第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫―

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 カディナは、ゆっくりと遺跡の丘を下り始めた。  『ヴァイス』という名前らしい黒い犬は、二人にぴったりと寄り添ってついてくる。  やがて前方に、蝶がふわりと現れた。  蝶はカディナを案内するかのように、ひらひらと飛び回る。  それは魔の領域から飛んでくると言われる、あの透明な蝶だった。  黒い犬は、蝶をうっとうしそうに眺める。 「うわ、蝶だ。私、蝶苦手なんだよね」  カディナが、思いっきり顔をしかめた。  七都はカディナの背中で、目を閉じたまま、くすっと笑う。  そうなんだ。  私も蝶、嫌いだよ。元の世界では。  一匹だけだった蝶は次第にその数を増やし、群れとなって二人の周りを飛び交った。  七都の長い髪に、蝶たちがとまり始める。髪だけではなく、肩にも腕にも。手の甲にも。  精巧な美しい装飾品のように、蝶たちは七都の体を飾った。 「まったく。なんだって私が、こんな蝶だらけの魔神族をしょって、町まで歩いて行かなきゃなんないのよ」  カディナが呟いた。 「私は魔神狩人なのよ。今やってることって、絶対おかしい。怪我をした魔神族を無防備で背負ってるなんて。こんな危ないことなんてない。魔神狩人が決してやっちゃいけないことなのに」 「カディナ。あなたって、いい人だね……」  七都は呟いた。 「黙っといてよ」  カディナが言った。だが、七都は彼女に訊ねる。 「なんで魔神狩人なんてやってるの?」 「……生きるため」  カディナが答えた。 「食べるため、服を買うため、あたたかいベッドで眠るためよ。あんたはお姫様だから、わかんないかもしれないけど」 「違うよ。お姫様なんかじゃない。うちだって、そんなにお金持ちじゃない。お父さんは家族を養うために、朝早くから夜遅くまで働いてるよ。私の学費だって家のローンだって、家計を圧迫してるもの……」 「何かよくわかんないけど。あんたは別の世界では人間なんだってね。人間のままでいればいいのに」  カディナが、自分にたかりそうになった蝶を追い払いながら、言う。 「私が人間だったら、たとえばカディナ、あなたと友達になれた?」 「それは不可能。だって、あんたが魔神族になってここに来てなければ、あんたとは会えていないもの」 「それもそうだね。じゃあ、もともと無理な話なんだね……」 「人間は、魔神族にとっては食料でしょ。ずっと昔からそうだ。だから私たちは、あんたたちを狩る。襲われて食べられたくないもんね」 「でも、人間と魔神族が愛し合うこともあるって聞いたよ……」 「めったにないことだけどね」  空は真珠色を帯びてきている。山の向こうのあたりには淡い青が浮かび上がっていた。  夜明けは近い。 「カディナ。もう腕は治ったの?」 「ゼフィーアが治してくれた。別に頼んだわけじゃないよ。朝起きたら治ってた。怪我をしたのは、あの屋敷の猫を助けようとしたせいで、魔神狩人も魔神族も全然関係のないこと。そういう理由だからみたい。従ってゼフィーアは、ユードの怪我は治す気は全くないみたいね。もっともアヌヴィムに簡単に怪我を治されたりなんかしたら、ユードの自尊心はズタズタかも」 「その後、ユードは?」 「脅威の回復力を見せてる」 「そう……」  カディナは、町へと続く道を七都を背負って歩いて行く。  二人の正面には、レアチーズケーキをゆるやかな三角に並べたような町が広がっていた。  町の天辺あたりの塔が輝いている。たくさんの白い宝石を埋め込んだかのように。  間もなく新しい太陽の光が、朝の空気の中にはじけ始めるだろう。  蝶たちは誰かに合図をされたみたいに、七都の体から一斉に離れ、青い景色の中に消えて行く。  カディナは、町の門の前で立ち止まった。  門は、まだ閉まったままだ。  カディナが足で門を蹴ると、門番が窓から顔をひょいと出す。 「やあ、魔神狩りのお嬢ちゃん。無事に帰ってきたのか」  カディナは袋を取り出し、逆さにした。  袋から透明の黄色の石がボトリと二つ、地面に落ちる。 「グリアモス、つまり下級魔神族のヨダレだ。ご依頼どおり仕留めたよ。報酬をちょうだい」 「そら」  門番は、カディナに小さな布袋に入った硬貨らしきものを手渡した。 「しけてるね。これだけ?」 「下級魔神族一匹だろ? それくらいが相場だよ」 「仕方がないな。まあ、これで手を打とう。……遺跡に下級魔神族に襲われた男の人の遺体がある。旅人だと思う。間に合わなかった。あと、頼むよ」 「わかった……」  門番は神妙な顔つきになる。 「ところで、その女の子は?」  門番がカディナに背負われて、ぐったりしている七都を見下ろす。 「下級魔神族にやられたの。ゼフィーアの屋敷に連れて行く」 「この間、ゼフィーアさんのお屋敷にいた子だろ。ティエラさんと一緒に歩いていたし、セレウスさんとも歩いていた」 「よく知ってるね」  カディナは、じろりと門番を睨む。 「だてに門番やってないからな。それにきれいな女の子が現れれば、すぐに町の男たちの噂になるのさ」 「じゃあ、私の噂は?」 「そうだな。あんたは、もっとましな格好をして化粧でもすれば、噂になるかもな」  カディナは、おもしろくなさそうにふんと鼻を鳴らし、七都を背負って開かれたばかりの町の門を通った。  暗黒のシルエットとなった黒い犬も、二人に続いて門を抜ける。  町は静けさに包まれ、まだ眠りについていた。  門の両側に灯された明かりも、未だ青黒い空気の中で煌々と輝いている。  けれども、明るい朝の気配は、確実に夜の名残りの薄闇を追い払い、町を目覚めさせつつあった。
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