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side N 紅と千葉瑠
自宅を出て、駅とは逆の方角に十数分歩を進めると海が見える。都会の海とは違い、沖合にはタンカーもフェリーなどの貨客船も停泊していない。
地元の漁師の漁船が数隻見受けられるくらいだ。
そのまま海沿いに敷設されたボードウォークを進み、江戸時代の宿場の趣が残るすずかけ通りに差し掛かった。
旧友、佐々木紅の実家である幾松屋旅館はこのすずかけ通りの目玉とも言える老舗旅館だ。
私は裏の門扉から敷地内に入り、隅々まで手入れされた中庭を一瞥してから勝手口を半分程開け、紅の名を呼んだ。
私の声が離れ家へと続く廊下に響いてしばらくしたところで、それまで聞こえていた雅な三味線の音が止み、代わりに騒々しい足音が近づいてきた。
連絡は取っていたものの実際に会うのは中学の卒業式以来か、などと感傷に浸る間もなく足音の主は私の前に現れた。
ドタバタと走ってきたせいで息が切れている紅に、わたしは手を振った。
「千葉瑠はもう来てる?」
紅は膝に手をつきながら、
「うちの部屋で寝てるよ」
相変わらず、あの我儘娘は紅の三味線を聞きながら夢の世界に旅立ったらしい。
「……何時から来てるの、千葉瑠」
因みに予定では午後二時に幾松屋に集合、私が自宅を出たのが午後二時三十分だ。紅と千葉瑠の中で、私が集合時間に間に合わないというのは常識になりつつある。
「たぶん一時には来てた」
可笑しくて、私は笑った。
三人で遊びに行こうだの集まろうだの言った時、毎回千葉瑠は面倒臭そうな顔をする。しかし、一番先に集合場所に来ているのも千葉瑠なのだ。
私は笑い声を漏らすまいと口に手を当てつつ、
「天邪鬼にも程があるわ」
紅が「そんなこと言ったら千葉瑠に殺されるよ」と言ったので、「千葉瑠は私達のこと大好きだから」と返した。
紅と二人、離れ家の紅の私室に向かい、畳の上で丸まっていた千葉瑠を起こすと遅いと文句を言われた。
梅雨らしく雨が降りしきる日曜日の午後に、懐かしい顔が揃った。
三人が話す内容は相変わらず一貫性が無かった。それぞれが話したいことを話すので脈絡が無い。
紅が高校で新しい友達が出来たと言えば、千葉瑠がバイト先での話を始める。
私もすんちゃんのことや最近仲良くなれた新聞部の子のことを話した。
そんな中、千葉瑠は悪びれる様子も無く言い切った。「こいつ、また性懲りも無く男作ったぞ」と。
全くの誤解である。
しかし、紅はそれを聞いた瞬間、ぴたりと笑うのをやめた。
しばらく会わないうちに少し伸びた紅の髪は肩に付くか付かないかといったところで、横髪は編み込みになっていた。ようやく、由緒正しい旅館の跡取娘として大人しくなったかと思いきや、大人しくなったのは外見だけらしい。ふとしたことで表情がころころ変わるのは変わっていなさそうだ。
今、紅の前で下手に千葉瑠に食って掛かっても火に油を注ぐことになるのは明らかだ。
「……紅さん、今のは千葉瑠が悪いです。言い訳、言い訳したい」
紅は熱めの緑茶を啜いながら、視線だけをこちらに向けた。
私は大変居心地が悪かったため軽く崩していた足を正座にしてから、楠橋と出会った経緯などを包み隠さず話した。時々紅の顔色を窺いながら。
私が話し終わっても、紅はしばらく口を開かなかった。何を思ったのか、窓の向こうの雨に濡れた中庭を眺めたり、手元の三味線の弦をいじったりしていた。
私は紅の機嫌を損ねるようなことを口走っただろうか。
痺れを切らしてしまい紅の名を呼ぶと、ようやく紅は顔を上げた。
「その男子の恋愛の先生?なぎもちゃんとした恋愛はしたことないのに?」
「あいつよりはましだよ、たぶん」
「じゃあ恋愛って何?異性を恋愛感情で好きになるってどんな感じなの?」
紅はいつもとは違い、えらく突っかかってくるようだった。喧嘩腰とは少し違う。感情をあらわにするというのがいちばんしっくりする気がする。
「楠橋だかクズ橋だか知らないけど、なぎだって自分から誰かを好きになって付き合ったことは一回もないじゃん。いっつも告白されたから付き合って、相手に別れようって言われて別れての繰り返し。私はそんななぎもう見たくない。ちゃんと好きになった人の横で笑ってるなぎがみたいよ」
「紅、心配しすぎだよ。私は紅のが心配だよ」と私の口は勝手に動いていた。ああ、このまま言いたいことをぶちまけたら駄目だ。そんなことは自分でもよく分かっている。分かってはいる。
「紅は誰かと付き合ったこと無いのに」
紅と千葉瑠の表情を見てすぐに思った。
やってしまった、と。言ってはいけないことを言ってしまった、と。
「やめろよなぎ!紅が誰かと付き合ったことが無いのは俺のせいなんだから!」
千葉瑠の怒鳴り声が響いた。
「紅も千葉瑠ごめんね、言い過ぎた」
知ってるよ、千葉瑠。言ってしまった本人が一番後悔している。器量好しで素直な性格の紅が好かれないはずが無い。
そんな紅が告白される度に千葉瑠が泣きそうになりながら付き合うのかときくことも。紅が首を縦に振れば千葉瑠がどんな表情をするか知っているから誰とも付き合わないことも。全部、全部知っている。
「ごめん、なぎ。私が言い過ぎた」
でもね、と紅は続けた。
「うちも千葉瑠も不思議なんよ。面倒ごとが嫌いななぎが何で他人の恋愛相談に乗ってんだろうって」
「興味本位?」
「楠橋ってどんな子?何で興味がわいたの?」
「何でって……」
答えられない私に、理由が分かったら教えて、と紅は笑った。
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