時計の針

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時計の針

大人しくなったイリスを抱えながら走って逃げたアンリエッタはここなら大丈夫だろうと辺りを見回し、妹をそっと地面に下ろした。すると、 「お姉ちゃんの馬鹿!」 イリスは姉を突き飛ばした。そのまま姉を殴りつける。 「母さんを見捨てて逃げるなんて…!お姉ちゃんなんて…、お姉ちゃんなんて…、大嫌い!」 姉は抵抗しない。イリスにされるがままだった。 「お姉ちゃんは母さんの事、嫌いなの!?だから、あんな酷いことが平気でできるの!?」 「イリス…。」 「もう、あたしお姉ちゃんと一緒にはいられない!」 「イリス!待って!そっちに行ったら駄目!」 何かを言おうとしたアンリエッタだったがイリスはそのまま姉の元から逃げ出した。必死に呼び止める声が聞こえるがイリスは無視をした。頭の中がぐちゃぐちゃだった。 「きゃあ!」 ドオオン!と一際近くで大きな砲撃の音がした。その衝撃でイリスは身体が宙に浮き、そのまま地面に頭を打ちつけた。一瞬、意識が遠のいた。が、頭を振って辺りを見回すと、いつの間にか火が燃え上っていた。イリスは急いで立ち上がると、見渡せば辺りには誰もいない。追ってきたと思っていた姉の姿がない。 「お姉ちゃん?」 返事はない。ゴオオ、と燃える火の音が強まるだけだった。イリスは何度も辺りを見回し、姉の姿を求めて叫んだ。 ―まさか…。お姉ちゃん…。 悪い想像にゾッとした。イリスは必死に姉の名前を呼んだ。それでも、姉の姿ばかりか声すらも返事はなかった。叫んでいる内にイリスは煙を吸い込んでしまい、ゴホゴホと咳き込んだ。これ以上、ここにいたら危険なのだと本能が告げていた。 「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」 それでも、姉を置いてはいけずに必死に呼びかける。もう二度と姉と会えないのかと考えると、ぞっとした。嫌いだなんて本心じゃなかった。イリスは分かっていた。姉が好きで母を見捨てたわけではないことを。それなのに…、イリスはギュッと目を瞑った。母の死がショックでイリスは思わず姉を責めてしまった。あのままだと、イリスは巻き添えを食らって死んでいた。姉は自分を助けてくれたのだ。母を見捨てないと二人は助からなかった。それなのに、酷い言葉を言ってしまった。イリスは後悔で一杯になった。 ―あたし…、何てこと…、何て酷いことを言っちゃったんだろう。最低なのは…、酷いのはあたしの方だ…。もし、このままお姉ちゃんと会えなかったらどうしよう…。嫌だ!そんな…、そんなの嫌だ! 突然、突風が吹き、火が勢いを増してイリスの傍まで炎が差し迫る。イリスの肌を容赦なく焼き焦がす勢いにイリスは慌てて逃げ出した。涙が止まらない。あまりの暑さに酷い汗が次から次へと流れ落ちる。額からは血も流れ出ていた。イリスは差し迫る炎に囲まれない内に必死に逃げた。 「金目の物は全部、奪いつくせ!歯向かう奴は殺せ!」 気づけば海賊達がもう近くまで来ていた。慌てて建物の陰に隠れる。血塗れの剣を手に笑う男達の姿は怖ろしい。村人を次々と斬り殺していく姿にイリスはヒッ…、と悲鳴を上げ泣き出しそうになる。 「おい!お前ら、女は殺すなよ?後で存分に遊んでやるのだからな。男は全員殺せ!皆殺しだ!」 大柄で浅黒い肌を持ち、大ぶりな刃を持った男が海賊達に指示を出している。毛むくじゃらでまるで熊みたいに大きい。逃げようとする住民を斬り捨てていく。返り血を浴びた男は残忍な笑みを浮かべており、イリスは恐怖で固まった。姉の姿を捜したいが海賊達が怖くてイリスは一軒の民家に身を潜めた。 悲鳴が聞こえる。斬り殺されていく人の声、炎で焼き殺されていく断末魔の叫び声、銃で撃たれた音、逃げ惑う人々の声や足音、海賊達の略奪行為を楽しむ笑い声、親とはぐれて泣き叫ぶ子供の声、女達の助けを求める声やすすり泣く声…。イリスは耳を塞いだ。涙が溢れて身体の震えが止まらない。イリスは怖くて出ていくことができなかった。ただ、怯えて彼らに見つからないように隠れる事しかできなかった。不意にキイン、と甲高い音が頭の中で響いた。イリスは顔を顰めた。何…?何かが伝わってくるような感覚にイリスは戸惑った。胸元が熱い。慌てて服の下を覗くと、そこには母の形見の懐中時計があった。それが熱を帯びている。壊れて時間が止まっていた時計がチクタクと音を立てて動き出している。 「どうして…?」 イリスは首を傾げた。何が起こっているのだろうか?そう思っていると、ピタリ、と時計の針が止まった。 ―イリス。この時計は不思議な力を持つの。時計の持ち主に危険が迫ればそれを教えてくれるわ。時計が動き出せばそれは警告か何かを伝えようと共鳴するサイン。針が止まった時はその方向に突き進むの。後はあなたが感じるままに行動するのよ。 母の言葉を思い出し、針の指した方向へと自然と目が行く。イリスは意を決してその方角へ走った。外へ出て、イリスは走る。ひたすら走った。すると、背後で大きな衝撃音がした。振り返ると、イリスが身を潜めていた民家が燃えていた。海賊達の仕業だろうか。それとも、燃えていた火が燃え移ったのかもしれない。どちらにしろ、あそこにあのままいればイリスは命を落としていた。呆然としていると、ジャリ、と足音がした。 「まだ生き残りがいたのか?チッ、何だ。まだ餓鬼じゃねえか。」 血が滴る剣を持った海賊が立っていた。イリスは凍り付いた。あ…、と恐怖のせいか声が出ない。 「ん?…よく見れば、珍しい髪をしているな。売れば高く売れそうだ…。」 にやり、と笑ってイリスに手を伸ばす海賊にイリスはヒッ…!と悲鳴を上げる。が、身体が動かない。ギュッと目を瞑る。 「その子から離れなさい!」 「グッ…!」 海賊の呻き声が聞こえた。見れば、海賊は立ったまま目を見開き、硬直している。戸惑うイリスにそのまま海賊は地面に倒れた。背中から血が流れていた。海賊の背で隠れていたがその背後には姉が立っていた。
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