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引き戸を開けて中へ入った。電気を点けると狭い部屋の全貌が明らかになった。玲奈は黒いソファに腰を下ろし、拓海は荷物を置くと部屋の外へ出て行った。
一人残されている間に玲奈は大きく伸びをした。両手を広げるスペースくらいはあるようだ。
二人がやって来たのは駅西の大通りに面したビルの七階。こんなところに漫画喫茶があるのは知らなかったし、玲奈にとっては初めての漫画喫茶体験だった。ラブホテルには数段劣るが、運よく泊まれたツインルームは一晩ならば耐えられそうと思われた。
戻ってきた拓海の手には飲み物と漫画本が握られていた。「私の分は?」と聞いてみると、拓海は「セルフサービス」とそっけなく言った。仕方がないので玲奈は疲れた体に鞭打って腰を上げた。
暗い通路をそろそろと進む。誰もいない薄暗い通路に人の気配だけが漂うさまは異様に不気味で、肝試しをしている気分だ。子供の時分には怖がりな拓海の手を引き墓地を歩いたものであるが、今となっては我が物顔で振舞っている。変われば変わるものである。
自動販売機にたどり着いてアイスココアのボタンを押した。紙コップに液体が注がれていく。ぼんやりと眺めていると、この間の拓海の母親との会話が思い出された。
――まさか同じ会社になるなんてねえ。
就職が決まった直後のことだ。お祝いと称してランチに誘われた玲奈は、数年ぶりに拓海の家に伺った。拓海は遊びに出かけていなかった。
――あの子、大学の四年間で一人も彼女を作らなかったみたいなのよ。アルバイトで稼いだお金も漫画やゲームに使ってばっかり。将来どうするつもりかしら。
美味しい紅茶をいただきながら相槌を打った。玲奈からすればさほど珍しい話でもない。実際、玲奈の大学にもそういう男はたくさんいたし、玲奈自身も稼いだお金は趣味につぎ込んで貯金はほとんど残っていない。しかし親の身からしたら我が子がオタク趣味に没頭するのは心配のようだ。
――でも杞憂だったみたいね。またこうして玲奈ちゃんに巡り合えたんだから。
そう言っておばさんは微笑んだ。
玲奈は戦慄した。学生時代にからかわれていたのとは雰囲気が違う。今までにない凄みがあった。幼馴染と結ばれた赤い糸、これこそ女っ気のない息子に残された『クモの糸』だと思っているのだろう。拓海の留守にお呼ばれした意味が理解できた。とても「そんな気はない」と宣言することは出来なかった。
ココアを手に持ち拓海の待つ部屋に戻る。今の状況をおばさんが見たらさぞ喜ぶことだろう。しかし玲奈は「お生憎様」と心のなかで呟いた。玲奈にも選ぶ権利がある。結婚するなら断然にリード、エスコートしてくれる人が良いのだった。その対極にいる拓海など論外だ。赤い糸が結ばれていようと断固として断ち切ってしまう所存だった。
部屋に着いて、ようやくアイスココアで一息入れた。拓海は一生懸命に漫画を読んでいる。まさに傍らに人無きが如し、隣の女性を退屈させていることは何も気にしていないようだった。
「ねえ、拓海はよくここに来るの?」
静寂を破り玲奈が聞いた。拓海は漫画から目も離さず言った。
「最近は来てないな。大学の時にちょくちょく通ってた」
「私、漫画喫茶ってトコ自体初めて。ジュース飲み放題なんて知らなかった」
「へえ」
「あとさ、私あんまり漫画知らないからどれ読めばいいか分かんない。オススメ教えてよ」
「適当に読めばいいよ。なんなら無理して読まんでもいいし」
「じゃあ朝まで何してればいいの?」
「寝ればいいんじゃない? とにかくうるさいから黙ってて」
ぶっきらぼうな対応が気に障った。せっかく気まずい雰囲気を解消しようと思ったのになんて態度だ。もう絶対話してやるか、と玲奈は言われた通り目を閉じた。
とは言え慣れない環境に座ったままの姿勢では中々寝付くことなど出来ない。加えて先ほど走ったおかげで服がべたついている。胸元から風を送れど不快感は拭えない。汗のにおいが気になって、鞄からコロンを取り出して吹きかけた。
「おい」
すると拓海が声を発した。「それやめろ。こんな狭いところで使ったら臭いんだよ」
口を閉ざされたと思ったら今度はこれだ。もう我慢の限界だった。
「仕方ないでしょ。誰かさんのせいで走らされたんだから」
「ついて来いなんて言ってないだろ」
「私一人を夜道に置いておくつもりだったの? 自分はカプセルホテルに同伴しようとしておいて? 信じらんない」
「結局、無駄足だったけどな」
どうしてここまでひどいことが言えるのか分からなかった。こんな男との縁を期待されていると思うと、玲奈のボルテージはさらに上がった。
「そんなんだからいつまで経っても恋人一人出来ないのよ」
「今それ関係ないだろ。って言うかなんでそんなこと知ってんだよ」
「おばさんが心配してた。『大学でも彼女一人作れない、モテない息子と結婚してくれ』だってさ。勘弁してよね」
「おふくろの奴め」
拓海は大きく舌打ちした。「余計なことを言いふらしやがって」
「おばさんに当たるのはやめなさいよ。教えられなくても分かってたからさ」
