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1.
「いやあああ、我を食べないでえ!」
夕暮れ時、閑静な住宅街の路地裏にて、神は情けなく悲鳴を上げた。
彼は一見すると女性かと見間違えるほど、麗しい見た目をしている。
瞳は黒曜石。透き通るような白い肌。銀髪を簪でまとめ、羽織は鮮やかな緋色、黒色基調の着流しの裾に流れるは流水紋。
現代日本にはいささか浮いている格好だが、神様なので浮き世離れしていて仕方ない、むしろ当然なのである。
ところが今、その美しさは台無しだった。泥や埃で全身がすす汚れ、真っ白な身体の所々に、見るに堪えない紫色が広がっている。
彼を囲っている黒い靄は、羽虫のような不快な音を立てて動く。その先端が神に触れると、火傷を負ったように醜い痣が広がっていく。
神を襲っている不浄の存在は、人の負の感情から発生するものだ。人に取り憑いて負の感情が増幅させ、不幸や不健康を連鎖させて更に自分の勢力を拡大する。
彼らは特に、無抵抗で綺麗なものを汚す事が大好きだ。たとえば生まれたばかりの存在。純粋で清らかな気をまとっており、栄養価の高い生命力を蓄えている割に、身を守る術を持たない。
つまり、新米の神なんて、格好の餌食というわけで。
「我、こんなところで闇落ちしたくないーっ! 誰か助けてえ!」
カモ、もとい神は、まとわりついてくる黒を必死に振り払おうとしながら叫ぶが、ただただ綺麗なだけの彼になすすべはない。このまま汚されてやがては自我も失い、彼らの養分となるだろう。
――と、そのとき。
路地裏に、突如かぐわしい香りが立ち上る。
神も、神を襲っている不浄の存在達も、はっと動きを止めて新たな気配の方に注意を向けた。
紅葉の舞い散る中、歩いてくるのは女子高生のようだ。セーラー服に黒タイツ、セミロングのポニーテールを揺らしている。
表情はきりりと凜々しいが、顔立ちはかわいい系。アーモンド型の大きな目が印象的で、全体的な雰囲気は落ち着いているのに、童顔のあどけなさがどうにも不思議と艶めいた印象を残す。
彼女は黒い靄を見ると瞳に冷たい色を宿したが、神の方に目を移すときょとんと目を見張った。
「ナギナ。なんだろう、あれ」
つぶやく少女に、どこからかハスキーな声が返答した。
『無力な新米低級神が、妖に襲われている……ってところな気がするわ』
「ってことは、助けないと、だね」
女子高生は手に提げていた鞄を離す。代わりにセーラー服の胸ポケットから、黒い万年筆をすっと取り出した。
彼女がそれを大きく一度振ると、柄は漆黒、刃はほのかに翡翠がかった銀色の長刀が出現する――見間違いでなければ、万年筆が変化したように見えた。
「行くよ、ナギナ。妖は殲滅する。私の前では一匹たりとも逃がさない」
『あいよ、ネコネ。いつも通りに。力みすぎて怪我しないようにね』
少女が語りかけると、呼応するように長刀が震え、刃がきらりと輝きを放つ。どうやら不思議な事に、喋っているのはこの武器のようだった。
彼女が静かな決意を宿した目で地を蹴ると、戦闘が開始される。
腰を抜かし、口をあんぐり開けたままの神の周りで、天敵の気配を感じた不浄の存在達が羽音を立て、迎撃姿勢に入るようにぐにゃんと姿をゆがませた。
しかし、彼女は強かった。踊るような美しい動線を描いて長刀を振るい、危なげもなく黒の塊達を斬っていく。動く度に落ち葉が散り、はらりひらりと舞ってまた落ちていく。
女子高生が鮮やかに場を制圧するまでのわずかな間、窮地を助けられた神はこんなことを考えていた――。
(パンツ、見えそうで見えないであるな)
幸か、それとも不幸か。神に当てる罰はないのだった。
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