第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫―

4/5
58人が本棚に入れています
本棚に追加
/71ページ
「悪いね、グリアモスのお兄さん。お食事中に」  その人物が言う。  化け物の背中には、オレンジ色に輝く剣が突き刺さっていた。  怒りに燃えた化け物が、その人物に向かって手を振り上げる。  その人物は、化け物の背中に刺さった剣を素早く抜き取り、体を低くして化け物の手の攻撃から身をかわした。そして石畳を蹴り、宙に踊るように飛び上がる。  片手に高くかかげたオレンジ色に輝く剣。それはエヴァンレットの剣だった。  七都は石畳の上に力なく横たわったまま、その人物を眺めた。  ふわりとなびく栗色の髪。化け物を見据える紺色の目。まだあどけなさの残る少女の横顔。  あれは……。 (カディナ……!)  カディナは化け物の背中に飛び乗り、エヴァンレットの剣を化け物の背中にもう一度突き刺した。  だが、化け物はカディナを振り落とそうと暴れ回る。  黒い犬がカディナを乗せた化け物の周囲を回って、激しく吠え立てた。 「しぶといね。さっさと分解してしまいなさいよ」  カディナは化け物から飛び降り、その真正面に立った。  そして化け物の攻撃を余裕でかわし、くるりと回転する。  この前の、猫だらけになって二階の窓から転落した彼女とは、雲泥の差だった。 (カディナ。腕、治ったんだね……)  七都は、かすむ目で戦う彼女を見つめる。  きれいだ。動きに無駄がない。  化け物の攻撃が止まった。  カディナの手が真っ直ぐに伸ばされ、化け物の額にエヴァンレットの剣が突き立てられている。  カディナはその状態のまま動かなかった。  次の瞬間、化け物のシルエットがさらに膨張し、そのまま崩れ始める。  化け物の暗黒の体が、数万匹の小さな黒い虫のように分解した。  やがて黒い虫はさらに細かく分かれ、ざーという砂の音をたて、塵となる。塵は風に舞って消え去り、あとにはもう何も残らなかった。  黒い犬が吼えるのをやめた。  カディナは、石畳に横たわった七都に注意を向ける。 「あんた、だいじょうぶ?」  黒い犬が尾を振りながら、七都のそばに走ってくる。  耳元に吹きかけられる息があたたかい。頬に押し付けられる鼻は、ひんやりと冷たかった。  犬は七都の口元を何度も舐める。  それは猫のようにざらざらの舌ではなく、あまり馴染みのないつるりとした感触だった。  犬は苦手なほうだ。けれども「元気を出して。だいじょうぶ?」と気遣ってもらっているような気がして、七都は嬉しかった。  カディナは七都に近寄ったが、その足はぴたりと止まる。 「あんた……。この間のナナトとかいう、魔神族の子……!」  七都は倒れたまま、ぼんやりとカディナを見つめ返すことしか出来なかった。  カディナは七都を見下ろした。そして、眉を寄せ、七都の胸から目を逸らせる。 「あー。ちょっと食われたね。ちょっとどころじゃないかな」  食われた?  何を? 「あいつがなかなか分解しなかったのは、あんたを食ってたせいか」  カディナは黙ったまま、空と同じ紺色の目で七都をしばし見つめた。  それから、おもむろにエヴァンレットの剣を七都の首筋に近づける。  その透明な氷のような刃は、七都の顎の下で止まった。 (そうか。彼女は魔神狩人で、私は魔神なんだ)  七都は目を細く開け、ワインレッドの透き通った目で空を見上げる。 (ここで彼女に殺されても、文句は言えない立場ってことなんだよね……) 「相変わらずエヴァンレットは光らないか……。おまけにヴァイスもあんたに好意的だし。信じられない態度だわ」  カディナが呟くと、七都の隣に寄り添うように行儀よく座っている黒い犬が、彼女を見上げた。 「ここであんたを殺せば、すごい手柄になる。ユードが言ってた。あんたはたぶん、魔貴族か王族のお姫様だって。私は下級魔神族しか倒したことないものね。こんな好運に遭遇することなんて、もう二度とないかもしれない」  七都は、目を閉じた。  