第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫―

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 彼は、瞬間的に移動することが出来るのかもしれない。  七都は固まって、彼を見上げる。  これでは、扉の中に逃げ込むことは出来ない。  若者の金色の目が、赤く燃えた。  その両目は一瞬にして、透明な金色から不透明な赤に変化する。  目全体が、血の色をしていた。まるで両目に血液を流し込み、透明な膜で閉じ込めたような。  彼の体がふわりと影のようにゆらめき、赤味がかった金色の髪も白い顔も、消え失せる。  影は濃い色になって、膨張した。  不気味な暗黒のシルエットがそこに佇む。  七都はワインレッドの目を見開いて、目の前の怪物をただ見上げた。  亡霊のように宙に浮かぶ、赤い目をした巨大な暗黒の猫。  『猫』という可愛らしい言葉の響きは、その生き物にはふさわしくはなかった。  魔物、妖怪、化け物という言葉のほうが的を射ている。  昔、子供の頃、夢の中で見たような気がする。熱を出したとき、夢に現れた恐ろしい化け物。  それに追いかけられ、必死で走った。  泣きながらどこまでも逃げたが、結局捕まってしまい、そこで夢は醒めた。  その悪夢の中の化け物が、今目の前に現実となって、七都を見下ろしている。  化け物は、蛇のような音をたてた。  そして、七都に近づいてくる。  恐怖が体を凍らせている。足が言うことをきかない。  魔力を使って、この化け猫と戦うことが出来るだろうか。  この前、ユードの剣を破壊したときは、魔力は無意識に使えた。  けれども、今この状態で、どうやって使えばいい?  カトゥースのカップを空中で壊したときみたいにすればいいのだろうか。  落ち着いて、集中して……。  だが、この状況で神経を集中して、使い慣れてもいない魔力を武器にこの怪物と対峙するなんて、不可能だ。  七都は足に力を入れて向きを変え、化け物とは反対の方向に走ろうとした。  だが、体がそう動こうとする前に、化け物の真っ黒い手が伸びてきた。  その先には、銀色のナイフのような鋭い爪が並んでいて、それらが月の光で輝くのが、はっきりと見えた。  七都の胸に鈍い衝撃が走る。  化け物の爪は七都の胸を深くえぐり、そのまま宙にきらめく弧を描いた。  七都は目を見開いたまま、石畳の上に仰向けに倒れる。  息が出来なかった。  手をそっと胸に当ててみると、さっき着替えたばかりの新しいTシャツは、ずたずたに引き裂かれている。その下の自分の胸がどうなっているのか、想像もつかなかった。  痛みは感じない。  それはもちろん、七都が魔神族だから痛みを感じていないだけだろう。  ナビのチェーンが、しゃらと音をたてる。  ナビは壊れていない。無事なようだ。    化け物が七都の体の上に覆いかぶさってくる。  七都は、口を開けた。  呼吸が普通にできない。  胸が重くて、鈍いような感覚がある。それが障害になっている。  相当深い傷をつけられたということかもしれない。 「苦シイデスカ、姫君? スグニ楽ニナリマスヨ」  化け物が言った。耳障りな、だがかわいらしくもある、奇妙な声だった。  七都の顔のすぐそばに、透明の黄色い琥珀のような石が、ぼたり、ぼたりと落ちる。  それは化け物の口からこぼれていた。 (これは、よだれ?)  七都は、ぼんやりと思う。  七都の涙は、ビーズの玉のようになった。この下級魔神族のよだれも、本来は液体のものが固体になっているのだろう。  化け物はピンク色の長い舌を出し、七都の顔を舐めた。  けれども七都にはもう、おぞましいとか、ぞっとするとか、そんな感覚さえ湧き上がってはこない。  化け物の向こうに月が見える。澄んだ輝く月。   七都は手を伸ばす。  銀色がかった白くて薄い煙のようなものが、七都の手を覆っていた。 (これは、なに……?)  それは七都の胸のあたりから、ゆっくりと湧き出している。 (これは、血? 魔神族の……血?)  魔神族は、その体を切り裂いても血は流れない。  ユードはそう言った。そしてナイジェルは、魔の領域に行けば血は流れると。  では、これは流れないという、その血なのだろうか。  魔の領域では流れるはずの血は、領域の外では、こういう銀色めいた気体のようなものになるのだろうか。  化け物は、七都の傷ついた胸のあたりに鼻を寄せた。  七都の肩は、化け物の前足でしっかりと押さえつけられている。  その仕草はやはり、猫のそれに似ていた。  伸ばした七都の手が、化け物の体に触れる。  暗黒の影の中に、やわらかく、あたたかい毛並みがあった。  やっぱり猫なのかもしれない。  そのことが、よけいに悲しく恐ろしい。  やがて、七都の体を覆っていた銀色がかった白い煙は、化け物の口の中に流れ込み始める。  化け物は、恍惚とした表情を浮かべた。  口からはみ出た鋭い牙が、やけにはっきりと見える。  あきらめない。まだ、あきらめたくない。  でも、この状況ではもう無理だ。  ユードに柱に縛られたとき……。あの時はナイジェルが助けてくれた。それに、ナイジェルが通りかからなくても逃れられたはず。この体は太陽には溶けないのだから。  でも、今回は絶体絶命だ。  この猫の化け物を倒して逃げるなんて、もう出来ない。  痛みは感じないとはいえ、たぶん体は深手を負っている。力がまるで入らない。  まだ制御も出来ない不安定な魔力も、今の状態では使えそうにない。  私は、ここで死ぬのだろうか。  この化け猫に血を吸われて?  まだこちらの世界に戻ってきて、三十分もたってはいないのに。  七都は、おぼろげな意識の中で思う。  あの胸に剣が刺さった玉座の少女……。  ここで私が死ぬのなら、あれはやっぱり私じゃなかったんだ。  でも、助けられなかった。お母さんかもしれないのに。  死ぬと、魔神族は体が残らない。 太陽に当たったときと同じように溶けてしまう。  ならば、私の痕跡さえ残らないだろう。  ロビンは、私が死んだことがわかるだろうか?  彼はあきれるだろうか。もうこの段階で終わってしまうなんて。  やっぱり風の都に来る資格がなかったんだよって、冷ややかに感想を述べるのだろうか。  そしてナイジェルは、私がいなくなったことをわかってくれるのだろうか?  私はもう、元の世界に帰れない。  お父さんにも果林さんにも、二度と会えないんだ……。  化け物に襲われているというのに、快感にも似た陶酔感が七都を包んでいる。  自分の体から銀色を帯びた煙のようなものが引きはがされ、化け物の口の中に流れ込んでいくのが、信じられないことだったが奇妙に心地よかった。  これは何だろう。  痛みを感じない魔神族が、その代わりとして感じる感覚?  食べられて行く恐怖を消しその苦痛をやわらげるための、化け物なりの獲物に対する最後のプレゼント?  遠くで犬の鳴き声がする。  その声は、次第に近づいてくるような気がする。  けれども、それは夢の中で鳴いているような、そんな聞こえ方だった。  その時。  七都に覆いかぶさっていた化け物の体が、一瞬震えた。  化け物は呻き声をあげ、背後を振り返る。  そこには、一人の人物が立っていた。
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