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side N さよならを告げようか
「どっか行く?」
思いの外早く終わったこともあってか楠橋が尋ねた。
「この辺り何か見るとこあったっけ?」
「個人的に好きな場所はある」
「へー」
「行く気ないやろ」
「そんなことないよ?」
断る理由もなく私は楠橋について行った。初めて会った日には繋がれていた手が空いているのを少し残念に思いながら。
連れてこられたのは歩いて十四、五分のところにある自然公園だった。
来る途中にすれ違った人の何人かと挨拶を交わす楠橋を見て頻繁に来ているのだろうと思った。
そうやって笑ってくる顔は怖くないのに。
「絵琉とよく来るんや」
惚気かよ。
下の名前で呼び合っている時点で親しい間柄なのだと思っていたけれど。
初夏にしては珍しく涼しげな風が吹いた。
さっきの試合会場とは大違いだ。
きっと大きな貯水池や周りの緑のおかげだろう。その代わりに羽虫も多いけど。
楠橋は貯水池の柵にもたれかかり私の方を見ながらさっきの試合について話す。
「あんなさっさと帰ってきてよかったん?」
的野先生は不真面目やな、と笑った。
一緒にいて楽しいのは良いことだ。
楠橋の笑顔にときめくのも自分の勝手だ。
だけどこの心地よさに勘違いをしてはいけない。普通の男子なら私に気があるのかと思うような行動もこの男は無自覚でやってくるのだから。
どうせ絵琉ちゃんとは添い寝も抱きしめ合うことだってしているんだろう。決して家族愛から外れないギリギリのことをしているはずだ。
直接聞いたわけではないが、楠橋の口から出る絵琉ちゃんの名前の数と部活の時に絵琉ちゃんが楠橋を兄のように慕っていると言っていたことからだいたい察しはつく。
私はそこまで鈍い女じゃない。そしてそれを聞いていて嫉妬しない心の広い女でもない。
しばらく反応していなかったので不思議に思ったのか楠橋はどうしたん、と聞いてきた。
お前のせいだよ、と言えばよかったのだろうか。
「好きな人が他の女の子の話ばっかりするから不機嫌なだけ」
それを聞いた楠橋は不機嫌そうな顔をした。
「急にどうした?」
「好きだよ」
楠橋を無視して私は続けた。
私の初めてはきっとずる賢い君に壊される。
知っている。
自意識過剰だと思われるかもしれないが楠橋が私のことを恋愛感情で好きなことも、それに気づきたくないことも。
「俺も的野のこと好きやで。俺の恋愛の先生やからな」
ほら。どうせまともに向き合ってもくれない。
私の一言目は聞こえなかったことにして、二言目はどうせ友達として好きだと言われたとでも解釈しようとしているんだろう。
今ならまだ友達でいられる、と。それ以上言わないでくれ、と。言い訳はこうだ。俺には恋愛感情が分からないから。
この告白は賭けだった。
振られるとしたって楠橋がちゃんと私のほうを見てくれればどうやって楠橋をおとすかもこれからの楠橋と絵琉ちゃんと私の関係も考えるつもりだった。
だけど自分と向き合おうとした人にそんな不誠実な態度をとる奴はこっちから狙い下げだ。
いくらこっちが心配しても隠されていたらどうすることもできないのだから。
面倒ごとは嫌い。いつか絵琉ちゃんとぎくしゃくすることになるのは面倒臭い。
しかもそれがもう関わらなくていい人間が原因となるなら尚更だ。
絵琉ちゃんとはこれからも仲良くしていたい。部活に行きづらくなるのも嫌だけど、それ以上に私があの子のことを好きだから。私にはないものを持っていて私に懐いてくれるあの子が好きだから。
もう一度言おう。私の心はそんなに広くない。
向き合ってくれないならもういい。
駄目人間は嫌いだ。
「ほんとクズ橋」
私は言いたいことだけ言って曇天の下さっさと家に帰った。その日も涙は出なかった。
楠橋に振られた後も私の日常は何も変わらなかった。期末試験を終え、夏休みに入り、千葉瑠と紅に失恋を報告し、夏期講習に出席した。
終わった恋に縛られていても仕方ないから楠橋と連絡を取るのはやめた。誰が今まで通りの関係でいてやるものか。
新学期になってすんちゃんに会ったが楠橋のことを話そうとは思わなかった。話して思い出すのが嫌だった。
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