第1章 開かない扉

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 央人は、通路のはるか奥まで七都を案内した。  仕切られたパーテーションで作られたその通路の突き当たりには、建物の外枠とガラスの壁がすぐそばにあった。  そこは小さなテラスのようなスペースになっていて、感じのいいテーブルと椅子がいくつか置かれている。 「いつもは、OLさんたちがここでお昼を食べてるんだけどね。きょうは外食の日とかで、みんな出て行ったから。使い放題だ」  央人は紙袋をテーブルの上に置き、果林さんが作った二つのお弁当を取り出す。  七都は、椅子に座った。  後ろを振り向くと、ガラスの向こうとはいえ、すぐ足元まで真下の景色が迫っていた。 「お父さんと話がしたかったの。向こうの世界に行く前に」  七都は、父に言った。 「そうか。それで、わざわざ来てくれたのか」  央人は、既におかずを頬張っていた。牛肉の竜田揚げだ。  テーブルは果林さんの作った料理で、お花畑のようになっている。 「いつもながら、色取りも栄養のバランスも完璧だ」 「センスあるよね、果林さん。どうやったら料理がいちばんおいしそうできれいに見えるかってこと、とてもわかってる」 「今度は、学校に行く計画を立ててるみたいだな」 「知ってたの、お父さん」 「学校のパンフレットの上にナチグロが寝ていた。無理やり取ろうとしたら睨まれたから、パンフレットの詳細は覗けなかったが、何のパンフレットかはわかった。それにしても、この弁当、冷えてるな。電車のエアコンがききすぎてたのかな」  七都は、鶏のからあげを口に入れる。確かに冷たかった。  さっきのエレベーター内の温度は、やっぱり本当に下がったのかもしれない。  お手やわらかにと、あの人は言った。  すると、温度を下げたのは七都自身なのか? 「お茶はあったかいぞ。飲むか?」  央人は、紙袋から保温機能付きの水筒を取り出した。  エアコンのきいた空気の中に、熱いお茶の湯気がふわふわと上がる。  真夏に冷たいお茶ではなく熱いお茶を用意して、さりげなく入れておく果林さんは、さすがだと七都は思う。 「お父さんは、向こうの世界に行ったことあるの?」  七都は、お茶を一口飲んで訊ねた。  お茶のあたたかさにほっとする。 「ないよ。残念ながら」  央人が言った。 「……ないの?」  七都は、少し拍子抜けする。  なんだ。そうなんだ。 「悪かったな。ないとも。正直なところ、もちろん行ってみたいというのはあったよ。美羽がドアを開けるたびに見えるんだからね、向こうの景色が」 「でも、行かなかったの」 「こっちの人間を向こうに連れて行くのは、掟破りみたいだ。それこそ、見張り人たちに検挙されるんじゃないかな」 「掟破り。ルール違反ってことね」 「そうとも言う」  七都に言い直された央人は、咳払いをする。 「彼らは、その気になればこちら側の世界を支配したり、征服したりも出来るだろうに、しようとはしない。それほどの科学力も超能力も持っているに違いないのに。きっちりそういうルールを作って、見張り人も置いたりして、自分たちの行動を抑制し、分をわきまえている。基本的にいい人たちなんだろうな」  いい人か。  そういえば、ナイジェルもいい人だったな。メーベルルも。  突然、懐かしさがこみあげる。  だが父は、その『いい人たち』が向こうでは『魔神』などと呼ばれて魔物扱いされ、人間から恐れられ且つ嫌われていることを知っているのだろうか。 「お母さんから、向こうの話は聞いた?」  七都は、再び訊ねてみる。 「大体ね」  央人は、答える。  その大体とは、どれくらいの大体なのだろう? 「お母さんは、向こうのどこにいるの? 風の城ってところにいるの?」 「それは知らない」 「なんで向こうに行っちゃったの?」 「それも知らない。でも、『呼ばれた』って言った」 「呼ばれた? 誰に?」 「不明」と、央人。 「私、向こうに行ったら、お母さんに会えると思う?」 「思うよ。いつか、きっと。