鎌倉にて

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鎌倉にて

鎌倉に住む、北仁(きたじん)は地元の鎌倉大学史学科の二年生だ。仁は高校も地元で鎌倉大学の付属高校に通っていた。高校生の頃は進学校として評価の高い鎌大付属高校において、一年生の頃から成績は常にトップであったので、周りの者たちは、仁は必ず現役で東大の理系学部に進学するのであろうと考えていた。しかし彼は東大には行かず、専攻も文系の史学科に進んだ。しかし、本人は特にそれは受験に挫折、失敗したということではなくそちらの方が楽しそうなのでそうしたと言って、史学の勉強も含め学生生活を楽しんでいる。 そして仁には、もう一つの顏がある。彼は名うてのオンライン・ゲームのゲーマーなのだ。特に世界的に人気のあるイギリスのコンピューター・バード社通称コンバイが運営する謎解きRPGの魔境の伝説ではチャンピオンシップで常に上位に食い込む実力者として知られている。仁の六つ年上の兄で、彼の通っている鎌倉大学の講師を務めている北悟(きたさと)志(し)と大学の付属小学校から一緒で今も同じ学科の南陵(みなみりょう)もゲーム好きで、仁と同様に魔境の伝説に参戦しそこそこの成績をあげているが、なんといっても仁がダントツの成績なのだ。 コンバイ社は世界の歴史上に実際に残されている謎に迫るという内容で魔境伝説のコンテンツを作っていて、幾つもの異なったストーリーを選べることになっている。仁が最近参戦しているものは日本の鎌倉時代を舞台にしたものであった。鎌倉時代にモンゴル帝国軍の二度に亘る日本への侵攻と敗走が何故起こったのかという謎解きをゲームの中心にしている。これは特に日本のプレーヤーをターゲットに作られたようであるが、実際は十三世紀にモンゴル帝国に征服された中央アジア、東ヨーロッパまでの広い地域で人気がある。 このストーリーでは、ある悠馬と従者が鎌倉幕府の執権八代執権北条時宗から、モンゴル帝国軍を撃退する秘策を見つけるという命を受け鎌倉から九州まで旅をする。途中色々な難関に立ち向かい最終的に対馬の沖合で突然の大嵐に襲われるまでの間に、秘策を見つけ出す。今までこのストーリーに参加したプレーヤーでコンバイの準備した正解にたどり着いた者はおらず、仁も過去三回何とか旅の最後までたどり着き、モンゴル帝国軍を撃退する方策を報告はしたが、「まだまだ」という評価を得たのみであった。 最近、仁は魔境の伝説をやっている時にしばしば集中力が切れ、突然眠気に襲われるとようになった。そのようなことは今まで経験したことが無かった。仁にとって違和感があるのは、そのうとうとした間の夢の中でゲームのストーリーは続いていて、加えて自分の子供の頃の記憶の中に押し込めていたおどろおどろしい話が出て来て、非常に気持ちがざわつくのだ。しかしそれはこのところの連日のバイトやゼミのレポート書きで疲れているせいかも知れない……と仁は思った。 そんなこともあり、今日は夕方大学から帰る途中にコンビニで新発売のカテキン入りのエナジードリンクを買って来た。これをゲーム前に飲んでおけば、あの不意に襲ってくるもやっとした眠気に勝てるであろうと考えたのだ。 仁は自宅に帰ると、母親が準備していた夕食をそそくさと食べると「ごちそうさま」とキッチンに立っている母親に一声を掛けて、エナジードリンクの入ったペットボトルをぶら下げて、二階の自室に上がった。隣に兄悟志の部屋がある。 部屋に入るとボトルをディスプレイの横に置いて、ゲーム用のパソコンの電源を入れた。続けてその右側に置いてあるもう一つのパソコンの電源も入れた。通常、ゲームは一台のパソコンに一画面のディスプレイで行うが、このゲームを行うときは二台のパソコンを使う。ゲームを行うばかりでなく、同時に謎解きに使う地図や年表、関連する様々な場所や物の情報を調べる必要があるのだ。ゲーム中、プレーヤーはサブのディスプレイに必要な情報を次々と表示させ、時々それを見ては頭に取り込んでいく。このこともまた仁の頭に大きな疲労をもたらす一因と思われる。 今日、彼は昨日のゲームの続きで、鎌倉時代の悠馬となって前回九州の博多から海を渡った対馬の砂浜で、いずれここを襲って来るモンゴル帝国軍を撃退する方策の手がかりを得ようと考えている。 