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ぞくっとする冷たい手が、七都の手首をつかんでいた。
顔を上げると、魔神族の若者が七都の目の前に立っている。
いつの間に?
若者は口元に微かな笑みを浮かべ、金色の目で七都を見下ろしていた。
その目がどこかナチグロ=ロビンに似ていることに、七都は顔をしかめる。
「はなして」
七都は言ったが、彼はその手を離そうとはしなかった。反対に、七都をつかんでいるその手にさらに力を込めてくる。
「なぜこんなところに、魔貴族のお姫さまがたったひとりでおられるのですか? お供も連れずに。そういえば、先ほど下級魔神族の少年が空を渡って行ったが。置いて行かれましたか?」
「……」
こういう場合、もちろん置いて行かれたなどと、正直に答えてはいけない。
かといって、相手が納得するような言い訳も考えつけぬまま、七都は黙り込む。
「あの爺さん、あまりおいしくはなかったですよ。やはり、年寄りはいけませんね。最初からわかっていたのですが、こちらも背に腹は変えられないものでね。しかし彼も、こんな時間にこんなところにやってきたのが運のつきですね。魔神の神殿ということを知らなかったのかな。そうして、あなたもね。あなたくらいの年齢の魔貴族の姫君は、本当はこんなところにいてはいけないんですよ。もっと成長するまで、屋敷の奥深くでのんびり暮らしているべきなんだ。礼儀作法やら楽器の練習やら踊りのお稽古やらで時間を潰して」
「そ、そういうものかしらね」
七都は言ったが、その声は掠れていた。
「それで、あなたも魔貴族?」
七都が訊くと、若者は眉を寄せる。
「わかりませんか? 私は下級魔神族。はぐれものです。この食べ方を見ても、一目瞭然でしょう? まあ、魔貴族の方でも、趣味でこういう食べ方をされる方はおられますけどね」
彼は、七都の肩に手を回した。
まるでこれから優雅なダンスでも始めそうな、そういう体勢だった。
だが、彼の目的は明らかにダンスではなさそうだ。
「人間は確かに美味です。特に子供や少年少女。だが彼らよりもはるかに美味なのが、あなたくらいの齢の魔貴族の姫君たち。あなた方は、最高のご馳走なのですよ」
彼の顔が近い。
七都は抗おうとしたが、その下級魔神族の若者に抱きすくめられてしまう。
「その、つまり、あなたは、私を襲おうとしてしてるわけ?」
「もう既に、襲ってますよ」
若者が、にっと笑った。
彼は、逃れようとする七都を崩れた柱に素早く押し付けた。
そして、七都の額あたりの髪を優しく撫でる。
身震いするくらいにおぞましかった。
ユードに柱に縛り付けられ、髪を切り取られたときのことなど、比較にならない。
「額に印がありますね。これは魔王さまが付けた印だ。きらきら光って、実にきれいだ」
彼が言った。七都の額を撫でながら。
「魔王さまが付けた印……?」
「ひとつは、水の魔王シルヴェリスさまのもの。これは、まだ新しい。ごく最近ですね。もうひとつは風の魔王リュシフィンさまのもの。こちらは少し古いもの」
シルヴェリス……ナイジェル!
そこは二週間前、別れ際にナイジェルが唇を押し付けた場所だった。
印というのは、口づけのあと?
ナイジェル……魔王シルヴェリスの口づけのあとが印となって、残っている?
そして、もうひとつあるという印……。
風の魔王リュシフィンのもの?
だとしたら、じゃあ、私は昔、リュシフィンに額に口づけをされたことがあるってこと?
「あなたは、魔王さま方の思われ人なのかな。もしかしてあなたは、王族の姫君なのかもしれませんね。どちらかの魔王さまのお妃になられる身分の方なのかも。しかし、そういうことを気にするのは、一般の魔神族以上なのでね。私は全く気にしません。それどころか、そういう姫君に巡り会えて光栄ですね」
下級魔神族の若者は、七都をいとおしげに見下ろした。
「あなたは実に愛らしく、美しい。着飾って舞踏会に出席したら、輝くばかりでしょう。だが、その愛らしさも美しさも、今は私だけのもの」
「はなしなさい! 私に触れないで!!」
七都は叫んで彼を振りほどこうとした。だが、その試みは無駄に終わってしまう。
彼は恐ろしいほどの力で、ますます強く七都を抱きしめた。
「あなた方は、我々にとっては、遠く垣間見る存在でしかなかった。それが今、私の腕の中におられる。夢のようだ。こんなところにたったひとりでおられたのは、あなたの過失ですよ。本来なら、私たちは出会うこともなかったのに」
若者は、うっとりと呟いた。
そして、恋人のように抱きしめた七都を柱に押し付けたまま、ずるずると下に移動させ始める。
あの時――。ユードがナイジェルに対してそうしたように。
このままでは、間もなく石畳を背にして、組み伏せられてしまう。
でも……あきらめない。そう。私はあきらめないから。
柱の根元あたりまで押し付けられたところで、七都は両足を素早く折り曲げた。
そして渾身の力をこめ、若者のみぞおちめがけて蹴り上げる。
七都の足はばねのように伸び、若者を数メートル先の石畳まで投げ飛ばした。
「く……。少し甘く見ましたね。そうでした。魔神族の少年少女は、馬鹿力を持っていたのですよね。まだ魔力を自在に使えない分、そういう野蛮な力をお持ちだ」
若者はふらふらしながらも、ゆっくりと起き上がる。
あまりダメージは与えられなかったようだ。
七都は柱から立ち上がって、走る。
逃げなくちゃ。どこに逃げよう?
あの様子では、すぐに追いつかれる。
そうだ。
あの緑の扉を探して、取りあえず元の世界に逃げ込んでもいいかもしれない。ナチグロが言った通りに。
それが一番安全かも。
扉は記録係に調節してもらったから、毎日でも開けられる。
この人がいないときに、またこっちに来よう。
ご馳走だなんて、冗談じゃない!
目印に置いた黒い招き猫が、おいでおいでをしているのが視界に入った。
やっぱりあの招き猫を持ってきたのは、正解だった。
あのすぐそばに扉があるはずだから、急いでレバーハンドルを探して、開けよう。
だが――。
七都は、扉を探せなかった。
下級魔神族の若者が、七都と招き猫の間に立ち塞がるように現れたのだ。
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