プロローグ

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プロローグ

深い緑の草原を青年が馬を走らせていた。目の前にはなだらかな弧を描く丘が見える。あの丘を越えると村がある。青年はその村に住むこの辺りでは只一人の医者の許に急いでいた。 青年はリョウという名前であった。リョウは村から馬で三十分ほどのところにある岩場の近くで、年老いた母親と二人で小麦を育て、牛を飼って暮らしていた。 その日の昼過ぎ、母親は夕食の調味に使う味の濃い苔を取りに出掛け、そこでこの地で突然起こる竜巻に巻き込まれた。岩場では咄嗟に取り付くものも無く、母親の体はそのまま辺りで一番背の高い栃ノ木のてっぺん程の高さまで舞い上げられ、そして地上に叩きつけられた。母親は頭をひどく打って意識を失い、夕刻、母を探しに来たリョウが見つけた後も意識が戻ることは無かった。 リョウは家までの長い道のりを意識の無い母親を背負って連れて帰った。家に帰って母親の体を寝台に横にして置いた。意識の無い母親の体をくまなく見たが、目立った傷は見当たらなかった。母親は苦痛も無く静かに眠っているようであった。 もうすぐ日が暮れる。このまま安静にしておけば、暫くして母の意識が戻るような気がした。明日の朝一番で、村まで馬を飛ばして医者を呼びに行くことにしよう。リョウはそう考え、台所に行き、母親がリョウと二人だけの夕食にと準備をしていた小麦をヨーグルトで煮たお粥を食べた。リョウが十九歳になった今までに、朝、夜に何千何百回と食べた味であった。リョウは粥の入った器をもって母親の寝ている寝台ところまで行って「母さん、お粥を食べるかい」と声をかけたが、相変わらず返事はなかった。 昼間の畑仕事に加え、夕刻母親を背負って長く歩き家に連れて帰ってきたことですっかりと疲労困憊し、リョウは夕食を食べた後食卓でそのまま眠ってしまった。夜中に目を覚ますと、よもやと思い母親の様子を見ると、もはや息が弱くなっていることに気づいた。まずい、早く医者に見せないと手遅れになる。リョウはこれから村の医者を急いで呼ぶことにした。 リョウが目指したのはこの辺りでは一番大きな村であった。医者も一人だけいて、マイラムと言う老人であった。リョウは夜明け前に村に着いた。すれ違う村人もいないが、リョウは馬をゆっくり歩かせて、医者の家に着いた。馬を入口の脇に繋ぐと、入口の戸を大きく三回叩いて「お願いします」と大きな声で読んだ。しばらく待ったが中からは、何の返事もなかった。リョウはもう一度同じ動作を繰り返したがやはり返事は無かった。しびれを切らして、リョウは頑丈そうな板の戸を押してみた。戸はなんなく内側に開いた。中に入ろうとすると眠そうに眼をこすりながら痩せた男が現れ、リョウをいぶかしげに見た。リョウは勢い込んで「お願いします。母を助けてください」と男に言った。 「ああ、患者さんか。ちょっと待ってくれ。いま先生を呼んでくるから。中に入って待っていてくれ。あ、おれはテミル、マイラム先生の弟子だ」 そう言うとテミルは家の外に出て行ってしまった。リョウは自分がこの村の医者マイラムの顏をほとんど知らないことに気が付いた。ここに来たのはずっと以前、今は亡き父親が馬から落ちて足に大けがをして母親と二人で抱きかかえながら来た時以来だ。その時はさっきの男が治療していたので、てっきりあの男が医者と思い込んでいた。 少し時間が経ち、ようやく辺りも白んで来たころマイラムとテミルが家に戻って来た。マイラムは白髪で日に焼けた顏をした老人で、リョウはこの老人は前に見たことを思い出した。父親が無くなる前リョウの家まで来て父親の治療にあたってくれたのだ。 テミルは大きな木の板を抱えるようにして運んでいた。テミルは戸口のあたりにそれをどんと置くと「先生、鏡を使うときは私に言ってくださいよ。こんなに重いんじゃ練習場まで運ぶのは大変でしょ」とリョウにも聞こえるくらいの大きな声で言った。マイラムはそれには答えずにリョウに向かって言った。 「リョウ、アイさんが、怪我をしたそうだな」 リョウはマイラムが自分の名前を知っていることに驚き、少し安心して答えた。 「昨日の夕方、竜巻で地面にたたき落とされてしまって、それ以来意識が戻らないのです」 マイラムはテミルのほうを見て言った。 「馬の準備をしてくれ、これからすぐ出発するぞ。