第1章 開かない扉

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 七都が帰ったとき、果林さんは料理を作っていた。  グラタンにカレー、ビーフストロガノフ、春巻き、中華スープ。そして野菜や肉の煮物が、ずらりとテーブルの上に並んでいる。 「これ、晩ご飯? 豪華すぎない?」  七都が訊ねると、果林さんは、ふふっと明るく笑う。 「全部冷凍するの。ナナちゃん、向こうから帰ってきたとき、またいっぱい食べるんでしょ。最初から作ってたら間に合わないものね。ロビンくんの猫缶も、たくさん買ってきたから」 「紀州のとれとれマグロ・ムース仕立て」  七都が言うと、ソファの上で丸くなっていたナチグロ=ロビンが、<なんだ、ボケないのかよ>という表情で、ちらりと七都を見て目をそらす。  彼は、朝の散歩からはとうに帰ってきていて、それから、ずっとソファの上でテレビを見て過ごしていたようだった。 「央人さんの会社、どうだった?」  果林さんが、鍋をかきまぜながら訊いてくる。 「おもしろかったよ。何か独特の雰囲気があって。圧倒されるくらいきれいで整然としてる。お弁当、おいしかった。ありがとう」  七都は、空になった弁当箱が入った紙袋を椅子の上に置いた。 「央人さんと、お話できた?」 「うん。向かいあって座ってゆっくり話したのって、久しぶりだった」 「ナナちゃんぐらいの年齢の女の子って、あまりお父さんと話さないものね」  果林さんは、振り向かずに言った。  でも……。  私がお父さんと話した内容は、普通の話じゃないんだよね。  非現実的で、非日常的な話。  やっぱりそれも、果林さんはわかっているのだろうけど。 「ナナちゃん。明日、私、料理教室の日なの。だから悪いけど、お昼は一人で食べてね。午後いっぱい、お留守番、お願い」  果林さんが、やっと振り返って言った。  果林さんの料理教室の日。  あの日。七都がナチグロ=ロビンのあとを追いかけてドアを開け、向こうの世界に行ったのも、果林さんが料理教室に行って家にいなかった日だ。  また同じ曜日、同じ時間がやってくる。  あの見張り人は、ここのリビングの扉は、ある一定の時間にならないと向こうとは通じないように設定されていると言った。  では、扉は明日、開くかもしれない。  明日のあの時間。一時から二時くらいの間に。  そうしたら、行かなければならない。  扉の向こう側の、あの穏やかな月が輝く、青くて銀色の世界に。 「果林さん、私、留守番は出来ないかもしれない」 「え?」 「果林さんがいない間に、向こうに行くかも」 「……そう」  果林さんは、再び鍋をかき回し始める。  果林さんの後ろ姿。子供の頃は、もっと背が高くて、大きい気がした。  もう七都は、果林さんの背を追い越しているかもしれない。  七都は果林さんに近づき、背中に寄りかかってみる。  やっぱり、あたたかい。昔と同じだ。  昔はもっと身長が低かったから、果林さんの腰のあたりで体温は感じたけれど。 「あらあら。どうしたの。甘えん坊さんね。お料理を作っているときは、そういうことしちゃだめって、ナナちゃんが小さい頃に教えたわよね」 「うん。でも、今こうしたいと思ったから。ねえ、果林さん」 「なあに?」 「この家に、ずっといてくれる?」 「……」  果林さんは、答えなかった。  重苦しい沈黙。  ブーンという換気扇の音だけが、キッチンに響いている。 「その質問を、そうね、5年くらい前にされていたら、間違いなくすぐに答えられたと思うわ。もちろんよって。笑ってね」  ようやく、果林さんが言った。 「でも、今は出来ない。ごめんなさい。私は、上手く嘘はつけないの。自分にも、自分以外にも」 「果林さん……」  果林さんはレンジの火を消し、換気扇も止めた。  もちろん料理の最中に鍋の火を止めるなどということは、してはいけないのに違いなかった。  キッチンは静まり返り、夏の風がパキラの葉をこする微かな音だけが聞こえる。 「この家は、ずっとそのまま。美羽さんがここにいた頃と一緒なの」  果林さんが背筋を伸ばし、顎を上げて言う。 「そんなことないよ。だって、インテリアは果林さんの趣味じゃない」 「どれだけインテリアを私の好みのものに変えても、庭を大好きなハーブで飾っても、この家の本質みたいなものは変わらない。中庭には、誰も座らない白い椅子が据え付けられているし、リビングのあの緑の扉も、永遠にあそこにくっついてる。この家をつくったのは、央人さんと美羽さんなんだもの。当たり前よね」 「……」 「それもね、最初からわかってたんだけど。家政婦をやってた頃から」  果林さんは、小さく溜め息をついた。 「私の子供の頃の夢って知ってる?」 「確か果林さん、『お嫁さん』って言ってたよね。覚えてるよ」  七都は、答えた。 「旦那さまと子供と……みんなでおしゃれな家に住んで、料理を作って、インテリアにも凝って、庭を大好きなお花でいっぱいにして……」 「夢は、かなった?」 「そうね。でも、人間って、どんどん欲しいものが増えてくるの。別にナナちゃんだけじゃ不満ってことじゃないけど。せっかく女性として生まれてきたんだから、やっぱり子供は生んでみたいと思ってた。もちろん、今でも思ってる」 「私の弟か妹を?」 「それも最初に、央人さんに言われた。子供はナナちゃんだけにしたいってね。でも、結婚したら変えられるかなって、心の隅で期待してたの。私が変えてみせるって。でも、だめなのかな」  果林さんを無責任に励ますことは、自分には出来ない。  七都は、果林さんの背中に寄りかかりながら、唇を噛む。  わかってしまっているから。  父が愛しているのは、母だけなのだと。 「今は医学が発達しているから、四十歳を過ぎてから子供を生む人だって、そう少なくはないって聞くけど。でもやっぱり、そろそろ私にとってはタイムリミットなのよね。この家に来て、もう十年以上になる。私も、若くはなくなったわ」 「果林さん。そんなこと言わないで。悲しくなる」  果林さんは換気扇のスイッチを押し、レンジの火もつける。 「さ、続き、続き、これ、仕上げないとね。ナナちゃんも央人さんも大好物の、豚の角煮ですからねー」  七都は、果林さんの背中から離れた。  またこの背中に寄りかかって、あたたかい体温を感じることがあるのだろうか。  ぼんやりと、そう思いながら。  ナチグロ=ロビンが、金色の透明な目を大きく見開いたまま、後ろ足で首のあたりをかきむしる。  <あー、やってられないねえ>という微妙な意味合いが、その行動には混じっているように、七都には思えた。
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