第1章 開かない扉

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 ……誰?  この人、だれ?  七都は、彼を凝視する。  エレベーター内の温度が下がって行く。  七都は、それを頬やうなじ、手の甲に触れる空気で感じ取った。  彼は、ゆっくりと七都のほうに顔を向けた。  整った顔立ち。夏にしては青白すぎる肌。口元は微笑んではいたが、目には鋭い光があった。  もちろん知らない人だ。 「こちらから、いつでも開けられるようになっていたら、いろいろと問題があるんですよ。あなたは平気かもしれませんが、例えば、あなたの飼い猫は、扉を開けていきなり向こうから太陽の光が差し込んできたら、避けようもなく、たちまち溶けてしまうでしょう。実は私もそうなんですけどね。だから向こうに行くときは、例えそこが夜だとわかっていても、いつも躊躇してしまうのですよ」  この人、魔神族だ。  七都は、悟った。  そして、ますます強く紙袋を抱きしめ、目を見開いて彼を見つめる。  体が固まっている。  エレベーター内の温度も、とめどもなくどんどん下がっていく。  凍り付きそうだ。 「そ、その、一定の時間って、いつ?」  七都はやっと声を出し、質問を彼に投げかける。  喉の奥が氷の結晶で覆われてしまったように冷たく、痛かった。 「たぶん、あなたが以前、向こうに行ったのと同じ時間帯。ごくわずかな時間ですよ。お気をつけて」  彼は答えて、微笑んだ。 「体感温度は北極並みですね。お手やわらかに。では」    エレベーターがポーンという音を奏で、『11』のボタンの明かりが消えた。扉が静かに開く。  彼は七都に向かって、手を奇妙な形に交差し、腰を引いて頭を下げた。  見たこともない挨拶だった。  しかも、社会人が高校生に対して行うには、あまりにも丁寧すぎるものだった。  彼が降りた後、扉が閉まる。  七都は、抱えていた紙袋を下ろして、片手の指先に引っ掛けた。そして、エレベーターの壁にもたれかかる。  操作パネルに点った『16』の丸いオレンジ色の光が、冷たいエレベーターの中で、唯一温かみのあるものに感じられた。  あの人、魔神族だ。間違いなく。  私のことを知ってる。ロビンのことも。リビングの緑のドアのことも。  誰?  なぜ知ってるの?  魔神族って、この世界にもたくさん来てるってこと?  だが――。  七都の母の美羽も、この世界に来ていた。向こうとの混血である七都もこの世界にいる。  他の魔神族がこちら側にいても不思議はないし、七都のような子供たちだって、もっとたくさん存在するのかもしれない。ナイジェルもそうだったのだから。  『16』の丸いオレンジ色の光が消え、軽やかな鉄琴の音がして扉が開いた。  明るい光の中に、央人の姿が現れる。 「やあ。わざわざすまなかったね」  央人は、七都ににっこりと笑いかけた。 「お父さん。お父さあん……」  七都は、思わず央人に抱きついた。  果林さんがアイロンをかけて仕上げたYシャツの、微かなラベンダーの香りが言いようもなく懐かしく、手のひらを通して感じられる父の体温は、安心するくらいにあたたかかった。 「おいおい。家でもしないようなことをわざわざ会社でするのかあ?」  央人が、戸惑ったように言う。  七都は、はっとして顔をあげた。  これから食事に出かけるらしい人々が、二人の周囲にはたくさんいた。  みんな固まって、目が点になっている。  や、やばい。  もしかして、『援交の女子高生が押しかけてきて、上司(もしくは同僚・部下)がものすごく困っている図』になってる?  七都は、素早く央人から離れた。 「む、娘です。娘ですからっ。父がいつもお世話になっていますっ!!!」  七都が何度もお辞儀をすると、雰囲気がなごんだ。  『なんだ、阿由葉課長のお嬢さん?』『K学院に行ってるんだ。頭いいんだね』『かわいい~』という囁きが聞こえ、人々は何事もなかったかのように、ぞろぞろとエレベーターに乗り込んでいく。  そして、「うわ、寒っ!」とか「なんじゃ、こりゃぁ」とか、「温度下げすぎ!」「苦情だ、苦情!」などという人々のたくさんの文句ごと、エレベーターの扉は閉まった。 「お父さん、エレベーターに変な人がいたの」  七都が言うと、たちまち央人の顔が険しくなった。 「なに? チカンか? 大丈夫か? 警備員さんに知らせないと」 「違うよ。チカンじゃなくて」 「チカンじゃない?」 「その……向こうの世界の人だったみたい」  央人の顔つきが、穏やかになる。 「そうか……。まあ、いるだろうね。君に接触してきても、おかしくはない。ああ、お昼はあっちで食べよう。いい場所があるんだ」  央人は、紙袋を七都からもぎとって、通路を歩いて行く。 「接触してきても、おかしくはないって? あの人、だれ? お父さん、知ってる? 十一階で降りたよ。扉のことを教えてくれた」  七都は、央人を追いかけて、横に並んだ。 「ここで働いてるかどうかはわからない。もしかすると、君に接触するためにそこにいたのかもしれない。見張り人かな」 「見張り人?」 「美羽は、そう呼んでたよ。前に、うちに何人か遊びに来たことがある。君が生まれる前だけどね。そのとき私は、彼らと話はしなかったが、美羽に頼まれてコーヒーは出したな」 「じゃあ、私も見張られてるの、その人たちに?」 「たぶん、向こうからこっちに来てる全員が見張られてるよ。というか、軽くチェックされてるという感じかな。それが彼らの仕事らしいから。こっちの世界で悪さをするやつが出てこないように、警戒している。警察とか、パトロールみたいなもんじゃないかな。そんなに気にすることもない。普通に暮らしていれば、特に問題もないだろう。そりゃあ、七都が世界征服をもくろむっていうんなら、彼らとまともに戦わなければならないだろうけどね」 「世界征服なんて、もくろみませんからっ!」 「だろ?」
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