お前はそれを持って行ってくれ」 「わかりました」とテミルが言うと、マイラムはリョウに「少し、待ってくれ」と言って、慌ただしく往診の準備をし始めた。  リョウの家にはリョウ、マイラム、テミルの三人がそれぞれに馬に乗って行った。テミルは、今朝がたマイラムと家に戻った時に重そうに持っていた木の板を馬に括りつけていた。 家に着くとマイラムはリョウの母のアイの容体を見て、顔色をあまり変えず顏を覗きこんだり、手を取って脈を測ったりしてからリョウの方を見て言った。「お袋さんは、幸運にも骨などは折れていないようだ。だが……」そういうとマイラム少し険しい顏でリョウに言った。 「事故が起きた時に頭を強く打ったようだ。意識が戻るかは難しいかも知れない」 リョウはあまりのことに声を出せなかった。その様子を見て、マイラムは言った。 「このまま意識が戻らないとすると、物を食べることも水を飲むこともできない。体が弱ってしまって遠くないうちにこと切れるしかない」 リョウはのどを詰まらせながら「何とかならないのですか」と言った。 マイラムは首を振りながら答えた。 「ともかくも意識が戻るように出来ることはやってみよう」 そして馬に載せて運んで来た大きな皮の袋から、更に小さな袋に小分けした粉末を取り出し器に入れて水に溶かした。マイラムはアイの頭を起こさせ、口を指で開けて器の液体を注ぎ込んだ。そしてアイの体を横にして胸や腹のあたりを手の甲で強く押した。しばらくそのまま押し続けると、少し生気が戻ったようにアイの顏が赤みをおびた。しかしその眼は閉じられたままであった。  マイラムの治療にも拘らずアイの意識は戻ることなく、その日も夕方近くになった。マイラムも疲れたように椅子にへたりこんでいた。リョウとマイラムは殆ど口を聞かなくなっていた。やがてマイラムは日が暮れ始めた窓の外を覗きリョウに言った。 「これ以上私にはどうすることもできない」 リョウは半分泣きながら言った。 「何でもします。母さんを助けてください。何とか、何とかお願いします」 マイラムは暫く黙っていて考え込んでいた。それまで家の外のどこかにいたテミルに、この辺りで使われている言葉とは違う言葉で何かを言った。テミルはこの国のものではないのか。一瞬リョウは考えたが今はそんなことはどうでも良かった。母を助けるためにマイラムが何かしてくれるならそれが全てだ。 リョウが十歳の時、父が亡くなりそれ以来、母は女手一つでリョウを育てあげてくれた。リョウに生きていくためのすべを教えて、一人前の男にしてくれたのだ。アイは母であり、父であり、教師であった。いつかは別れる時が来るだろうがそれは今でなくても良い。それは辛すぎる。 マイラムはテミルと暫く話し合った後、リョウに向かって言った。 「わかった。それでは、私の力ではどうにもならないので、ここにいるテミルの力を借りて、お袋さんを助ける。リョウ、お前の力も借りるぞ」 リョウはほっとして言った。 「お願いします」 マイラムはリョウを居間の食卓に座らせた。そしてテミルと二人でテミルの持ってきた木の板を持ち上げ食卓の上に横に立てて置いた。その板は二つの板が合わさって出来ているもので、合わせ目に蝶番が付いていていた。テミルがそれを開くと左右の板に、それぞれぴかぴかに磨かれた銅製の鏡が付いていた。 マイラムは薬の入っている大きな袋を持ってきて、中から小分けした袋を取り出した。袋の中の赤い粉を器の中で水に溶かしてリョウに渡した。マイラムは不思議そうな顔のリョウに向かって言った。 「これから、お前の母親の魂を呼び起こす。これは意識の無い者の魂を呼び起こすための、私の家だけに伝えられている方法だ。まずこの薬を飲んで、お前の目の前にある板の左側についている鏡を見ていてくれ」 リョウは自分の前に置かれた板に付いた鏡を覗き込んだ。 「そうするとやがて、お前の回りに色々な者が見えてくると思う。その間、お前はお袋さんが回復することだけを念じていなさい。よけいなことは考えないほうが良い。そして私が合図をしたら、右の方の鏡を見てくれ」 リョウは、マイラムは魔法でも使おうとしているのかと思い、ぽかんとした顔で話を聞いていた。しかし、今はすがるものはこれしかない。リョウはマイラムの言う通りにしようと思った。 「なに心配することはない。私もそばにいる。それでは始めよう」 マイラムはそう言うと、自らも先ほどリュウに作った粉末を溶かした液体を飲んだ。そしてリョウの横に椅子を並べて腰をおろした。