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七都は、食べ終わったお弁当の蓋を閉める。
果林さんがいないところで、果林さんの作ったお弁当を食べながら、こういう話をしている私たちって、すごく残酷だ。
地獄に堕ちちゃうよ。お父さんも私も。あんないい人を裏切るようなことをして。
七都は、溜め息をつく。
もし。もしも――。
母が戻ってきたいと言ったら、果林さんは出て行かざるを得ないだろう。
いや、そうなる前に、果林さんは状況を敏感に捉えて、自分から出て行ってしまうかもしれない。
「向こうでお母さんに会ったら、何て伝えればいい?」
七都は、父に訊いた。
「……何も。ただ、元気でやってると。それだけでいいよ」
央人が答える。
七都は、頷く。
うん、たぶん私も、それしか言えないと思うよ。
「もし君が向こうに行かないことを選ぶなら、何も起こらないかもしれない。こっちで、普通に高校生として暮らしていけばね」
央人が、ついさっき果林さんが呟いたのと似たようなことを言った。
「こちらの世界にずっといれば、果林だけを母親として、平和に穏やかに暮らして行くことが出来るかもしれない」
「そうしたほうがいい?」
「そうできるかい?」
央人は少し笑って、七都を見つめた。
「それは、たぶん無理だね。半分向こうの世界の人間である君は、向こうに行かなくてはならない運命だと思うよ。たとえ自分で望まなくても、向こうの世界のほうから、君にかかわってくる。見張り人の存在もそうだし、君がいつまでも無視していたら、向こうからお迎えが来ないとも限らない」
「お迎え?」
「リビングのドアを開けて入ってきたのは、美羽とナチグロだけじゃないしね」
央人は天井を見上げて、睨んだ。
「それは……見張り人さん?」
「見張り人グループは、別の彼ら専用のルートを使う」
「じゃあ、誰?」
「……かなりの美青年だった」
「向こうの人は、大概かなりの美少年で、かなりの美少女で、かなりの美女で、かなりの美青年なんだよ」
「それは、うらやましい」
央人は、にやっと笑う。
「そのうち会えるよ。きっと君の前に現れる。だからね。君にはつらくて、苦しいことになるかもしれないけど、しっかり向こうの世界を見ておいで。しかしまあ、果林の真似をすれば、『なんてシュールな会話』なんだろうね。ここは会社で、ファンタジーもメルヘンもオカルトも、そんなもののかけらさえない、おもいっきり現実真っ只中の殺風景な世界なんだけどね」
央人は空になった弁当箱を包み、紙袋の中に戻した。七都の分と水筒も手際よく入れてしまう。
昼休みも終わり近くになり、人々が会社に戻り始めていた。
食事を済ませた社員たちが、リラックスした満足げな様子で連れ立って帰ってくる。
奥のテラス空間にいる央人と七都を、ちらちらとパーテーションの影から垣間見る社員たちも出現した。
「でも、たぶん、美羽と初めて会ったときから、私の人生は『シュール』、つまり、非現実的、非日常的、超現実的なものになったんだと思うよ。だから、そういうものは全部受け止める」
央人が言った。
「今度、お父さんが家に帰ってきたとき、私は、超現実的に向こうに行ってしまっているかもしれない」
「うん。そうだね。気をつけて行っておいで」
七都は、央人が差し出した手を握った。
ナイジェルよりも、はるかにあたたかい手。
そして、ユードやセレウスの手とは、やはり温度も感覚もどこか違うその手は、心地よかった。
社員たちの、たくさんの視線を感じる。
仲のいい父娘と思われているのだろうか。
ふつう、こういう場面で握手はしないよね。
お昼を一緒に食べただけなんだもの。
七都は、苦笑する。
けれども、それから父に言う。真剣な顔に切り替えて。
「行ってきます」
七都は央人と別れ、エレベーターに乗った。
エレベーターには、今度は誰も乗り込んで来ることはなく、七都は何の支障もなく一階に降り、無事にそのガラスのビルを出たのだった。
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