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第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫―
穏やかに輝く月は紺色の空をめぐり、優しい風は七都をふわりと包んで、遺跡を吹き抜けて行く。
静かだ。
おそらく真夜中なのだろう。この間ここに来たときと同じように。
人間も動物も、太陽の下で活動する生き物はすべて眠りにつき、うごめくのは闇の世界の生き物だけ。そういう時間帯。
七都は招き猫にもたれかかり、二週間ぶりの異世界の、青と銀の風景を眺めた。そして、眺めながら考える。
これから、どうしよう。
まず、取りあえずゼフィーアとセレウス、あのアヌヴィム姉弟の館に行かなくてはならない。
カトゥースと、あと出来れば、ここの人々のファッション感覚に違和感のない、動きやすくて丈夫な服を用意してもらおう。
それから、ゼフィーアから情報を得る。
この間は、ほとんど彼女とは話は出来なかったけれど、今回はじっくり話をして、彼女の知っていることを教えてもらう。
ゼフィーアは魔貴族に仕えていたらしいから、魔神族には詳しいはずだ。
見張り人グループの記録係より、たくさんのことを知っているかもしれない。
そもそも、『魔貴族』とは何なのか。そのこともちゃんと聞かなければならない。もちろん『下級魔神族』のことも。
この世界の地図も、見せてもらわなければ。
ナビはあるけれど、やっぱり全体的な地理を頭に入れておきたい。
今はまだ深夜だから、彼らは当然眠っているだろう。いくら魔法使いだとはいえ、人間なのだ。
たとえ彼らが夜型とか宵っ張りの魔法使いだとしても、この時間に訪ねるのは、やはり常識的ではない。
夜が明けたら遺跡の丘を下りて、再びあの町に行こう。
また朝市が開かれていて、ティエラとセージに会える可能性もある。
セージはともかく、ティエラにはあまり歓迎されないかもしれないけれど。
七都は、胸にかけていたナビを手のひらに乗せてみる。
「これ、絶対猫の目をモチーフにしてるよね」
透明な半球の中に浮かぶ、闇色の細長い瞳。その下に広がるのは、金色の機械の集まり。
猫の目は、真っ直ぐ上空を見つめているように見えた。
そのデザインは、どこかエヴァンレットの剣を思い起こさせる。
透明な水晶のような石の中に閉じ込められた機械。
あの剣も、たぶん中はこんな感じの金色の機械だった。形はちょっと違うけれど、どこか同じような系統のきれいな道具だ。
「風の都は、どこにあるの?」
七都は、ナビに向かって訊ねてみた。
すると、たちまちナビの透き通ったドームの中に、ぼうっと赤い光が浮かび上がる。
ナビの中を覗き込んでみると、赤い色をした細い線が見えた。
それをかざして遠くを見ると、赤い線は山の向こうのある一点に伸びていた。
「あの方向なんだ。へえ。すごい。訊いたら教えてくれるんだね。これなら、風の都まで割と簡単に行けるかも」
その時――。
七都は、悲鳴を聞いた。
「ぎゃああああ」という、男性の声だった。
その後、「ひいいい」「うううう」という、同じ人物のものらしい、弱々しいうめき声が続く。
「な、なに?」
七都は身構える。自分の鼓動が、意識していないのに速くなる。
恐怖に支配された、そして苦痛に歪んだような、あの声……。
誰かが、何かに襲われてる?
甘い香りが、微かに漂ってくる。
それは、ゼフィーアが遺跡の地下の広間で炊いていたお香によく似た匂いだった。
芳しいが、だが一方でどこかむせ返り、全身が総毛立つような雰囲気も合わせ持つ、不思議な危険な匂い。
これはいったい、何の香り?
七都は、ゆっくりと立ち上がった。そして、香りに導かれて移動する。
こっちだ。香りが次第に濃くなる。
崩れかけた柱が、そこにあった。二週間前、七都がユードに縛り付けられた柱だ。
そのあたりにあったはずのメーベルルの鎧もユードの花束も、今はもう見当たらない。
柱の近く、月の光に照らされた石畳に、誰かがこちらに背を向けて座っていた。
赤味を帯びた金色の髪が、何か古びた装飾品のように輝いている。
若い男性のようだ。
そして、彼の前にもう一人、別の人物が倒れているのが見える。
投げ出された手と足。その人物も、男性のようだった。
七都の気配を感じたのか、若い男性がくるりと七都のほうを振り返った。
骨のような白い肌に、無理やり嵌め込まれたような、大きな金色の透明な目。
整った顔立ちをしていたが、どこか病的な雰囲気を持っている。
彼の唇は妙に赤く、ぬるっとした液体のようなもので塗れていた。
香りがきつい。くらくらしそうだ。
(魔神族?)
七都は立ち止まったまま、彼を凝視した。彼も、鋭い視線で七都を見つめ返す。
「なんだ、お仲間か」
彼がふっと表情をやわらげ、にやっと笑った。
「厳密には『仲間』と表現するには、ちょっと違うが」
「な、何をしているの?」
七都は、訊ねた。
だが、その答えは聞かなくてもわかっているような気がした。
「何を? 見てわかるだろう。食事だよ」
「食事?」
七都は、その若者の前に横たわった人物を見下ろす。
恐怖で目を見開いたまま、事切れてきた。
細身の男性――老人だった。このあたりを通りかかった旅人なのかもしれない。
その首には血がべっとりとつき、血はさらに、石畳の上に真っ赤な水溜りをつくっていた。
ぞっとするような、大量の赤い液体。
それはぶちまけたペンキのように見えたが、ついさっきまでその男性の体内をめぐっていた血液なのだ。
そして、あたりに漂っている甘い香りの源は、おそらくこれだ。この血の香り。
七都は、口を押さえ、目をそらした。
吐き気を感じる。
だが、この芳しい香りに、奇妙で甘美な懐かしさを感じる自分がいる。そのことに気づいて、さらに七都は総毛立つ。
「魔貴族のお姫さまですか? ま、あなた方にとっては野蛮な食べ方かもしれませんね。最もあなた方が嫌うやり方だ」
赤い金の髪の若者が、ふふっと笑った。
食事……。
この人、人間の血を吸ってたんだ。そこに倒れている人を襲って……。
じゃあ……。
じゃあ、魔神族の食べ物って……人間?
魔神族は、吸血鬼ってこと?
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