仲睦まじい蝶々

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仲睦まじい蝶々

昔々、ある所に其れは美しい蝶々の兄妹が居たそうで、彼等は何時如何なる時も片時とも傍を離れる事無く互いが互いを信じ、理解し、幸せに暮らしていました。 陽が雲に隠れ、不吉な風が頬を撫でるある日の事でした。 妹の蝶はそれはそれは美しい羽を揺らめかせ花の蜜を啜りに行きました、何故ならその日は兄の蝶の誕生日。両親を持たぬ二人を祝うのは片割れの兄妹のみで、嬉々しく揺れる兄の美しい羽を思い浮かべ彼女はただ独り、外の世界ヘ羽を揺らめかせたのです。 独りの世界は酷く孤独で、蝶の彼女にとって未知なる事が石の様に転がっています。 例えば、蜜蜂の会話や働き蟻の行動は彼女に沢山の知恵を与え、心強い盾となりました。 蜜蜂の会話には『人間』と言う悪行の塊の話題で持ちきりで、彼女が退屈に浸る時間を与えません。 「ねえ、聞きました?南の巣が荒らされたみたいよ?」 「また人間かい、」 「彼処にはお姉様がいらっしゃって、間一髪此方に逃げて来られたのだけれど、数多の犠牲者が……」 『人間』は虫達にとって有害的存在でしかありません、巣を荒らし、居場所を奪い、潰し、家族を殺める。蝶の妹は耳に蛸が出来る程兄の蝶に「独りで外に行く時は人間に近付いてはいけないよ」と幾度となく忠告をされたにも関わらず好奇心故に『人間』に興味を抱いていました。 兄の蝶へのプレゼントを取るのを忘却し、家路を急ぐ様に羽を揺らめかせます、最愛の兄に知恵の実を届ける為、何時にも無く忙しなく羽を揺らめかせました。 「兄様!聞いてくださいませ……兄様……??」 二人の住まう巣に辿り着くや否や、滑り込む様に入り兄を呼ぶも其処に兄は居らず、疑問符を浮かべ一見何の変わりも無い巣を見渡します。ですが兄の蝶の姿は見当たらず、蜜蜂の話していた『人間』を思い出し、蝶の妹は血の気が引いていく気がしました。 彼女は一目散に外へと再び滑り出し、羽を忙しなく揺らめかせます。たった一人の兄妹が居なくなり、頭は混乱し冷静に物事を思考する術を何処かに落としたのです。兄様、兄様、と鈴の様な透き通った愛らしい声色が外に響き渡ります。しかし何時もの優しい声色は返答をしません。 彼女は無我夢中で行き先も考えず、家路すら覚える事もしないまま兄を探し、気付けば『人間』で言う夜中になっていました、辺りは薄暗く、何時もの楽しい花畑ですら彼女には不気味で不吉で、恐ろしい別の世界に見えました。 「にいさま、にいさまぁ……」 縋る様に兄を呼びます、ですが返答は返ってきません。何度も揺らめかせた羽も疲労が溜まり、気付けば飛ぶ事を諦めていました。徒歩移動に慣れない足は不安定で、頼りになりません。 そんな時です、絶望の中に僅かな希望が生まれる様に、闇の中に只一つゆらゆらと揺れる光が見えます。彼女にはそれが頼りになる兄に見え、疲労の溜まった羽を再び揺らめかせます、兄様、兄様。と可愛らしい声色を届ける様に、愛おしい家族に慰めてもらう為に。 「──お、上玉見っけ。」 希望の正体は兄なんかではありませんでした。薄汚く髭を生やした小太りの『人間』でした。彼女は絶句し一目散に逃げようとします、ですが白い何かに覆われ外に出る事は叶いませんでした。怯えきった心身に反応する様に羽をばたつかせます。恐ろしい、怖い、助けて、兄様ごめんなさい。乞う様に何度も何度も兄を呼び、もう勝手に外に行かないから、助けてと心の内で約束をし、解放を望みます。 「ヒヒッ、美味そうだなぁ。」 小太りの『人間』の言っている意味が分からなくともこれから自分の身に起こるであろう事は意図も容易く思い浮かび全身が震え上がります。兄様、にいさま、にいさまぁ…… 「──!!」 優しく暖かい声色が脳を刺激します、声のする方に視線をやるとたった一人の家族であり、最愛の蝶の兄が険しい表情でひらりひらりと羽を揺らめかせこちらに向かってきます。 安堵のせいか、恐怖のせいか。飛ぶ事を一度諦めた羽は疲労を忘れた様に揺らめきます。  「……上玉が二匹、こいつは金になりそうだ。ああ、でもこいつの方が──美味そうだ。」 耳障りな何かが暖かい声色を掻き消した時兄が視界から突然姿を消しました。気付けば妹の羽は、美しい蝶の妹の羽は、『人間』にもがれ、散らされ、地にひらひらと花弁の様に落ち── 沈黙に包まれた子供部屋にしてはやけに広い部屋で本を閉じる音が響き渡る。それはまるでただ眸だけで続きはもう良いと令を下す様に、冷えきった視線の持ち主が本を睨み荒々しく机の上に置く。彼の膝で安堵の表情を浮かべ規則正しい寝息を立てる少女を愛でる様に、その長く美しいミルクティーカラーの髪を一束掬い、キスを落とす。 「僕のエンジェ、君の為なら毒林檎だって、硝子の靴だって、可憐な赤薔薇だって用意するよ……こんな結末は僕等には不似合いだからね。」 だから今は、 優しい夢に包まれてゆっくりおやすみ。 僕の可愛い可愛いエンジェリカ。 君の為なら、君の笑顔の為なら。 ──僕は僕自身を殺す事だって出来るよ。
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