた。  両手を見てみると、ほっそりした指、小さな手のひらになっている。  もう、体は変身してしまったらしい。  たぶん目は透明なワインレッドになっていて、身長も低くなっているはずだ。 「何でまた、その招き猫が必要なのか、理解に苦しむね」  ナチグロ=ロビンが言った。  従前どおりの生意気な言い方、生意気な態度だ。 「つまり、お守りみたいなものだよ。ドアが消えちゃったら、私にはまだ位置がわかんないもの。それに、これがここにあれば、ナイジェルがもしここを通りかかったとき、私がまた、こっちの世界に来てるってわかるでしょ」  七都は説明し、それから、少年の姿になったナチグロ=ロビンをしげしげと見下ろした。 「ロビー何とかかんとか!」 「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル!!」  ナチグロ=ロビンが、ゆっくりと一語一語、教え聞かせるように発音する。 「会いたかった~! もう、あっちに戻ったら、すぐ話ができなくなっちゃったから……」  七都が抱きしめようとすると、ナチグロ=ロビンは、やはり、すいっと後ろに下がった。 「こっちでも愛想ないんだから」  七都は、口を尖らせる。  ナチグロ=ロビンは、猫の時も人に抱かれるのはあまり好きではないようだった。  抱きかかえても、三十秒もしないうちにじたばたと暴れ出すし、最悪猫パンチが飛んでくる。 「僕は、自分の主人以外には抱きしめられたくはないんだ」  ナチグロ=ロビンが言った。 「主人って、お母さん?」 「美羽さんじゃない」 「じゃ、誰? もしかして、リュシフィン?」 「……そのうち、会えるさ」 「あなたをじっくり抱きしめるには、あなたのご主人にならなきゃだめなんだ」 「まあ、食事のときは、おとなしく抱かれてやってもいいよ」 「食事? 何わけのわからないこと言ってんの」 「……」  ナチグロ=ロビンは微かに眉を寄せ、金色に緑が溶け込んだ透明な目で、探るように七都をじっと見つめた。 「あ、そうだ。私、着替えなくちゃ」  七都が今着ている服は、やはりサイズが大きくなっていた。  さっき投げ込んでおいた服を七都は拾い上げる。 「ちょっと、むこうを向いていてくれる?」 「僕が猫のときは、平気で裸でうろうろするくせに」  ナチグロ=ロビンが、素直に反対方向を眺めながら言う。 「だって、猫と男の子じゃ全然違うもん」  七都は答えたが、これからは絶対に気をつけようと心に決める。  あちらではただの猫でも、やっぱり彼の正体は、感情を持った十二、三歳の男の子なのだ。  もちろん、魔神族である彼の本当の年齢は、もっと上――何百歳にもなるかもしれないのだが。  七都はTシャツとジーンズを身に付け、スニーカーをはいた。  それから、その上からメーベルルのマントを羽織る。  Tシャツとジーンズはほぼぴったりだったが、スニーカーはまだ大きかった。もうワンサイズ小さくてもよかったかもしれない。とはいえ、紐できつく締めれば支障なくはけそうだ。 「もういいよ、こっち向いても」 「ダッサ! 趣味、悪っ!」  ナチグロ=ロビンが七都の衣装を一目見て、言った。 「そのうち、こっちでちゃんと揃えますから」  七都は、ナチグロ=ロビンを睨む。  それから、七都は脱いだ衣類をきちんとたたみ、扉を開けて、フローリングの床に置いた。  レバーハンドルを握りしめ、七都はしばしリビングの景色をぐるっと眺める。  いつもと同じ景色。カーテン、ソファ、パキラ、七都が描いた絵、父の会社のカレンダー。  けれども、こちらはもう異世界で、自分は異世界での別の姿になって、元の世界を垣間見ている。 「ここにまた、帰って来れるよね。ううん、帰ってくる。絶対戻ってくる。私の家なんだもの」  だが、この胸の不安は何なのだろう。  今度帰ってきたとき。自分は、今のままの自分なのだろうか。  今の自分のままこの扉をくぐって、再びここへ帰ることが出来るのだろうか。 「七都さん。扉を閉めて」  ナチグロ=ロビンが、静かに言った。
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