懐中時計

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懐中時計

「あ、先生!」 イリスは小屋で飼っている牛の世話を終えて家に戻ろうとした所、丁度帰ろうとしている主治医を見かけて声を掛けた。 「イリス。」 「先生。もう帰るの?」 「ああ。…お母さんは今日は少し顔色もいいし、大丈夫そうだ。」 「本当!?ねえ、先生。母さんはいつになったら元気になるの?」 イリスは母の身体がいつかはよくなるのだと信じて疑わない。そんな純粋な眼差しに主治医は一瞬痛ましそうに顔を歪め、イリスの頭を撫でた。 「…とにかく今は安静にして、処方した薬をきちんと飲んで栄養のある食事と睡眠をとることが大切だ。そうすれば、お母さんの身体も徐々に回復するだろう。」 「うん!分かった!あたし、母さんが早く良くなるように頑張る!この前ね、教会でもお祈りしたの。母さんの身体が良くなりますようにって。シスターも信心深く、いい子でいればきっと祈りは叶えられますよって言っていたし、きっと大丈夫だよね。」 イリスはにこにこと無邪気に笑って言った。 「あ、ああ…。そうだね。きっと…。」 主治医はイリスの目からそっと視線を逸らした。その様子に気づかず、イリスは母がよくなるかもしれないという希望を抱いていた。イリスはまたね!と言って彼に手を振って見送った。 「お姉ちゃん。今、先生に会ったよ。先生がね。母さんの身体はよくなるかもしれないって…、」 イリスは家に戻ると、嬉々として姉に話しかけた。が、姉は何処かぼんやりとした様子でイリスの話が耳に入っていない様子だった。 「お姉ちゃん、どうしたの?」 イリスが姉の服の袖を引っ張ると、姉はハッとしてイリスを見下ろした。 「あ、ごめん!ちょっと…、ボーとしてて…、」 「大丈夫?今日は森に行ってたくさんきのこ採ってきたもんね。疲れてたら休んでていいよ。夕食ならもうほとんどできているからあたしに任せて!」 「…ごめん。ありがとう。イリス。…少し考え事をしたいから頼んでもいい?」 「うん!」 イリスは笑顔で頷いた。姉が思い詰めた表情で部屋に戻り、そこで一心不乱に書物を読み漁っていることにイリスは気付きもしなかった。 「母さん。美味しい?」 「ええ。美味しいわ。小さいのに、こんなに料理が上手にできるなんてイリスは偉いわね。」 「えへへ。」 イリスは作ったきのこのスープと柔らかいパンと森で摘んだ果物を母に持っていくと、母はそれを美味しそうに味わうように食べてくれた。大好きな母に褒められ、イリスは嬉しそうに頬を緩めた。 「ごめんね。イリス。あなたに苦労ばかりかけて。」 「母さん!そんな事ない!あたしは母さんが早く良くなってくれればそれでいいんだから。」 目を伏せる母にイリスは必死にそう言った。それは紛れもないイリスの本心だった。 「イリス…。ありがとう。あなたは本当に優しい娘ね。」 そう言って、母はイリスの頭を撫でようとしたが急に咳き込んでしまい、口元を抑えた。 「母さん!」 イリスは慌てて背中を摩った。 「大丈夫?母さん…。お水いる?」 「大丈夫。…少しこうして、休んでいれば落ち着くから。でも、ごめんね。これ以上は食べれそうにないの。」 「分かった。母さんはゆっくり休んでて。また、食べたくなったらいつでも言って。」 休むのに邪魔をしてはいけないと思い、食事を下げようとするイリスに母はイリス、と呼び止めた。 「あなたに…、渡したい物があるの。」 「あたしに?」 イリスは母に向き直った。母は首にかけていた鍵を取り出すと、ベッドサイドの机の引き出しの鍵穴に鍵をさしこんで机の引き出しを開けた。中から、取り出したものは…、金の古びた懐中時計だった。 「これを…、あなたにあげるわ。」 「え、でも、その引き出しに入っていた物って…、」 イリスは知っている。その引き出しに入っていた物は母がとても大事にしている宝物だった。人目に触れないようにわざわざ鍵付きの場所に保管し、その鍵を肌身離さず持っていたのだ。そんな大切な物を貰っていいのだろうか? 「それは、元々、あなたにあげる物だったのよ。」 「あれ?この時計…、壊れてる。」 時計の蓋を開けてみると、時計の針は止まっていた。こんな物をどうして、母はいつまでも大事に持っているのだろうか?そんなイリスに母は優しく言った。 「それを…、肌身離さず持っていなさい。それは、あなたを守り、正しい道へと導いてくれるわ。」 イリスはきょとんと母を見上げた。 「それはね。魔法の時計なの。この時計は持ち主を選ぶのよ。」 「時計が?」 「ええ。イリス。この時計はあなたを持ち主として選んだ。この時計は人々を破壊にも幸福にも導くことができる力を秘めている。忘れないで。イリス。これは絶対に手放さないで。もし、これが誰か…、欲望のある悪しき人々の手に渡れば…、破滅を招いてしまう。だから、あなたがこの時計の所持者として、しっかりと守るのよ。」 「え…。」 母の言葉にイリスは目を見開いた。何だかこの古びた時計が途端に恐ろしいものに感じてならなかった。 「イリス。お願い…。これは、私にとっても大切な宝物なの。だから、あなたに託したいの。私の代わりに…、それをあなたが持っていて欲しいの。」 「母さん…。うん。分かった。大事にするね。」 母の切羽詰まった表情にイリスは時計を胸にギュッと抱き締めて力強く頷いた。すると、母は安心したように表情を和らげた。イリスは母のその表情に自分の答えは間違っていないのだと思った。イリスが食事の盆を下げて部屋を出て行ったのを確認し、母はその愛娘の後姿を見送った。 「ごめんね。イリス…。あなたにこんな過酷な運命を背負わせて…。どうか、あなたに…、海の祝福があるように…。」 母の声はか細く、誰にも聞かれることはなかった。
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