44人が本棚に入れています
本棚に追加
アロイスの接近
シリウスはイリスを部屋に押し込めると鍵をかけた。沈黙が怖い。シリウスは長い溜息を吐いた。イリスを振り返ると、
「お前は本当に手がかかる奴隷だな。」
シリウスの言葉にイリスは意味が分からずに見つめた。
「とりあえず…、最悪な事態は避けられたが…、また新たな問題が発生した。」
「も、問題?」
「気づいていないのか?お前は船長に目をつけられた。グレン達はまだ興味本位程度だが…、このままだとあいつらもお前をどうにかしようと近づいてくるかもしれない。」
「そ、そうなのですか?でも、あの…、船長も他の皆さんもそんなに悪い人には見えませんでした。むしろ、とっても親切で優しそうで気さくな…、」
正直、シリウスよりもよっぽど信頼できそうな人達だ。当の本人に面と向かってそんな事を言う度胸はないがイリスはそう思った。シリウスは不快気に眉を顰めた。
「…そう見えるだけだ。お前はまだあいつらの裏の顔を知らない。あいつらも俺も海賊…。その本質は変わらない。残酷で血に飢えた獣だ。」
「えっ…、」
とてもそうは見えない。イリスはそう思ったが口には出さなかった。
「いいか?あいつらには…、特に船長には近づくな。何があっても絶対にだ。常に俺の目の届く範囲で行動しろ。勝手な真似は許さない。」
「…。」
「返事は?」
「はい…。」
あまりにも横暴で一方的な有無を言わさない命令にイリスは理不尽さを感じたが頷くしかなかった。
イリスはベッドで手錠に繋がれながらもチラリ、とシリウスを窺った。シリウスは無表情で何かの作業をしている。すり鉢で何か薬草をすりつぶし、それを混ぜ合わせたり、鍋に煮込んだりしていた。薬草の調合だろうか?イリスはシリウスに訊ねた。
「あの…、シリウス様は船医…、なのですか?」
「そうだ。」
こちらをチラリとも見ないで端的に答えるシリウス。
「では、それは薬の調合でしょうか?治療に使われるのですか?」
「これは治療とは違う。船長に頼まれたある特殊な薬を調合している。」
「特殊な薬?」
イリスは首を傾げた。
「機密事項だ。お前が知る必要はない。」
シリウスにばっさりと言われ、イリスは口を噤んだ。沈黙が重苦しい。けれど、会話の糸口が掴めない。室内はシリウスが調合をする音だけが響いた。シリウスはやがて、乳白色の液体を透明のガラス瓶に入れると、それを懐に入れ、
「俺は少し外へ出る。お前は大人しくそこで待っていろ。」
そう言って部屋を出て行った。シリウスが出て行ってからもはあ、と溜息を吐くイリスだったが不意に窓が叩かれる。反射的に振り返ればそこにはアロイスがいた。
「えっ!?」
驚いて窓を開けると、
「やあ!来ちゃった!」
「アロイス!どうして、ここに?一体、どうやって…、」
アロイスは器用に部屋に入ると、背中に括り着けていた縄を解いた。
「これ位、何ってことないさ。っていうか…、君のその手錠こそ何?」
「あ…、」
イリスは手首を拘束した手錠を指さされ、言葉に詰まった。
「酷いなあ…。シリウスってば君を監禁しているの?」
イリスはアロイスの言葉に何も言い返せない。
「ねえ、ここから君を逃がしてあげようか?」
「えっ?」
「僕が匿ってあげる。」
アロイスはにっこりと笑った。その無邪気な微笑みはイリスにとって救いの手だった。
「でも…、この手錠がある限り…、私はここから逃げ出すことができないんです。鍵はシリウス様が持っていて…、」
「大丈夫!僕は、これでも細工が得意なんだ。んー。この鍵穴なら…、こうやって…、」