仁がコンバイの魔境の伝説にアクセスすると左側のディスプレイに今日のゲーム設定が表示された。 ここでの登場人物:悠馬三浦悠馬(前回からの続き)、従者三郎太(前回からの続き) 場所:対馬の海岸 時間: AC1276年4月 注:二度の元寇(文永の役、弘安の役)の間の時期と思われる ここでの問題:本セッションの最後に表示される ゲームを開始する場合はYキーを、ゲームを止める場合はNキーを押してください。 そこで仁は今までと違うメッセージがディスプレイに表示されるのを見た。 注:物語をモニターで見る場合はMをあなたの頭の中でイメージを見る場合はVキーを押してください。 頭の中のイメージ?何だそれは。パソコン画面上の動画ではなく頭の中に場面が現れるという意味か。そもそも昨日までこんな機能はなかったと思うが。仁はちょっとためらったが、キーボードのVのキーを押した。ディスプレイは少し赤みがかったような気がしたが、表示されている内容には特に変化はないよう思われた。 仁はディスプレイをじっと見つめた。ゲーム設定の文字からゲームの場面を映した動画に変わっていた。映像は夜の海岸とその向こうに見える暗い海であった。そこに一見して侍とわかる姿をした若者の姿があった。映像は悠馬の目から見える景色に変わっていた。 ――――――その目の前には、月の光で照らされた群青色の春の穏やかな海が横たわっていた。彼はしばらく海を正面に眺めていたが、やがて体の向きを変えて浜を歩き始めた。足許ではざくっ、ざくっと砂が音を立てる。時折海の方を見ながら、しばらく歩くと湾の端までたどり着いた。そこには夜の闇の中に陸揚げされている二層の小舟の影が見えた。 「はて、どちらの船だったかな」彼はそう言うと、少し大きい方の舟の後ろに回り、船尾を押したが、舟はびくともしなかった。それならばと、今度は小さい方の舟の船尾を押した。こちらは、少し動いた。しばし押し続けると、小舟は少し押し出されて前に進み始めた。ふーっと一息付くと、両腕をつっぱって舟を押し続けた。すると、がくっと急に軽くなった。顔を上げると、船首の先に日焼けをした若い男の顔がにやっと笑うのが見えた。 「三郎太……、どうしてここに?」 日焼けした男が、船首の方から答えた。 「悠馬様はお考えがすぐにお顔に出るので、夕刻から様子を伺っておりました。で、夜半に、宿から出られるのを見たので、後をつけてまいりました。それにしても随分と水くさいじゃないですか。」 「すまぬ。お前を巻き込みたくなかったのだ。もしあれに出会ったら二度と帰れなくなくなるかも知れないからな」 「何をおっしゃる。この三郎太は最後までお供すると決まったものですよ」―――――― 頭の中ですっかり悠馬となっていた仁は後ろから肩を揺すぶられるのを感じ、一瞬にして現実の世界に戻った。今見ていた光景がディスプレイの画面上のものではなく、頭の中で起こった幻視であることに気がついた。仁の後で声がした。 「おう、悪い。おれに何か話があるんだよな」 兄の悟志の声であった。仁は同級生の篠原セナから悟志に相談したいことがあると言われ、今日メールで悟志に連絡したことを思い出した。セナは仁の幼なじみで、今も鎌倉大学史学科の同級生でありサークルの鎌倉研究会でも一緒である。悟志は続けた。 「それにしてもお前ゲームに入り込みすぎじゃないのか。今ぼうっとしていたぞ」 「この新バージョンの魔境の伝説は視覚的に引き込まれるものがあってさ。ぼ うっとするんだ」 「何かやばくないか、それ。で用事は?」 「そうそう同級の篠原セナが兄貴に何か相談したいので時間取ってくれないかってさ」 「篠原セナ?ミカの妹だな。小学生の頃この家に遊びに来たことがあった。何の相談だろ」 「その姉さんのミカさんのことらしい」 「ミカか。今どうしているだろうな。大学を卒業して、しばらくしてウリグシクに嫁にいったのだが。その後音沙汰がないのだけど」 「なんだ、兄貴、結構知っているんだな」 「それはそうさ。彼女は宗家の血筋だし。自分としても少なくとも見守る必要はあると思ってな」 仁も少しまじめな顔になって、悟志の方を見た。 「いやなに、それはともかく、俺もミカも鎌倉研究会だったからな」 「へーそうなのだ。