「何で?」
「ラブホじゃなくて漫画喫茶を選んだ時点で女慣れしてないのはバレバレよ」
拓海は一瞬驚いた顔を見せた。
「ココの方が安いだろ。ラブホが空いてる保証もないし」
「ラブホの料金なんて知らないでしょ。行く勇気がないって正直に言えば? この童貞」
酔いの勢いも借りて、玲奈は心のままに言葉を吐いた。思いっきり言ってやるのは快かった。
「……知ってるよ、料金くらい」
伏し目がちに拓海は言った。「ラブホなんて何回も行ってる。童貞でもない」
出まかせかとも思われたが、言いにくそうな態度から玲奈はすぐに理解した。バイトの金は漫画やアニメだけに消えたのではない。在学中に、拓海はどうやら女を買うことを覚えたらしい。
ラブホを使うと言うことはホテヘル、デリヘルと言うことだろう。しかし本番もやったと言うならばソープの経験があると言うのか。もしかするとデリヘルにお金を積んで内密に……、ということも考えられるが、いずれにしろかなり遊んできたと伺える。
玲奈は大仰にため息をついた。
「呆れた。彼女も作らないで何してたかと思ったら」
「ほっとけよ。そんなことに使えるほど金は無いんだよ」
「嘘ばっかり。風俗通いなんて相当お金無いと出来ないじゃん」
「彼女作るよりはまだ安あがりだろ。良く知らんけど、服だ食事だ旅行だと、金も時間も飛んでくんだろ? そこんとこ、実際どうなんだよ」
突然の攻勢に玲奈は「えぇ?」と変な声をだした。マズイと思った頃にはもう遅い。玲奈も誰かと付き合った経験が無い、そう拓海が察するには十分すぎる動揺だった。
拓海は大声で笑いだした。
「何だ、お前も『お一人様』かよ。おふくろが心配してるのって、もしかしてお前の将来なんじゃねえの?」
玲奈は顔が熱くなっていくのを感じた。頭に血が上って来たのは羞恥のせいか、怒りのせいか。右手には紙コップが握られている。中身をぶちまけるのはもはや時間の問題であった。
「うおっほんっ!」
隣の部屋からわざとらしい咳払いが聞こえてきた。流石に騒ぎすぎたか、でもおかげで思いとどまることが出来た。
「そうね、確かに人のことは言えないね、謝るよ」
トーンを落とし、ゆっくりと優しく言葉を吐いた。
「でも、拓海ももう少し女性の扱い方を学んどいたほうが良いよ。歩くペースを合わせるとか、行く先を相談するくらいで良いからさ。風俗の女はお仕事だから文句があっても我慢するけど、女ってそういう細かいところでフラストレーションがたまるんだから。気を付けないと、本当に一生独身のままだよ?」
こういう時は自分の非を認めた体で諭すように語るのが効果的だ。人を動かすための押し引きは仕事で学んだ。どうやら幼馴染にも有効なようだ。「悪かった」と拓海はばつが悪そうに言った。
「相手が玲奈だからって甘えてたのかもしれない。次からは気を付けるよ。俺も一応社会人だから、心配はいらない」
「本当? じゃあ未来のお嫁さんにはちゃんと優しくしてあげてね」
出来ればついでに私にも、と言おうとしたが、反省しているようなのでやめておいた。これでようやく眠れそうだ。玲奈はソファに身を預けた。
「でも俺、結婚するつもりないよ。恋人も今後作る予定なんかないし」
「なんで? そんなこと言うとおばさん悲しむよ」
正直、玲奈にはもはやどうでもいい話だった。目を瞑り睡魔が訪れるのを待つ間、適当に拓海の相手をすることにした。
「最近になって、孫の顔を見せられないのが親に申し訳ないなって思うようになってきたよ。でもだからと言って結婚は嫌だな。やっぱり一人の方が楽で良い。お金にも余裕出来るしさ」
「この親不孝者。誰か好きな人とかいたりしないの?」
数拍の間の後、「いるっちゃいる、けどさ……」と小さく答えが返ってきた。されどそれきり、待てども回答は聞こえてこない。
言いたくないと言うならば無理に聞き出すつもりはない。このまま寝てしまうことも可能だったが、玲奈は最後の含みのある言い方が気になった。まさか自分だったりして、そう冗談で思う一方、もしそうならばはっきり言えないことの説明がついてしまう。今、拓海はどんな顔をしているのだろう。真相を知るべく、玲奈は薄目を開けて覗き見た。
今日初めて真剣な拓海の顔を見た。客先との打ち合わせ中も見せなかった真摯な眼差し、それは恋を患う者の眼だ。こんな風に見つめられては普段とのギャップも相まってつい心を許してしまう、つい玲奈はそう思ってしまった。
視線の先が漫画本の表紙に描かれた女の子ではなかったのなら。
気が付くと私はアイスココアを拓海の頭に注いでいた。ビタビタと水音を響かせて、白いカッターシャツを染めていく。拓海の顔には驚愕の色が浮かんでいた。「何すんだよ!」と怒鳴られても、玲奈の心はやけに冷たく穏やかだった。
「シャワーでも浴びに行けば? ラブホ、行き慣れてるんでしょう?」
少し多めにお金を置いて、玲奈は一人で出口へ向かった。
背後で再び「うおっほんっ!」と咳払いが聞こえてきた。
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