彼女のエヴァンレットの剣……。  破壊できるだろうか。この状況で。でも、死にたくはない。  カディナは、続けた。 「だけど、私があんたを殺したってわかった途端に、ユードも容赦なくあの魔法使い姉弟に殺される。彼はまだあの屋敷にいるんだから。あのセレウスって魔法使いに恨まれて、一生付け狙われるのもいやだしね。あの魔法使い、あんた命って感じだもんね。それに今のあんたは、どう見たって、傷ついて助けを求めている子猫にしか見えないもの」  カディナは、あきらめたようにため息をつく。  そして彼女は、エヴァンレットの剣を丁寧に鞘に収め、七都のそばに屈み込んだ。 「立てる? お姫さま」  七都はカディナが差し出した手を握り、上半身を起こす。  熱いくらいに、あたたかすぎる手だった。  呼吸が再び出来なくなり、七都は顔を歪める。  カディナは七都の肩を抱いて、背中をそっと撫でた。 「無理か。けれど、町まであんたを引きずって行くわけにも行かないし。ここに置いといてあの魔法使いを呼んできてもいいけど、その間にまた別の下級魔神族がやってこないとも限らない。人間に見つかって魔神族だってばれたら、やっぱり無事では済まないしね。血が出てないんだから、必ずばれるよね。……仕方ないな」  カディナはくるりと方向を変え、七都の前にかがんで背を向けた。 「さ、ここにつかまって」  カディナの華奢な背中に、七都は遠慮なく体を預ける。  助かりたい。助からなければ。  体は動かなかったが、その望みは強く湧き上がってくる。  七都の両手を首に巻きつけると、カディナは力強く、すっくと立ち上がった。 「よかった。あんた軽いね。この分なら町まで背負って行けそうだ」 「カディナ。ありがとう……」  七都はカディナの背中にもたれて目を閉じ、呟く。 「喋らないほうがいいよ」  カディナはポケットから袋を取り出し、その中に石畳に落ちていた透明の黄色い石――自分が退治した下級魔神族のよだれをしまいこんだ。 「これは貴重な証拠だから、持って行かなきゃね。町に着いたら、門番に渡さなくちゃいけないの」  そしてカディナは、石畳の上に横たわっている老人の遺体を眺めた。 「私がもっと早く来たら、あの人も助けられたのかな。でも、仕方ないよね。これもあの人の運命。寿命だったと思うことにしなければ」  そうだね……。  そう思わないと、たぶんこの世界ではやっていけないのかもしれない。  七都は心の中で思った。  だが、あの老人の悲惨な死に様は、これから夢の中に何度も登場するだろう。  あの血の色、血の量。打ち捨てられたように動かなかった彼の骸……。  たぶん一生、七都の記憶の中に刻まれる。  カディナは、七都の体をしっかりと背負う。 「首に噛みつかないでよ」 「噛みつかないよ……」  そんなこと、絶対にしない。  たとえ魔神族の食べ物が人間だとわかっても。  人間の少女がおいしいご馳走だって言われても。  そんな気になんて、毛頭なれない。 「でも、カディナのうなじはきれいだね」  七都の素直な感想に、カディナは顔をこわばらせる。 「悪い冗談だよ。それに、うなじを褒められたって嬉しくないから」  七都は、カディナの体温の高い白いうなじに頬を押し付けた。  魔神族が人間に憎まれ、恐れられてきたのは当たり前だ。  人間を襲って食料にしている、吸血鬼の一族なのだから。  だから魔神狩人が存在するのだろう。  彼らは、人間にとって恐ろしい怪物である魔神族を退治する。自分たちを守るために。  ……ティエラが私におびえるのも、セージを守ろうとしたのも、そういう理由なんだ。  人間は、魔神族にとっては食料……。そういうことなんだ……。 <七都さんは、肝心なことがわかってないよ>  ロビンが言いたかったのは、たぶんこのこと。  でも、私はどこかでわかっていたのかもしれない。  怖くて、恐ろしくて、そのことを考えないようにしていた。  無意識に目を逸らし、耳を塞ぎ、知っていたのに、知らないふりを続けようと思っていた。そうなのかもしれない。
/71ページ

最初のコメントを投稿しよう!