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side N はじめまして
四月二十四日。その日は、朝から遅刻しそうになるわ、生物基礎じゃなく物理基礎の教科書を持って来るわ,財布忘れるわ。不幸の連続だった。
顔見知りの風紀委員や隣のクラスの知り合いのおかげで何とか切り抜けることができ、これが私の人徳というものだなどと思ってみる。
授業という名の地獄を乗り越え、迎えた放課後。開けっ放しの窓から入ってくる風は、もう夕方だからか少し冷たい。
文字通り力尽きた私は、自分の席に突っ伏したまま窓から見えるサッカー部の外周を目で追っていた。馬鹿みたいに大声出して,無限ループに陥りそうなくらい同じ場所を走って。
私の通う高校はやたらと運動部に力を入れている。陸上部とバスケ部は全国大会の常連校だし、他の部も地区予選で負けることは殆どない。
しかし、中学の頃と違って、もう私には面倒くさい上下関係も運動部特有の鬱陶しいノリも関係ない。基本、週に三日のゆるい文化部なのだから、怪我だってしない。
「な~ぎ~ちゃん!」
続けて聞こえたお疲れやね~という間延びした声とともに、首筋に冷たさが走る。
私は段々豆粒みたいに小さくなって視界から消えていくサッカー部に気をとられていて思わず間抜けな悲鳴を上げた。
私の悲鳴に続いて控え目な笑い声が放課後の静かな教室に響いた。
「なぎちゃん、びっくりしたのは分かるけどさ」と放課後の教室を騒がせた元凶のすんちゃんはしれっと私の前の席に座り、右手の人差し指を軽く横に振りながら言った。
すんちゃんはさっきの小学生のような悪戯が好きなお茶目な子だ。お茶目なこの子のせいで、よく騒ぎに巻き込まれるのだが、本人はいつも無自覚だ。
すんちゃんこと渡辺駿香と出会ったのは入学式の次の日あたりだ。教室移動の際に、私の目の前で階段から落ちたすんちゃんを保健室に連れて行き、次の授業に自主的に参加しなかったのをきっかけに仲良くなった。というふうに私の脳内では記憶されている。大切な高校生活における友人第一号と出会った日を曖昧にしか覚えていないのは、どうでもよかったからではなく、出会い方にインパクトがあり過ぎたからだ。
「いきなりは流石にびっくりするよ。まだ夏じゃないんだから首に冷たいペットボトルはやめなよ」
「夏になったらいいの?」
「駄目だからね」
私はすんちゃんのおでこを軽く叩いた。待っててくれて嬉しかったからそれあげると言われたけれど、五百ミリリットルのペットボトルなんかにさっきの失態を償わせてたまるか。
えーと口を尖らせながら、すんちゃんは笑顔で今日の手芸部の活動について話し始めた。二人でいる時、話すのは圧倒的にすんちゃんの方が多い。私も話す時は話すけれど、自分の話をするよりすんちゃんの話を聞いている方がずっと楽しい。
私とは違って純粋にしか物事を理解しないすんちゃんは、馬鹿っぽい所も多々あるけれど、それ以上に女の子らしくて大変眩しい。
すんちゃんが明日はクッキーを焼くとか先輩に冬には編み物やるよって教えてもらったとか一通り話し終わってから、少しお互いに何も話さず夕焼けを眺める時間があった。
しばらくして、すんちゃんは、そういえばと話題をふった。
「そういえば、何で今日待っててくれたの?」
私は、この子何言ってるんだろうと思いながら答えた。
「何でっていつも一緒に帰ってるじゃん」
同じ文化部でも、手芸部は新聞部と違い、平日の放課後は毎日真面目に活動している。
だから私は、火曜日と水曜日の放課後、すんちゃんが戻って来るまで教室でだらだら怠惰な高校生活を謳歌している。
今日だって、夏に向けて練習に励む運動部の方々を陰から応援していた。
「だって、なぎちゃん、昨日、明日は剣道部の取材で県立武道館まで行かないといけないって言ってたから。あ、もしかしてもう行ってきたの?」
すんちゃんのその一言は私の心にそれはもう深く突き刺さった。
……あ。あ、烏だ。自分の巣穴に帰るのかなあ。
今、とても現実逃避がしたい。いっそ、すんちゃんとこのまま帰宅して、明日何もなかったかのように登校出来たらどれだけ幸せだろう。温かい母親の手料理とスプリングがしっかりしたベッドが私を待っているに違いない。
しかし、ほんの少しの、あるかないかの私の良心がそれをさせてくれない。
私はわざと深いため息をつき、すんちゃんは呆れ顔でそんな私をのている。大方、相変わらずなぎちゃんは時間にルーズだとでも思っているんだろう。
「すんちゃん、今何時ですか?」
「今、丁度七時だよ~」
すんちゃんが、あ、夜の方のね、と付け足す。
私の記憶が正しければ、剣道部の活動時間は十九時、つまり夜の七時までのはずだ。
「……すんちゃん」
「どしたの?」
すんちゃんは可愛らしく小首を傾げた。
「市電代、貸してください」
すんちゃんと出会ってどのくらい経っただろう。初めてすんちゃんに頭を下げた。
