そのコルクはいずれ

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 ああ、美味しそうに飲むな。赤ワインを飲む幼馴染の顔を見ながらそう思う。グラスの中のワインを飲むたびに、彼の瞳は嬉しそうな光を灯す。そしてほんの少しだけ目尻を下げるのだ。その表情の変化は注意をして見ていないと分からない程度のものだが、彼とは二十年を超える付き合いの僕にはすぐ分かる。 「魁人、それそんなに美味しいの?」 「ああ。やっと俺もお前も就活も終わったし、それのご褒美でちょっといいやつ買ったんだよ。俺の部屋で飲むだけだから、どんだけ酔っぱらっても俺が介抱してやるのに、なーのーに! お前飲まないっていうからさ」  二十二になる男の拗ねた顔なんて、と思うけれどそれも魁人がやると憎めないから腹が立つ。 「僕がお酒弱いの知ってるでしょ」 「お前色白いから顔赤くなるとすぐ分かるよなー、でも嫌いじゃないだろ」 「……まあ。でも赤ワインは飲めないんだよ」  そう告げると拗ねた顔は驚き顔に変わり、そしてまた拗ねた顔に戻った。 「俺それ知らない」 「言ったこと無いし」 「言ってくれてたらお前と一緒に楽しめるもの、何か買って来たのに」 「別に良いって、僕は魁人が楽しそうに飲んでるのを見るだけでも結構楽しいよ」 「俺はお前と一緒に就活終わっておめでとう、ってやりたかったんだよ」 「じゃあ、また今度ね」  納得はいっていないようだが、反論も返ってこないのでこれは了承したということで良いだろう。仕方ない、今度はこちらから誘うか。  それに、赤ワインがダメになったのはたった今だし、飲もうと思えば別に飲める。だから、拗ねさせた僕が悪い。グラスに赤い液体を注ぎ、そしてそれで唇を湿らせ、その後上下する彼の喉仏。そんなものを見て、一緒に酒を楽しめないと思ったのだ。あの色がいけない。深い赤色がいけない。まるで、僕が小学生の頃、うっかりはさみで指を切った時に流れた僕の血のような色がいけない。  図画工作の時間だった。はさみに慣れましょう、なんてよくある他愛も無い授業で、僕はたまたま刃を滑らせて人差し指の腹を切った。魁人はそんな僕の指を手に取り、 「俺が颯の指治してやる!」  とか何とか言ってそのまま口に含んでしまったのだ。菌でも入ったらどうするんだ、なんてことはその頃の僕にはまだ分からず、ただ彼の舌が拙く僕の指の腹を舐めて吸うその感覚に、背骨の辺りから、後頭部にかけてぞわりとした感覚が走ったことを覚えている。切れた部分が鈍くじんじんと痛み、常よりも過敏になった人差し指を丁寧に丁寧に舐め、そして血を吸う幼馴染の口内の生温かさ。後ろ暗い感情なんて微塵も見えない黒瞳、心配そうに伺う表情、あの時本能的に僕は彼の心配を裏切ったことを感じていた。  今思えばどうして僕はそんな感覚を、あの時覚えてしまったんだろうか。きっと彼はその時の僕の気持ちなど知らない。幼馴染に血を吸われることに興奮した、僕のほの暗い喜びなんて。明るくて、天真爛漫な魁人にはこんな僕の感情なんて知らないでほしい。  だから僕は彼と赤ワインが飲めない。あんな彼の姿を見ながら僕まで酔ってしまえば、その欲望を彼の前で曝け出してしまうかもしれないから。  そんな僕の思いなど露ほども知らない彼は、目の前で美味しそうに赤ワインを飲み続けている、彼の上下する喉にはあの頃無かった喉仏、あの頃よりもたくましくなった手、今その手に僕の手が握られたらどうだろうか。彼の人差し指の第一関節は、僕の指にどう触れるんだろうか。グラスを掴む彼の手を見て、そんなことばかり考えてしまう。 「ねえ魁人、それそんなに美味しい?」 「……美味しいよ? 何だよ、さっきと同じこと聞いて」  間接的に己が美味しいと、そう言われている感覚を味わいながら僕は彼の姿をただ眺める。 「本当に美味しそうに飲むからさ」 「やっぱ颯も飲むか?」 「いい。僕は飲むの向いてないし」 「体質的に合う、合わないはやっぱあるよなー」  合う合わないじゃない。僕は飲まれたいんだよ、魁人。君にいつか飲み干されてしまいたいと、君に飲まれる赤ワインが羨ましいとそんなことを考えているんだ。そんな欲望を曝け出してしまう日が来ないことを祈りながら、僕は魁人が開けっ放しにしていた赤ワインのコルクをぎゅうっと爪が食い込むまで握りしめた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!