何か起こるのか?リョウは言われた通り左の鏡を見ていた。何も起こらないのではないか。そう考えた時、マイラムが話しかけて来た。 「私はお前のおやじさんを良く知っているよ」  「そうなのですか。全然知らなかった」 「お前が生まれるだいぶ前の話だが、よく一緒にウサギ狩りに行ったものだよ」 「そうなのですか、それも知らなかったです」 「私はアイのことも良く知っている。おやじさんとのなれそめもな」 その後マイラムはのんびりと取り止めない話を続けた。リョウは昨日から母親を救おうと走り回りここまで気を張り詰めていたのが、一挙に緩むのを感じた。それと同時に強い眠気に襲われた。 しばらく時間が経つと玄関の戸が開く音がした。リョウは椅子から立ち上り玄関に向かおうとしたが体が動かなかった。やがて、左側の鏡に人の顔がぼんやりと映るのが見えた。そしてそれが誰の顏であったか分かった時にこれは現実ではないと悟った。それは死んだはずの父の顏であった。「父さん」リョウは思わず声をあげた。鏡にうつって見える父はリョウに言った。 「リョウ。お前も大きくなったな。もう母さんの手伝いもできるな。母さんも心強いだろう」 リョウは隣に座っているマイラムの方を見たがマイラムは眠っているようであった。リョウは言った。 「母さんは竜巻にやられて、今意識が無いのだ」 父親は眉をひそめて言った。 「なんだって。母さんは元気じゃないのか。おまえ、しっかりと母さんを守らないとだめじゃないか」 リョウは何て言えば良いかわからず黙っていたが、涙が目にあふれてきた。 「ごめんよ……ごめんよ、父さん僕がもっとしっかりとしていれば、母さんも危ない岩地に行かなくて良かったのに」 その時、また玄関の戸が開く音がした。リョウはもう立ち上がることはせず、ただ鏡に向かって泣いていた。 「リュウ。どうしたの。夕ご飯の準備が出来ているわよ」 それは、今意識を無くして隣の部屋で横たわっているはずの母アイであった。 「母さん、もう治ったのかい」 リョウは思わず声をあげた。 「今、父さんもここにいるんだよ」 リュウはあたりを見渡したが父親の姿は消えてしまい、どこにも見えなかった。母の姿は消えていなかった。 「父さんは消えてしまったらしい」 リョウがそう言うと母は寂し気に微笑んだ。その姿が静かに消え始めた。その時突然マイラムの声が聞こえた。 「リョウ。右の鏡を見ろ」 リョウは、これがマイラムの言っていた合図だと気が付いた。そして左の鏡にくぎ付けになっていた頭を無理やり右に振った。そこには左の鏡よりも幾分か青みがかった自分の顏が見えた。次第にその顔がくっきりと見えてきて、同時に頭がはっきりしてきた。リョウはマイラムが自分の手首を掴んで揺するのを感じた。 リョウは自分が幻の世界から現実に戻ってきたと思った。そしてさっき出会った母親は幻であったと知った。また絶望感が襲ってきた。幻の母は自分の思いが高じて見たものだ。現実には母は隣の部屋で意識がなく横たわったままなのだ。マイラムは一体何のつもりでこんなことをしたのだろう。リョウはマイラムの方を見た。するとマイラムは上機嫌で微笑んでいる。なぜだ。マイラムがこちらを見て言った。 「どうやら成功したようだぞ」 隣の部屋からテミルが現れるのが見えた。そしてテミルに手を引かれて入ってきたのは、なんと母親のアイであった。アイはリョウの方を見て言った。 「おなかが減ったの。リョウ、悪いけど台所にある小麦のお粥を取ってきておくれ」 再びリョウの目に涙が溢れた。 ――――中央アジア・ウリグシクの伝承によれば、中世、草原に点在する村の中にある薬草と不思議な銅鏡を用いて、けが人や時には死人をよみがえらせる医者がいた。医者の名はマイラムと言い太古の伝説から読み解きその方法を発見し、実際に瀕死の人間を救った。しかし弟子になると言い近づいて来たテミルにという男にその方法をすべて伝えると、その男に殺されてしまう。テミルは当時、中央アジアを席捲していたモンゴル帝国軍に、薬草の作り方と銅鏡を人の心を征服する武器として渡したと言う。その銅鏡は見た者が心で強く念じたことが幻想となって現れる。やがてはそれが現実の世界にも現れる。そして大きな憎しみや恐れを持った者がそれを使う時、世にも恐ろしい魔物をこの世に出現させると言われている。
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