アロイスはイリスの手を取り、どこからか取り出した鍵の束を使って手錠の鍵穴に鍵を挿しこんだ。金属製の音と一緒にイリスは手錠から解放される。
「えっ…!?」
驚くイリスにアロイスは得意げに笑うと、
「フフッ…、どう?これで君は自由だ。」
そう言って、手を差し出した。
「待ってたわ。シリウス。」
メアリーは長椅子の獣の毛皮で敷いた上にしどけない格好で横たわっていた。薄衣にショールを羽織っただけのメアリーは胸の谷間が見えそうな程に開いた胸元を晒し、蠱惑的な笑みを浮かべてシリウスを見上げた。やや髪も乱れ、ほんのりと頬が赤い。まるで情事の跡のように艶めかしい。男なら思わず唾を飲み込んで襲い掛かりそうなものだがシリウスは眉一つ動かさず机の上にコトリ、と薬を置いた。
「頼まれていた薬だ。…それじゃあ、俺はこれで。」
「待って。シリウス。」
そのまま踵を返すシリウスを呼び止め、
「良かったら、一杯どう?いい葡萄酒が手に入ったの。」
メアリーは酒瓶を手にシリウスに微笑んだ。
イリスはアロイスから出されたお茶と茶菓子を前にして、困惑した表情を浮かべていた。
「アラン。どうしたの?もしかして、ローズティーは好きじゃなかった?」
「い、いいえ!そんな事は…、頂きます。」
アロイスから気遣われ、イリスは慌てて頭を振った。アロイスが折角好意で出してくれたお茶なのだ。イリスはカップを手に取った。独特の甘く、花の香りが鼻腔を擽る。
―う…。色と香りはいいけど…、ちょっと酸っぱい…。
少し淹れすぎたのだろうか。酸味が強い気がする。けれど、アロイスは気にした様子もなく、にこにこと微笑んでいる。イリスもどうにか顔に出さないようにアロイスにぎこちなく、笑い返した。あれから、イリスはアロイスの手によって、シリウスの部屋から連れ出された。そして、今はアロイスの部屋に匿われ、こうしてお茶をしている。
―い、いいのかな…。勝手に出てきたりして…、
「このお茶菓子、最近港で仕入れたばかりなんだよ。結構、有名なカフェらしいよ。」
アロイスはイリスにケーキを差し出した。フルーツで盛りつけされたタルトは宝石のように輝いていて、とても美味しそうだった。
「心配いらないよ。シリウスの事なら、僕が上手く誤魔化してあげる。」
「…ありがとう。」
アロイスはイリスに安心するように笑いかけた。イリスはアロイスを優しい人だなと思った。過去のトラウマから、イリスは海賊とは皆、残酷で心のない酷い人間だと思っていた。ライオネルが捕縛した海賊達の話を聞いても身勝手で非情で同情する余地もない人間ばかりだったからだ。でも、アロイスは見ず知らずのイリスの為にこうして手を貸してくれ、お茶とケーキまで用意してくれる。こんな海賊もいるんだなとイリスは海賊に対する認識を改めた。人を奴隷扱いするシリウスよりもよっぽど良心的だ。イリスは心底、アロイスに感謝した。アロイスに促され、イリスはフォークを手に取った。甘いものに目がないイリスは嬉しそうにケーキを口にした。
―美味しい…!タルト何て、久しぶりに食べたな。まさか、船の上で食べれるなんて…。
アロイスは頬杖をつき、イリスをじっと見ながら呟いた。
「美味しそうに食べるね。」
「甘いもの食べたの久し振りでつい…、」
イリスは顔に出てたのが恥ずかしくなり、頬を手で押さえた。アロイスは頬杖をついてイリスをじっと見つめた。
「ねえ…。アランは何でシリウスにあんな目に遭わされているの?シリウスに何か脅されているのかな?」
「あ、あの…、それは…、シリウス様があまり船の皆さんと関わったり、許可なく部屋を出ないようにって言ってそれで…、」
「へえ。あのシリウスが…?随分と独占欲激しいんだね。あいつ、物にも人にも執着しない奴なのに。」