同じ世界にいて会えないわけがない」 「もし、お母さんに会ったら。お父さんが再婚したってこと、言ってもいいの?」  七都は、父の顔を見つめた。  央人は黙り込み、お茶を飲む。  その表情からは、何も読み取ることは出来ない。 「再婚しろって言ったのは、美羽だ」  央人が言った。 「私一人で七都を育てるのは無理だから、誰かいい人がいたら、迷わず結婚してほしいと。そう言った」 「でも、それ、お母さん、本心から言ったのかな」 「不明」と、央人が呟く。 「私だったら、嫌だと思う。だって死ぬわけじゃないんだから。お母さんは生きてて、私たちのことをずっと思ってる。向こうの世界のどこかで。誰か新しい人が入ってきて、私たちと生活してるって想像して、とても悲しい思いをしてるかも」 「そうかもしれない」  央人は、じっと天井を見上げた。  もちろん、天井そのものを眺めているわけではなく、何か七都にはわからない別のやりきれないものが、彼には見えているのかもしれなかった。 「ごめんなさい。お父さんを責めるつもりはなかったんだけど」  そうだ。果林さんに育ててもらった自分に、そんなことを言う資格なんかないのだ。  七都は、悲しくなる。 「いいよ。美羽の代わりに、君が彼女の言いたいことを言ったのかもしれないし」 「もし……。もしもだけど。お母さんに会ったとき、もしお母さんが家に帰って来たいって言ったら?」 「ありえない」  央人が答えた。どこか熱に浮かされたように。 「美羽は、帰ってはこない。彼女がそう言った。そう言って泣いていた。だから、きっとそうなんだろう」  魔神族は、泣かない。  ナイジェルの言葉がよみがえる。  なのに、母は泣いた。それがどれほどの意味を持つのか、想像もつかない。 「でも、何か状況が変わって、帰って来られることになったら?」 「そうなったら? 答えを言うと、私はもうこの料理を食べられなくなる」  央人は、果林さんが作ったお弁当を静かに眺めた。  七都は、両手を握りしめる。  せつなかった。  ぐっと力をこめて頑張らないと、たぶん意識もしないうちに、目の際あたりに熱い液体が湧き上がりそうだった。  父は、やはり母のことが忘れられないのだ。  果林さんと結婚して随分たった今でも。  果林さん……。  果林さんは、もちろん、そのことを知っている。 「私が心から愛し、そばにいてほしいと思っているのは、美羽だけだ」  央人が言った。  いいよ、お父さん。もう、改めて言わなくても。  わかってるよ。果林さんも、私も。  七都は口に出して言いたかったが、言葉を飲み込む。 「果林には、結婚する前に何度も言った。でも、彼女はそれでもいいと。言い訳になるかな。だけど、私たちには彼女が必要だったし、これからも必要だ。そうじゃないかい?」  果林さんがいなかったら、確実に、とても困った。  今のような精神的に豊かな生活なんて、出来てはいないに違いない。  父は育児ノイローゼになったかもしれないし、七都は施設に行かなければならなかったかもしれない。あるいは、親戚に預けられたかもしれないのだ。  そして、これからも果林さんがいなかったら、とても困る。二人とも、間違いなく途方に暮れてしまうだろう。  でも、それ、果林さんを都合よく利用してるってことじゃないの?  お父さんも、そして、私も。 「彼女も私たちを必要だと思ってくれているなら、このまま彼女との生活を続けて行く。今までと変わりなく。これからもずっと。それだけだ」 「お母さんは帰ってこないっていう前提で?」 「美羽は、帰ってこない。ただ……」 「ただ?」 「私の臨終のときには帰ってくる。そういう約束をした」  央人は、うつむき加減で下を眺める。  今度は恐らく床を突き抜けて、父はその彼方に何かを見ているのだろう。  彼の目にも眼鏡のレンズにも、当然何も映ってはいなかった。 「臨終って……。死ぬ間際? お父さんが死ぬ間際に、お母さんは向こうの世界から帰ってくるってこと?」
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