ミカさんが鎌倉研究会ってのはセナから聞いて知っていたけど、ばりばり理系の兄貴も入っていたとはね」 「まあ、そうだな。鎌倉研究会では何人かが今、仁がやっている魔境の伝説にはまっていて、その中でもミカが一番熱心にやっていた。当時のそのゲームは今のものよりもう少し単純な謎解きゲームでね。俺は彼女のアシスタントのように、謎解きに協力していた」 「ふうん。そんなことがあったのだ。そのころ僕は中学生だから、大学生のやっていることは全然興味がなかったからな」 「まあ、いいや。じゃセナ君に、会うのは何時でもいいから俺の携帯に連絡くれるように言ってくれ」 「わかった。言っておく」 「それと仁。最近そのゲームはまりすぎじゃないか。今もぼうっとしていたし。あんまり身体にも良くないぞ。ほどほどにしとけよ」 「へえ、兄貴もこれ時々やっているじゃないか。良く言うよ」 悟志は弟の反撃を受けて、苦笑いをした。 「だからさ。ほどほどにな」 仁は兄と話すのは久しぶりだなと思い目を細めて微笑んだ。 「子供じゃないよ。でもわかった。ほどほどにしとくよ」 そう言うと仁は再びパソコンのディスレイの方に向かった。悟志はやれやれと言う顏で仁の部屋から出た。 しかし、翌日母親が仁の部屋に行くと、仁は電源が入ったままのパソコンの前で、意識がどこか遠くに行ってしまったかのように、名前を呼んでもかすかに反応するだけの状態となっていた。その後、彼は食事や排泄などの日常生活は営んでいるものの、その他の時は夢を見ているような状態でパソコンの前に座っていた。 スイスに本部を持つ世界警察機構では日本人のサイバー犯罪特別捜査官の岩槻がこの一ヶ月あまりの間に世界の各地に起こった同じような内容の不可解な事件について調査を進めていた。 それは、世界的にユーザーの多いオンライン・ゲームの運用会社コンバイ社の提供するゲームを行った者がコンピューターの前で廃人になってしまうというものであった。そのゲームで同じような症状になりかけて、コンピューターがダウンしたため幸運にも難を逃れた日本人のゲーマーの話に依れば、ゲームを行っていると、あたかもその中に入り込んだかのように幻視を見続け、その幻視の世界から自力では戻れなくなるという状態になったと言う。 特にこのような事象は日本を含めたアジアの特定の国で起こっている。岩月はこの事件の背後には、コンバイと関係している国際的な武器の密売組織が関与しているのではないかと考えていた。彼は知り合いで、日本でこのオンライン・ゲーム魔境の伝説に詳しいある人物から、コンバイの摘発に繋がるような幾つかの情報を得ていた。 篠原セナは実家のある鎌倉の鎌倉大学史学科の二年生だ。セナには母親の違う七つ年上の姉がいる。姉のミカは歴史が好きないわゆる歴女で、セナが小学生のころよく一緒に鎌倉の寺院を訪れた。ミカも鎌倉大学の史学科を出た後、中央アジアの古代史の研究のためウリグシク共和国のウリグシク国立大学に留学し、その大学の史学科教授のユースフ・アリシェロフという学者と結婚した。ミカとユースフは意外にもミカがまだ鎌倉大学の大学生の時分に、オンラインのコンピューター・ゲームを通じて知り合った仲であった。    セナはミカが大学生の頃、サークル活動やコンピューター・ゲームにハマっていたことは知っていたが、その繋がりで古代史の指導を受けにウリグシク大学に留学し、結婚までに至ったというのは後になって知った。 そのユースフとミカは六カ月前ウリグシク高原の史跡の調査旅行を最後に行方不明となり音信不通となってしまった。夫妻が行方不明となってからミカとセナの父、貿易会社を営む雄一はウリグシクに出向き、現地の警察に協力して捜索活動をしたが、手がかりを得ることなく帰国した。ユースフと個人的に親交のあったウリグシク大学のワン教授も警察に心当たりを聞かれたが、知っていることは何もないとの答えであった。ユースフの助手として大学で働いていたミカも調査旅行の前日まで普段と変わりなく大学に来ていたと話した。二人の行方について何もわかないまま半年が過ぎていた。 セナの家族はセナの実母はセナが幼いころに亡くなり、継母となったミカの母親も五年前に亡くなっていた。父親の雄一の家系は代々鎌倉の仏寺の住職であったが、雄一は後を継がず、輸入雑貨の貿易商となった。