「独占欲というか…、面倒な事を起こさないようにしただけだと思うんですが…。」
「ふうん?」
アロイスは面白そうに片眉をあげた。
「アランはさ。何でこの船に乗ったの?」
「え?」
「だから、この船に乗った理由だよ。『ブラッディパンサー号』の噂は君も知らないわけないでしょう?」
「は、はい。それは勿論…。」
「だよねえ。有名だもんね。この船は。」
アロイスはにっこりと笑った。
「大抵の船員は船長目当ての下心のある奴か海賊の世界でも注目を浴びているこの船に乗って名を上げたいっていう野心のある奴が多いんだけどね。君は…、違うみたいだね。」
「え…?」
「だって、君って船長を知らなかったでしょう?船長を目にした時、滅茶苦茶びっくりしていたもんね。船長が女だってことも知らなかったんでしょう?」
「は、はい…。船長の噂もかなりのやり手だって聞いていたんでまさか女性とは思わなくて…、しかも、あんな若くて綺麗なか弱そうな女性だなんて想像もつかなくて…、」
「うんうん。船長は本当にいい女だよねえ。じゃあ、君は…、誰目当てで入ったの?」
イリスは質問の意味が分からずに首を傾げた。
「あれ?違うの?船長じゃなかったら、僕達の内の幹部誰か狙いで入ったのかなって思ったんだけど…、」
「い、いえ…。そもそも、私はシリウス様に雇われただけで…、」
「…そうだったね。ごめんね。君はそんな顔をしているからてっきりそっちの気があるのかなって思ってさ。」
「はい?」
「男色家の受けの方かなって。」
イリスは飲んでいたお茶が咽てしまい、咳き込んだ。
「な、な…!突然、何を…!」
「ああ。ごめん。ごめん。海賊の世界ではよくある話だからさ。」
アロイスはおどけたようにそう言った。イリスは動揺し、変な想像をしてしまい、顔を手で覆った。
「そっかあ。じゃあ、シリウスの相手はしてないんだ?」
「す、するわけないです!そんな…!」
そもそも、イリスは女だ。勿論、シリウスはそれを知ってはいるが。けれど、今のところはシリウスとそういった関係にはなっていない。これからもそんな関係にはならないと信じたい。奴隷だからといって身体まで好き勝手されるのは絶対に嫌だった。
―で、でも…、もし仮に迫られてしまったら…?海賊は女を攫って慰み者にするって聞くし…。いやいや!まさかあの人に限ってそんな真似はしないよね?だって、どう見ても相手に困ってなさそうだし。そっち方面は淡白で興味なさそうだし…。でも、万が一という可能性だって…、
そうなったらどうしよう。どうやって切り抜ければいい?イリスは悶々と考え込んでしまった。アロイスはそんなイリスをじっと見つめた。
「…一見、無害そうなタイプに見えるけど…、実は強かなタイプだよね。君って。」
アロイスの今までにない冷たい声にイリスはえ?と顔を上げた。すると、ぐらり、と眩暈がした。身体から力が抜ける。手足が痺れて動かなくなった。ガシャン、と大きな音を立ててカップが割れる。
「あーあ。それ、姉さんから貰ったお気に入りのカップだったのになあ。残念。」
アロイスはそう呟き、イリスに近づいた。
―まさか…。お茶に何か…?
イリスは目の前に立ったアロイスを見上げた。底光りのする冷たい目をしてイリスを見下ろすアロイスの表情があった。
「君には悪いけど…、大人しく消えて貰うよ。」
何だかその表情は狂気染みていてイリスは恐怖を感じた。そのままイリスは意識を失った。
シリウスは鍵が開いている部屋に違和感を抱いた。中を開けると、そこにイリスはいなかった。舌打ちをしてシリウスは身を翻した。
最初のコメントを投稿しよう!