第1章 開かない扉

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「今朝も、駄目みたいね」  果林さんが、ドアの前でうなだれている七都に言った。 「ロビンは?」 「朝早くから出て行ったわ。散歩でしょうね」  いつもソファの定位置に丸くなっているナチグロ=ロビンは、今朝はいない。  彼が出て行ったということは、扉が向こう側に通じることを全く期待していないということになる。  じゃあ、今日も扉は開かないんだ。  七都はあきらめて、テーブルについた。  食卓には、いつものように、果林さんが作った朝食が並ぶ。  ハムエッグのポテトサラダ添え、ヨーグルトのフルーツサラダ、果汁を絞ったオレンジジュース。自家製ジャムに手作りのマフィン。もちろんピクルスも。  夏休みも果林さんは手抜きをせず、栄養のバランスを考えて、きちんと昼食も作ってくれる。  カップラーメンでいいのに。なんて、やっぱり口が裂けても言えなかった。    テーブルの真ん中に、ハーブをいけたガラスコップが置かれてある。  蝶の模様が刻まれた透明なコップ。それは、七都が向こう側の世界から持ってきたコップだった。  セレウスが用意し、遺跡の地下に置いてあったもの。ナイジェルとゼフィーアが七都の涙を入れてくれたもの。  今はそれには、ハーブが数本――セージとローズマリーが入れられている。  セージの香りはそれほどきつくはないが、ローズマリーは涼しげな香りをキッチンに漂わせていた。  庭のハーブを取って来てコップに入れ、そこに置いたのは七都だ。  向こうの世界のことを忘れないように。夢ではないということを確認するために。そして、いつも思い出すように。  たくさん植わっているハーブの中からセージを選んだのも、向こうで出会った少女の名前と同じだったからだった。  カトュースのおかげでハーブに興味を持った七都は、取りあえず庭のハーブから、少しずつ名前を覚えることにした。 「夢だったらいいのに」  果林さんが、呟いた。 「え?」 「ドアを開けたら異世界があるなんて。嘘だわ。みんな夢を見ていたのよ」 「……夢じゃないよ」  七都はコップを持ち上げて、かざした。 「ほら、これがその証拠。他にもマントもあるから」 「そのコップは、たとえば、ナナちゃんが雑貨屋さんで買ってきたもの。マントはゴスロリのお店で買ってきたもの」 「違う。私は気に入ったコップがあったら、一個だけなんて買わないもの。三個買うよ。家族みんなで使えるように。それに蝶が苦手だから、絶対ちょうちょの模様のコップなんて買わない。だいたいこの辺にゴスロリのお店なんてないよ。あっても行かないし」 「ドアを開けても異世界は現れないんだから、このまま平和に暮らせない? 今までと同じように。何も変わりなく」 「果林さん……」  七都は、果林さんを見つめた。  果林さんは観念したように肩をすくめ、笑う。 「冗談。言ってみただけ。そうよね。ナナちゃんは異世界に行かなきゃならないものね。ああ、やっぱり、なんてシュールな会話なんだろ」  果林さんは、まだこの奇妙な状況を受け入れられないようだった。  無理もない。常識では考えられないことだ。リビングのドアの向こうに別の世界があって、娘がそこを行き来するなんて。  受け入れろというほうが、無理なのかもしれない。  七都自身、正直なところ全部夢だったのじゃないかと、未だに心の片隅で疑っていたりもするのだから。 「何か、そういう症候群があったわよね」  果林さんが言った。 「子供が結婚したり、進学や就職で自立したあと、主婦が陥っちゃうっていうやつ。私、それなのかなあ。でも、ナナちゃんは結婚とかじゃなくて、異世界に行っちゃうんだけど」 「あのね、私は向こうに行っても、また帰ってくるから。私の家はここなんだよ」  七都が言うと、果林さんは消え入りそうな微笑を浮かべた。 「央人さんも、そんな感じで毎日そのコップを眺めてから、会社に行くの」 「え?」  七都は、思わず手に持ったコップを見下ろした。 「わかってる。央人さんの目には、コップを突き抜けて何が映ってるのか……」 「果林さぁん……」 「冗談。冗談だってば」  果林さんは言って、七都の紅茶をティーカップに注いだ。  おそらく『冗談』ではないのだ。  大人の当たり障りのない冷静な行動は、七都にはよくわからないことはあるが、果林さんの今の心理状態は、なんとなく理解できる。  今まで平和に暮らしてきたのに、突然現れた扉の向こうの異世界。  七都もそこに行ったし、また行こうとしている。そしてそこには、七都の本当の母もいるらしい。  おまけに父も、当然その世界のことを知っている。その世界に属するものを眺めて、物思いに耽っている。  置き去りにされているのは、果林さんだけだ。  父は、果林さんをフォローしなければならないのに、たぶんしていない。  相変わらず忙しいようで、六時には家を出るし、帰りは十一時を過ぎている。そして、休みの日も会社に出かけてしまう。  七都も、父とは向こうの世界のことを全く話せていないし、果林さんも、まともに話が出来ているかどうかあやしい。おそらく父は、帰ってきても遅い食事を取り、風呂に入ってあとはただ寝るだけの生活だ。 「央人さん、きょう、お弁当忘れて行っちゃったの」  果林さんが言った。  カウンターには、青海波模様のナプキンで包まれた、四角いお弁当箱がぽつんと乗せられていた。 「届けるのも大変だし、央人さんには外食にしてもらって、ナナちゃん、お昼、これ食べる?」 「あ、私がお父さんに届けてもいい?」  七都は、小さく手を挙げた。  そうだ。これはもしかして、チャンスかもしれない。父とゆっくり話す時間を作れる、貴重な機会。  突然、そんな考えが浮かんだ。 「ナナちゃん、行ってくれるの? 助かるわ。でも、往復2時間以上かかるわよ。暑いし」 「だいじょうぶ。暑さには慣れてる」  そう。真夏の昼間の暑さは、向こうの世界の太陽の暑さといい勝負だ。  両方とも克服してみせる。 「じゃあ、央人さんと一緒にお昼食べて来たら? 今からナナちゃんの分のお弁当も作るから」 「いいよ。手間でしょ。私は、コンビニでパンでも買うから」 「だめよ、コンビニなんて。女子高生は、ちゃんと栄養を取らなきゃ」  果林さんは、怖い顔をして言った。
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