ミカとセナは子供の頃よく祖父の廣元(こうげん)が住職を務める駿河湾が望める樹恩寺に出掛け、廣元から鎌倉の歴史について話を聞いた。やがてミカは大学に入り歴史を研究するようになった。ミカは大学での論文書きに行き詰まるとたびたび廣元の知恵を借りにそこを訪れていた。 ミカが行方不明になってから、セナはもしかすると廣元が何かを知っているのではないかと樹恩寺を訪ねていった。廣元は具体的には知っていることはないが、ミカとユースフはどこかで無事でいると言った。セナは廣元がもっと何かを知っているのではないかと感じた。そして今は何らかの理由でそれを明かさないのだろうと思うことにした。廣元がミカは無事だというからには、それほど遠くない時期にミカと連絡が取れるかも知れないと考えるようになっていた。 セナが廣元に相談してから数日後、篠崎家あてにウリグシク共和国から国際郵便が届いた。差出人はウリグシク大学・理化学部教授ワン・ハオ・ランとなっていた。セナは二十畳あり、がらんとした自宅の居間のソファ―に腰を下ろして封筒を開けた。手紙は篠崎家に宛てたものであったが、父親の雄一はロシアに骨董品と雑貨の買い付けに出ているので、留守を預かっているセナがそれを読むことにした。ワン教授からは大学のユースフの研究室を片付けていると家族宛と思われる日本語で書かれた手紙が出てきたのでそちらに送るという短いメッセージ付いていた。やっぱりミカちゃんは生きているんだ。良かったとセナは心がとても晴々となった。セナの目にはうれし涙が出て来た。 日本語の手紙は書かれている文字の形でミカが書いたものであることがわかった。便箋の一番上に篠崎家のみなさまと書かれていた。気持ちが少し落ち着いたセナは、これはミカちゃんらしくない書き方だなと少し違和感を覚えた。そして本文の文面はそれ以上に奇妙なものであった。 「人の心の幻から抜け出すための道具が、鎌倉の樹恩寺にあります。これは現代のコンピューターによってもたらされた病理から人を救い出すことが出来ます。詳しくは、そこに説明が書いてありますので良く読んで下さい。また鎌倉大学の北悟志氏は過去の経緯を知っていますので、彼と良く相談して行動し、周りの被害者を救い出してください」 セナはこの手紙を読んで途方に暮れた。手紙の筆跡は姉のミカに間違いはないと思うが彼女は家族宛の手紙に、こんな書き方はしない。これは誰かに書かされたような書き方だ。    また心の幻とかコンピューターによってもたらされた病理とは何なのか。意味するところが不明だ。そしておじいちゃんの樹恩寺にあるものとは一体何なのか。何か大変なものらしいけど、おじいちゃんは何も言ってなかったし。北悟志さんは鎌倉大学の先生で鎌倉研究会の顧問でもある。そしてセナの幼なじみ北仁のお兄さんだけど。何故ミカちゃんは北先生に相談しろと言うのだろう。 セナはミカから手紙を受け取り嬉しい気持ちと同時に、何とも言えない大きな不安に駆られるのを感じた。セナは子供の頃からこのような不安に駆られた時に、親や女の子の友達より相談する相手がいた。それは今、セナとともに鎌倉大学の学生で鎌倉研究会に属している二人、北仁と南陵(みなみりょう)という幼なじみ達であった。 セナはキャンパスで仁をつかまえて、北先生と相談することがあり会いたいとお願いした。そして二日後に悟志からキャンパスのカフェテリアで会うと直接連絡が来た。 鎌倉大学にはキャンパスの中央にガラスの壁に覆われたカフェテリアがある。そこは四方から陽光が差し込むため、明るい雰囲気のある場所である。その一角に街のカフェのように、しゃれた雰囲気をもつ喫茶エリアがある。そこで今風のファッションの女子学生と二十台後半と思われる背が高く痩せた男性がテーブルを挟み話し込んでいる。篠原セナと北悟志である。 セナはミカから来た手紙のことを悟志に話した。そして何故ミカが急に手紙の中で悟志の名前を出して相談するようにと言って来たのか当の悟志に心当たりがあるのかを尋ねた。悟志はしばし考え込んだがやがてセナに話始めた。 「今から七年ほど前、僕と君のお姉さんはこの大学で鎌倉研究会に参加していた。鎌倉研究会では今もやっているが、鎌倉の歴史探訪ということでお寺や史跡を歩いて回っていた。