第2章 再び、向こう側の世界へ

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「うん」  七都がアイスグリーンの扉を閉めると、それはたちまち幽霊のように姿を消した。  空間を探ってみると、レバーハンドルの形と手触りは、そこに確かに存在している。だが、目には見えなかった。  黒い招き猫のドアストッパーだけが、石畳の上にぽつんと残された状況になっている。  七都は、扉の反対側に向き直る。  もう、扉は閉まってしまった。前に進むしかない。 「ところで、七都さん」  ナチグロ=ロビンが、じろりと七都を眺める。 「え?」 「ずっと言いたいことがあったんだよね。七都さんと話が出来るようになったら、まず最初に」 「な、なんだよ?」 「七都さん、子供の頃、僕のヒゲ、全部むしっただろ」 「はああ?」  七都は、あんぐりと口を開け、ナチグロ=ロビンを見下ろした。  だが彼は、相当真剣な表情をしている。 「ヒゲが全部生え揃うまで、どれだけ苦労したと思ってるんだよ」 「ちょ、ちょっと待って。子供の頃って、そんなこと覚えてないよ。あなたのヒゲをむしったことなんて。まだ私が二つとか三つとか、それくらいのことじゃないの?」 「七都さんは覚えてなくても、僕はしっかり覚えてる」 「ご、ごめんなさい。悪かったよ。謝る。すみません。申し訳ありませんでした。子供のやったことだから、許してよ」  七都はあせって、ナチグロ=ロビンに向かって手を合わせた。少なからず恐縮して、頭も下げてみる。 「もちろん許す。あー、すっきりした」  ナチグロ=ロビンがにっと笑って、満足げに両腕を空に突き上げ、伸びをする。 「なに? つまりあなたは、私がヒゲをむしったことをずっと根に持ってて、それを言うチャンスを待ってたわけ?」 「それくらい大変だったってことさ」  なんて執念深い猫なんだろ。  七都は、あきれる。  私より、ずうっと年上のくせに。大人げないんだから。 「さあてと」  ナチグロ=ロビンの背中から、白い綿のようなものが湧き出てくる。  それはたちまち長く伸び、翼となって、広がった。  天使のような真っ白い鳥の翼が、ナチグロ=ロビンの背中で羽ばたく。  それは見とれるくらいに美しい白い翼だった。彼によく似合っている。 「今回は天使の羽根? いったい幾つ羽根を持ってるの?」 「基本は一つ。もともと背中に仕舞い込んでいる、黒くて醜い翼。それを魔法で変化させているだけさ。デザインは、全部あっちの世界の影響。鳥とかアニメの妖精とか。だから、種類は結構豊富だよ。別に翼がなくても飛べるんだけどね。こういうのをくっつけといたほうが、視覚的に人間から、より恐れられる効果がある」 「じゃあ、今までの虫の羽根とかコウモリの羽根とかも、魔法でデコレートされたあなたのオリジナル?」 「そういうこと」 「普通の魔神族は、背中に翼は生えていないの?」 「生えてるわけないだろ。生えてるのは、下級魔神族の一部だけだ」 「その下級魔神族って何? 魔神族とはまた違うの?」  ナチグロ=ロビンは、複雑な表情をして七都を見つめる。 「それを僕に説明させるなよ。自分で、知識として仕入れてほしいね」  白い翼が羽ばたき、ナチグロ=ロビンの体はふわりと浮き上がった。 「七都さん、じゃあね。風の都で待ってるよ」  ナチグロ=ロビンが言う。 「え? ちょ、ちょっと待って。それって、ひとりで行っちゃうってこと?」  七都は、呆然とナチグロ=ロビンを見上げた。 「大体僕は、七都さんを案内するなんて、一言も言ってないからね」  彼が、さらに高く浮き上がって、冷ややかに呟いた。 「そ、そりゃあ、そうだけど。でも、風の都に行くんでしょ? 行き先は同じわけじゃない。なら、一緒に行こうよ。そんな意地悪しないで」 「意地悪じゃない。僕は、七都さんを抱えて飛べない。七都さんも、ひとりではまだ飛べないだろ?」 「……上下にしか飛べない」 「それに、七都さんは昼間移動出来るけど、僕は夜しか移動できない。となると、別々に行くしかないよね」 「待って。私、あなたに案内してもらわないと、どこに行っていいかわからないよ」 「記録係にナビをもらっただろ」 「記録係……って? さっきの見張り人さん?」 「あれがあれば、場所はわかる。そもそも風の都まで来られないくらいなら、この世界で無事に生きていく資格なんてないよ。ここは、七都さんがいた平和な世界とは全然違うんだ。弱肉強食、適者生存、優勝劣敗なのさ。自分ひとりの力で、地道に風の都の入り口まで来てごらん。そこまで来られたら、風の城まで案内するよ」 「風の都は閉ざされてるんじゃないの? 入れるの?」 「閉ざされてるのは、他の一族に対してだけ。風の魔神族は自由に入れるよ」 「教えて。風の都には、お母さんはいるの?」 「少なくとも、僕は美羽さんの姿をあそこで見たことはない。美羽さんが、央人さんと七都さんの前から姿を消して以降は」  ナチグロ=ロビンが答えた。そして彼は、金色の目で七都を見据える。 「それにね。七都さんは、どうやら肝心なことがわかってないよ」 「肝心なこと?」 「それも、風の都に来るまでに嫌でもわかるだろ。じゃあね。まあ、せいぜい気をつけて。油断は禁物だよ。こっちには魔神狩人も潜んでるし、下級魔神族もうようよいる。どうしても無理だったら、またドアを通って、あっちの世界に帰ればいいだけだから」  ナチグロ=ロビンは、もっと高く宙を上がった。 「あ、そうそう。七都さんがヒゲを引っこ抜いたことは、別に根に持ってないから。ちょっとおちょくっただけさ」  翼の羽ばたきの音がしだいに遠ざかる。  ナチグロ=ロビンは白い鷺くらいの大きさになり、小鳥ぐらいになり、米粒くらいになり、やがて七都の視界から消えてしまった。 「えー。うそお……」  七都は、力なく呟く。 「もう、ロビーディアンなんとか。これからずっとナチグロって呼んでやるから。天使の翼より悪魔の翼のほうが、きっと似合ってるよ」  七都は途方に暮れて、招き猫の隣に座り込んだ。
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