第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫―

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 ぞくっとする冷たい手が、七都の手首をつかんでいた。  顔を上げると、魔神族の若者が七都の目の前に立っている。  いつの間に?  若者は口元に微かな笑みを浮かべ、金色の目で七都を見下ろしていた。  その目がどこかナチグロ=ロビンに似ていることに、七都は顔をしかめる。 「はなして」  七都は言ったが、彼はその手を離そうとはしなかった。反対に、七都をつかんでいるその手にさらに力を込めてくる。 「なぜこんなところに、魔貴族のお姫さまがたったひとりでおられるのですか? お供も連れずに。そういえば、先ほど下級魔神族の少年が空を渡って行ったが。置いて行かれましたか?」 「……」  こういう場合、もちろん置いて行かれたなどと、正直に答えてはいけない。  かといって、相手が納得するような言い訳も考えつけぬまま、七都は黙り込む。 「あの爺さん、あまりおいしくはなかったですよ。やはり、年寄りはいけませんね。最初からわかっていたのですが、こちらも背に腹は変えられないものでね。しかし彼も、こんな時間にこんなところにやってきたのが運のつきですね。魔神の神殿ということを知らなかったのかな。そうして、あなたもね。あなたくらいの年齢の魔貴族の姫君は、本当はこんなところにいてはいけないんですよ。もっと成長するまで、屋敷の奥深くでのんびり暮らしているべきなんだ。礼儀作法やら楽器の練習やら踊りのお稽古やらで時間を潰して」 「そ、そういうものかしらね」  七都は言ったが、その声は掠れていた。 「それで、あなたも魔貴族?」  七都が訊くと、若者は眉を寄せる。 「わかりませんか? 私は下級魔神族。はぐれものです。この食べ方を見ても、一目瞭然でしょう? まあ、魔貴族の方でも、趣味でこういう食べ方をされる方はおられますけどね」  彼は、七都の肩に手を回した。  まるでこれから優雅なダンスでも始めそうな、そういう体勢だった。  だが、彼の目的は明らかにダンスではなさそうだ。 「人間は確かに美味です。特に子供や少年少女。だが彼らよりもはるかに美味なのが、あなたくらいの齢の魔貴族の姫君たち。あなた方は、最高のご馳走なのですよ」  彼の顔が近い。  七都は抗おうとしたが、その下級魔神族の若者に抱きすくめられてしまう。 「その、つまり、あなたは、私を襲おうとしてしてるわけ?」 「もう既に、襲ってますよ」  若者が、にっと笑った。  彼は、逃れようとする七都を崩れた柱に素早く押し付けた。  そして、七都の額あたりの髪を優しく撫でる。  身震いするくらいにおぞましかった。  ユードに柱に縛り付けられ、髪を切り取られたときのことなど、比較にならない。 「額に印がありますね。これは魔王さまが付けた印だ。きらきら光って、実にきれいだ」  彼が言った。七都の額を撫でながら。 「魔王さまが付けた印……?」 「ひとつは、水の魔王シルヴェリスさまのもの。これは、まだ新しい。ごく最近ですね。もうひとつは風の魔王リュシフィンさまのもの。こちらは少し古いもの」  シルヴェリス……ナイジェル!  そこは二週間前、別れ際にナイジェルが唇を押し付けた場所だった。  印というのは、口づけのあと?  ナイジェル……魔王シルヴェリスの口づけのあとが印となって、残っている?  そして、もうひとつあるという印……。  風の魔王リュシフィンのもの?  だとしたら、じゃあ、私は昔、リュシフィンに額に口づけをされたことがあるってこと? 「あなたは、魔王さま方の思われ人なのかな。もしかしてあなたは、王族の姫君なのかもしれませんね。どちらかの魔王さまのお妃になられる身分の方なのかも。しかし、そういうことを気にするのは、一般の魔神族以上なのでね。私は全く気にしません。それどころか、そういう姫君に巡り会えて光栄ですね」  下級魔神族の若者は、七都をいとおしげに見下ろした。 「あなたは実に愛らしく、美しい。着飾って舞踏会に出席したら、輝くばかりでしょう。だが、その愛らしさも美しさも、今は私だけのもの」 「はなしなさい! 私に触れないで!!」  七都は叫んで彼を振りほどこうとした。だが、その試みは無駄に終わってしまう。  彼は恐ろしいほどの力で、ますます強く七都を抱きしめた。 「あなた方は、我々にとっては、遠く垣間見る存在でしかなかった。それが今、私の腕の中におられる。夢のようだ。こんなところにたったひとりでおられたのは、あなたの過失ですよ。本来なら、私たちは出会うこともなかったのに」  若者は、うっとりと呟いた。  そして、恋人のように抱きしめた七都を柱に押し付けたまま、ずるずると下に移動させ始める。  あの時――。ユードがナイジェルに対してそうしたように。  このままでは、間もなく石畳を背にして、組み伏せられてしまう。  でも……あきらめない。そう。私はあきらめないから。  柱の根元あたりまで押し付けられたところで、七都は両足を素早く折り曲げた。  そして渾身の力をこめ、若者のみぞおちめがけて蹴り上げる。  七都の足はばねのように伸び、若者を数メートル先の石畳まで投げ飛ばした。 「く……。少し甘く見ましたね。そうでした。魔神族の少年少女は、馬鹿力を持っていたのですよね。まだ魔力を自在に使えない分、そういう野蛮な力をお持ちだ」  若者はふらふらしながらも、ゆっくりと起き上がる。  あまりダメージは与えられなかったようだ。  七都は柱から立ち上がって、走る。  逃げなくちゃ。どこに逃げよう?  あの様子では、すぐに追いつかれる。  そうだ。  あの緑の扉を探して、取りあえず元の世界に逃げ込んでもいいかもしれない。ナチグロが言った通りに。  それが一番安全かも。  扉は記録係に調節してもらったから、毎日でも開けられる。  この人がいないときに、またこっちに来よう。  ご馳走だなんて、冗談じゃない!  目印に置いた黒い招き猫が、おいでおいでをしているのが視界に入った。  やっぱりあの招き猫を持ってきたのは、正解だった。  あのすぐそばに扉があるはずだから、急いでレバーハンドルを探して、開けよう。  だが――。  七都は、扉を探せなかった。  下級魔神族の若者が、七都と招き猫の間に立ち塞がるように現れたのだ。
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