side E 世界で一番手放したくない人

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side E 世界で一番手放したくない人

こたつに潜っていた私は来客の訪れを告げるチャイムで重い腰を上げ、玄関に向かった。  戸を開けたところで、そこにいたのは宅配便のお兄さんでも、回覧板を持ってきた近所のおばあちゃんでも、母を弔いに来た人でもない。 いつもチャイムなんか鳴らさずに我が物顔で家に入ってくる良基だった。  私はうつむいたままの良基の目元に手を伸ばした。  「いつからここにいたの?」  触れた良基の肌は冷え切っていた。ついこの間の母のような底のない冷たさではないけれど。  私は続けて、「どうしたの?」と尋ねた。  重力に逆らえず溢れ落ちてくる良基の涙が私の手を濡らした。  「俺、好きな女の子ができた……」  良基が聞き取るのがやっとの声で口にした一言。    お互いにそういう人ができるまでずっと一緒にいよう  ほんの少し前、良基が私に言ってくれた言葉だ。 母の葬儀の後にずる賢い私が良基を縛った約束だ。  凪沙ちゃんの好きな人が良基だっていうことは、凪沙ちゃんから良基とのことを聞く前から何となく感づいていた。 良基が中三の夏に興味本位で見に行った剣道の試合で一目惚れした女の子が凪沙ちゃんだっていうことも知っていた。 人に恋をすることを無意識に避けていた良基は自分が一目惚れしていたなんて気づいていなかっただろうけれど。  私は部活の大切な友人の恋愛も、かけがえのない幼馴染の初恋も応援しなかった。 邪魔こそしなかったけれど二人がいつか恋人になることを怖がっていた。 邪魔をしなかったのは、その汚い行為が明るみに出るのが、二人に嫌われるのが怖かったからだ。  「おめでとう」と言おうとしたものの嗚咽がこみ上げた。  凪沙ちゃんが自分の好きな人と結ばれたことも良基の初恋が実ったことも嬉しくないわけがない。 二人とも私にとって大切な人だから。  ただ、それ以上に怖い。私はちゃんと良基から離れられるんだろうか。 きっと良基に甘えたり我儘を言ったりするのは長い時間を共に過ごしたからじゃない。 うまく言えないけれど、初めて良基と出会った時から私にとって良基は特別で、良基にとって私は特別だった。  「絵琉、お前のこと心配なんやよ。でも同じくらい的野のことが大事なんよ」  白い息を吐きながら言った良基は相変わらず私に甘くて、酷いくらい優しい。 彼女と幼馴染を同じくらい大事と言う人はいったいどのくらいいるだろう。  「同じくらいじゃ駄目だよ。凪沙ちゃんを一番大事にしなきゃいけないんだよ」  私は鼻をすすりながら良基を睨んだ。  精一杯の強がりだった。 心の中ではずっと大事にしてって思っている。今までみたいに頼りたい。甘えていたい。我儘を言って困らせたい。依存したい。 たちの悪い共依存の関係でいたい。 お先真っ暗でもいい。 良基が一緒にいてくれればそれでよかった。 それだけでよかった。  「私のこと心配?」  「当たり前やろ」  「なんで?」   私のその問いかけで良基は泣くのをやめた。 そして、試し行動ばかりする私を宥める時の優しい目をした。 些細なことで不安になって試し行動にでる私を良基はいつも宥めて、安心させようと頭を撫でてくれた。 私はそういう時の良基の表情が一番好きだった。けれど、この表情もきっともう私のものじゃない。 もしかしたら、私が気づかなかっただけでもっと前から私のものじゃなかったかもしれない。 もちろん良基は元々私の所有物でないから良基の何かを私のものなんて言う資格はないのだけれど。  「前に言ったやん。ほんとの家族みたいなもんなんやよ。妹がおったらこんな感じなんかなって思うんよ」  良基に『家族みたいなもの』って言われることが私の数少ない自慢できることの一つだった。 必要としてくれて嬉しかった。傍にいてくれて嬉しかった。  「ずっと一緒かと思ってた」  「ごめんな」  「彼女なんかつくらんって言ったくせに」  「ごめんな。約束破ってごめん」  「嫌いにならないって言ったのに」  「嫌うわけないやろ」  「絶対なんかないもん」  「それはそうやけど、お前のこと嫌いになんかなれんよ」  「なんかあったら頼っていい?」  「当たり前やろ」  「じゃ、最後に一個だけ我儘言っていい?」 良基のことを思い出した時に、1番覚えているのが泣き顔なんて絶対に嫌だった。  「ぎゅってして?」  言った直後、寒さが飛んだ。感じたのは冬の寒さではなく、いつもの良基の体温といつもより少し速い彼の鼓動だった。 悪いことをしている。大切な友達の好きな人に抱きしめて、と頼んでしまった。 ごめんなさい。 許してください。 許してなんて言わないという強い心を私は持っていない。 でも自分の気持ちを押し殺してまで他人の幸せを祈るほど謙虚にもなれなかった。 もう絶対2人の幸せの邪魔をしないから。 これからは心から2人が上手くいくよう祈るから。 頭の上から良基がむせび泣くのが聞こえた。  今思うともらい泣きだったのかもしれない。  悲しいんじゃない。これは嬉し泣きなんだと自分に言い聞かせながら。  今日の良基は謝ってばかりだった。  謝らないといけないのは、むしろ私の方なのに。  早く、大切な人がいない日常に慣れようと思うくせに、忘れないでほしいと思ってしまってごめん。  心配でも同情でもいいから傍にいてほしいなんて言ってずっと離さなくてごめん。  どれも絶対に口にできない言葉だ。 私は謝ることで罪悪感を感じなくなるかもしれないけれど、良基はきっと自分のせいで私が思い詰めてしまったのだと後悔してしまう。 凪沙ちゃんに幸せにしてもらってほしい。 君が私とのことを忘れるくらい普通の幸せを噛み締められるようになりますように。  その夜、私は涙もろい良基以上に声を上げて泣いた。
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