目と鼻の先で県営武道館方面行きの市電を逃したのは、それはもうひどい痛手だった。
市電の駅を降りてから線路沿いの大通り、その大通りから小枝のように分かれている小道を走り抜けて県営武道館へ向かうはずだった。しかし、中学の現役時代のように走ることは流石に不可能だった。まだ大丈夫だと思った矢先、足を止める羽目になった。膝の骨が軋むような感覚と肺への圧迫感。以前はもっと後に感じていた、自分の体からのもう走れないというサインをこんなにも早くに感じてしまった。そんな自分が、情けなかった。
結局、県営武道館に着いたのは十九時半だった。急いで受付で「呉坂高校の剣道部はまだ居ますか?」と訊いたものの、品のあるお姉さんに「先程帰られましたよ」と、希望は打ち砕かれた。お姉さんの前で項垂れるわけにもいかず、私はお礼だけ言って、県営武道館を後にした。
この時期の二十時前の空はすっかり夜色に染まっている。橙色の街灯が道を照らし、家路につく人たちがその側を歩いて行く。
お先真っ暗という言葉がお似合いの状況で、私はその場にしゃがみ込んだ。
部長にこの失態をなんて説明しよう。部活動紹介の剣道部の欄、どうしよう。すんちゃんに借りた二百円無駄にしてしまったな。そんなことが頭に浮かんだ。とりあえず部長に連絡しないと、なんていうくだらない独り言が思わずこぼれた。
『すみません、今日の剣道部の取材に行くの忘れてしまいました。』
まだ送信はせず、一緒に送るスタンプをどうしようか悩んでいると、頭の上から知らない男の人の声がした。
「うちの高校の新聞部の人で合ってますか?」
合唱部に入部したと言っていた旧友の一人なら、これがアルトかテノールかちゃんと聞き分けられただろうか。残念ながら、私には良い声ですねということしか分からない。
こんな時間に知らない男の人に声をかけられるのはなかなかの恐怖で、どうしようかと思いながら恐る恐る目線を上げると、少し離れたところにうちの高校の制服を着た男子が立っていた。
「誰、ですか?」
今思うと、こう尋ねた時の私はきっと不安と期待の入り交じった表情を浮かべていただろう。 なんていったって、初対面の、ツーブロックで割と体格の良い男子なのだ。
因みに、目力がとてもとても強かった。
正直に言おう。新聞部の部長なんかよりよっぽど私のタイプだった。背もそこそこ高いし、どちらかというとイケメンの部類だし、私好みの濃い顔してるし。
そのイケメン君は、首を傾げた後、簡単な自己紹介をしてくれた。
彼の名前は楠橋良基といい、剣道部所属の一年生。
今日の新聞部の取材は部長が受ける予定だったが、部長が急用で今日の部活に欠席したため代理として選ばれたらしい。
何でまた部長がいないからと、この一年男子が代理になったのだろうか。それが私の最初の疑問だった。
部長がいないなら副部長でいいはずだし、副部長もいないなら、他の三年生の部員でいいだろう。とにかく、普通四月に入部したての一年生に、部の紹介を任せないだろう。
取材に遅刻したことを丁寧にわびてから、ついでに質問させていただいた。
「あの、なんで貴方が代理になったんですか?」
私は面倒臭がった上級生に押しつけられた、に一票だった。私が中学生時代、後輩によく使っていた手だからである。
楠橋君はいかにも困ったというかのように苦笑いしながら言った。
「俺、主将に気に入られてるらしいからさ」
おっと、この返事は予想していなかった。よく自分で気に入られているとか言えるよな、と私は顔をしかめた。このぐらいの街灯なら、それほど表情は分からないだろう。
楠橋君は辺りを一瞥してから、私に提案をした。剣道部への取材はどこかの店に入ってからにしないか、と。私の答えは決まっていた。
市電の駅を降りてから県営武道館まで走ったので、のどは渇いている。時間が時間だからおなかだってすいていないはずがない。しかし、私は現実から目を背けることは出来ないのだ。
「すみません。財布忘れたんで無理です」
楠橋君は目を見開く。目力が強いのでとても恐ろしい。是非ともやめていただきたい。
「おごったるよ」
「え?」
「だから、そんぐらいおごったるから、とりあえずどっか行こ」
楠橋君はそう言うや否や私の手をとって歩き出した。
この人は狙ってやっているのか、将又天然なのか。いや、この外見で天然は色々と厳しいものがあるなと思いながら、私は大人しく従うことにした。
初対面なのに距離近いな。なんだこいつ。
繋がれた楠橋君の左手には、剣道部らしくマメができていた。中指、薬指、それに小指のところだから筋が良いんだろうなと思いながら、私は楠橋君の半歩後ろを歩いた。
やっぱり私は剣道部の取材になんて行くべきじゃなかった。楠橋君の背負っている竹刀袋が少しぼやけた気がした。
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