第1章 開かない扉

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 七都は、ふだん通学で利用している私鉄の電車に乗った。いつもと同じ葡萄色の電車だが、今回は違う駅で降り、地下鉄に乗り換える。  電車の窓から、黒と灰色と人工の光に照らされた地下の景色が流れて行くのをしばらく眺めたあと、駅名を確かめて座席から立ち上がる。  エスカレーターから降りると、地上は眩い真昼の光で満ちていた。  コンクリートとガラスで出来たビル群が、水晶の結晶のようにそそり立っている。  ビルの底では、人々が穏やかに歩いていた。  日傘を差した制服姿のOLたちの集団、談笑しながら歩く、Yシャツが眩しいくらいに白いサラリーマンたち。  あちこちにカラフルなパラソルが広げられ、その下ではお弁当が売られていたり、移動カフェの車が停まっていたりする。  まだ正午には少し早いが、周囲は昼休みっぽい雰囲気に包まれつつあった。  もちろん、そんな賑やかでゆったりした風景は昼休みが近いからで、それ以外の時間のそのあたりは、もう少し無機的で閑散としたビジネス街の顔を見せているのだろう。  やっぱり、高校の制服でも浮いてる……。  七都は、人々の視線を感じた。  何でこんな時間にこんなところに高校生がいるの? という疑問が込められた視線。  確かにこのビジネス街には、高校生はいないに違いなかった。どこかでバイトをしている子とかは別にしても、ここを歩いているのは七都ぐらいだろう。場違いだということは、なんとなく感じる。  私服だったらもっと目立っていて、反感を買ったかもしれない。高校生の夏の私服は、やっぱり完璧にリゾート着という感じなのだから。  だって、今夏休みなんだもん。  そりゃあ、皆さんは、夏休みはお盆くらいでしょうけど、高校生は、ずううっと八月の終わりまで夏休みなんですよお。  七都の答えが伝わったわけではないだろうが、人々は、ああそうか夏休みか、という納得したような表情を浮かべ、それから、うらやましがるような表情になり、最後にその顔つきは、遠い日の高校生だった頃の記憶を思い出すような、懐かしい表情に変化するのだった。  ビルの一つを七都は見上げた。  そのあたりの建物の中では新しいほうの、ガラスの箱のようなビル。  白い枠の中に薄緑のガラスがはめられたきれいなその建物は、央人の会社のグループで、ほぼ占められている。  玄関ポーチには木が植えられ、花壇もあった。ニチニチソウ、ベゴニア、カンナ。  夏の花々がビルの谷間を彩り、その横では赤いおしゃれな移動カフェの車が、イラスト入りのかわいい看板を出している。  七都は、ビルの中に入った。  エアコンのきいた内部の空気が、夏の太陽の下を歩いてきた肌を冷やしていく。  中は、巨大なアトリウムになっていた。  外のきらめく夏のビジネス街の景色が、ガラス一枚を隔てただけなのに、別の世界であるかのような感じがする。  磨かれた床。建物を支える太い柱。鼻孔から入ってくるのは、冷やされてはいるがどことなく化学的な匂いが混じった、静かな空気。  ビル内は、まだ昼休みの雰囲気にはなっていなかったが、それでも、既にリラックスした社員たちが数組、のんびりと連れ立って歩きながら七都とすれ違い、建物から出て行った。  七都は、しばらくその建物内の景色をぐるりと眺めたあと、半分に切ったバウムクーヘンによく似た形の受付に行って、父の所属部署と名前を言った。  受付の女性社員は、七都が高校生だからといって、決してぞんざいな態度は取らず、丁寧に応対し、それから電話をかけて確認を取った。  厚めの膝掛けをかけている。ずっとここに座っていると冷えるのだろう。ガラスの向こうは真夏なのに、矛盾している。 「十六階までお越しくださいとのことです。エレベーターは右手、奥にございます」  受話器を置いた彼女が、にっこりと笑って七都に言う。 「ありがとうございます」  七都はお礼を言って、二人分のお弁当が入った紙袋を抱え、エレベーターに向かった。  エレベーターは、左右両側にずらりと並んでいて、七都は面食らった。  しかも、誰もいない。  誰かがいれば、何も考えず、後についていくことも出来るのに。  それでも、適当に選んでボタンを押すと、程なくポーンという軽い鉄琴のような音がして、江戸時代の行灯のような形をしたランプの一つが点灯する。  扉は音もなく開いた。七都は、あわててそのエレベーターに飛び乗る。  誰も乗っていなかったが、七都の後に男性社員が一人、乗り込んできた。  七都は、奥に移動する。  男性社員は扉に近いところでくるっと回転し、操作ボタンパネルの前に立った。 「何階ですか?」  彼が訊ねた。  しまった。ボタンを押すのを忘れていた。 「じゅ、十六階です。すみませんっ!」  七都は、あせりまくる。  本当は、先に乗った自分がそうしなければならなかったのだろうか、なんて思ったりする。  ビジネス街のこういうビルのこういうエレベーターに乗るのさえ、普段家と学校の往復が一つの狭い世界になっている高校生にとっては、ちょっとした冒険だった。  未知の場所だし、全然勝手がわからない。通常なら来ることもない場所だ。  社会人になっている頃には、普通に働いているかもしれない場所なのだが。  男性社員は十六階のボタンを押し、それから、彼の目的である十一階のボタンも押した。  七都は、彼のうしろ姿を眺める。  年齢は、二十代前半から半ばくらいだろうか。七都よりもはるかに背が高く、細身。  黒のパンツに、白地に涼しげなストライプの入ったシャツ。髪は黒く、長く伸ばしているのを首の後ろで一つに結んでいる。背中にしょっているのは、灰色の図面ケース。  デザイナーさんか、そういったアートっぽい仕事をしている人なんだろうな、と七都はぼんやりと思う。 「お困りのようですね」  その男性社員が言った。 「え?」  七都がエレベーターにうろたえていたことを言っているのだろうか?  無様なところを見られたかも。ボタンを押すのも忘れたし。  だが、そうではなかった。 「扉は、開きませんか?」  彼が、再び言った。 「えっ?」  そして七都は、彼がエレベーターの扉のことを言っているのではないということを理解した。  お弁当が入った紙袋を、七都はぎゅっと抱きしめる。 「お宅のリビングの扉は、こちらからは、ある一定の時間にならないと向こうとは通じないように設定されています。向こうからは、いつでも開けられるようにはなっているんでしょうけどね」  彼が言った。
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