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日が沈み、日付も変わろうという頃に、一葉は部屋から離れた場所の扉が開く音を聞いた。男女の話声が、一葉の元まで微かに届く。その声は瑞樹花灯と瑞樹玲子ーー一葉の知る二人のものだ。その二人が、瑞樹茜のアトリエに足を踏み入れる。
「本当に、この時間まで描いてるのね」
「だから言っただろ」
理知的な雰囲気を持つ玲子の呆れ声に、一緒に入ってきた花灯が応じる。
部屋に入る光の具合から、キャンバスの位置を替えて作業に没頭していた一葉が、そんな二人のやり取りを聞きながらも筆を動かし続ける。区切りがついて一葉が筆を止めるまで、二人はただ静かに様子を見ていた。
描き切った絵から視線を離して、一葉は二人を見る。
「ごめん、待たせたかな」
「別に良いわ。茜くんが筆を持ってる姿って、初めて見たけど、圧倒されるわね。花灯には、そういうの感じなかったわ」
「比較すんなよ。俺が肩身狭いだろ」
冗談めかして、花灯が言う。その目が、一葉の置いた筆に目を留める。
「……なあ、一葉。夕食はどうした?」
「ん、あぁ、そっか。すっかり忘れていたよ」
「ってことだ。玲子、用意してやってくれ」
「本当、花灯は茜くんのことは何でもわかるのね。お惣菜温めるだけだから、すぐ準備できるわよ」
玲子が部屋を出ていくのを見送って、花灯が促す。
「そういう訳で、今日は切り上げろよ。片付けはしといてやるから」
促しに応じて玲子を追う一葉に、花灯は背中で問いを発する。
「なあ、今日、調子はどうだった?」
「調子? うん。いつもどおりかな。でも、ここに来てから、色が、すごく繊細に感じられるんだ。どうしてなのかなーーと、うん。そうだね。確かに。調子が良いのかも」
弾む声を聞いた花灯は「そうか」と短く答える。一葉が部屋を出ていくのを待ってから、ゆっくりとキャンバスの正面へと周り込む。その足取りには迷いがあった。休憩時間と称して一葉が描くものは、画家・瑞樹茜の作品とは対極に位置するものだ。
正面から、花灯は一葉の絵を見る。
「……っ、はは、すげえ。ああ、やっぱり、本当は見えてるんだって、信じたくなるよなぁ」
歯を食いしばり、笑みを浮かべながら、つと涙を一条流し、花灯は痛むように胸を片手で掻きむしる。揺れる視線が捉えるのは、部屋の隅に乱暴に積まれた赤の絵の具だ。
花灯の前には、暗い赤だけで、しかし濃淡による繊細な彩りが見られる白のキャンバスがある。赤を失くした、茜一葉の作品。それを目にすることが許されるのは、今、瑞樹花灯ただ一人だけだった。
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