しかしミカさんはこの頃、オンラインの謎解きコンピューター・ゲームの魔境の伝説にハマっていて、そこで出た謎解きの超難解な問題を鎌倉研究会のメンバーに協力させ、かたっぱしから解いていったのだ。君も魔境の伝説は知っているだろう」 セナは悟志が何を話し始めたのかという表情で聞いていたが、悟志の質問に曖昧に頷いた。悟志はそれを見て続けた。 「魔境の伝説は今では、RPGになっていてプレーヤーが物語の中の人物になって、謎を解いていくゲームだが、当時はよりシンプルにゲームのアドミニストレータが出す問題を、スピードを競って解くゲームだった。そこでミカさんは問題が出るや否や、鎌倉研究会のメンバーに振って、かなりのスピードで問題を解いていた。僕は化学学科だったが理系と言うことで、科学的知識を要求されるものすべてを担当していた。そのゲームのチャンピオンシップで上位入賞をすると、賞金も出るようで僕もミカさんから分け前をもらっていたよ」 「そんなことをしていたなんて全然知りませんでした」 「このゲームを運営しているのはコンバイという会社でロンドンに本社がある。出される問題は世界各地の七思議のような問題、例えばナスカの地上絵はどのように出来たかなどと言うものだった。もちろん回答が正しいかということは証明できないので、答えの尤もらしさ、現実にあってもおかしくない度合で競うものだった。そのジャッジはコンバイが行っていた。そしてそのゲームでミカさんとその頃、競っていたのがウリグシク大学教授のユースフ・アリシェロフという人だった」 「今の姉の夫ですね」  悟志は頷いて続けた。 「ミカさんはこちらがいつも数人がかりで時間を掛けて問題を解くのに、ユースフ氏は一人で短い時間で問題を解くので感心していたし、内心尊敬していたようなのだ」 セナはそう言えばミカちゃんと旦那のなれそめはほとんど聞いたことがなかったと思った。二人の共通の趣味が、彼らにあまり似つかわしくないテレビゲームだっていうのは知っていたが。 「そうなのですか。ユースフさんはもちろん知っていますけど、二人の間にそんな話があったなんて初耳です」 悟志は頷いて続けた。 「そして、ある日コンバイからユースフ氏とミカさんをそれぞれ指名して、ある特別な問題に挑戦して欲しいというオファーがあった。もの凄く大きな金額の賞金付きでね。後で聞いたことだがコンバイはこれを単なるゲームということでなく、そこで得られた答えを何か別のことに使うつもりがあったようなのだ。それは詳しくはわからないが」 「でも、姉やユースフさんも大きな金額のお金をもらったのですか」 「いや結局はそうはならなかった。実は僕はその特別な謎を解くのにミカさんから協力を依頼されてね。バイト代にしては破格の金額を分けてくれると言われたのだけど、ユースフ氏もミカさんもお金をもらうことは無かった。もちろん僕もね」 「その特別な問題とは何だったのですか」 「それは、日本の鎌倉時代のモンゴル帝国軍の日本侵攻、日本で元寇と呼ばれる二度に亘る進撃に関するもので、何故モンゴル軍、実際はその当時モンゴルの支配下にあった朝鮮半島の高麗の軍船が主だったのだが、なぜ圧倒的な戦力を持ちながら二度とも一夜で博多湾消えてしまったかというものだった」 元寇?そのことならミカちゃんから色々教わったので結構知っているとセナは思った。そう言えばミカちゃんが大学生の頃、色々な資料を探して良く調べていた。大学のレポートに必要なのかなと思っていたけど、この謎解きに使っていたのかなと考えていると、悟志がセナの様子を伺いながら話しを続けた。 「まず、ユースフ氏が日本海のモンゴル軍の消失は突然起こった大竜巻のためだったという説を唱えた。しかしそれは偶然すぎるということでコンバイによって否定された。次に謎解きのオファーがあったのがミカさんと言う訳だ。ミカさんの唱えた説は、ある薬剤の効果でモンゴル軍の軍船の中で集団催眠現象が起きて船乗りや兵士たちが、魔物が船の外で暴れているという幻想を抱きパニックで操船を誤り、船を沈没させたり、恐怖のあまり逃げ去ったりしたというものだった。実は僕もこの説の理屈付けには協力したのだ。」 悟志はそこで少し話を止めて、何か楽しいことを思い出すように今までの生真面目な表情を崩したが、直ぐにもとの顔つきに戻って話を続けた。 「そして、ミカさんの案はコンバイにも気に入られ、本当にそういうことが起こるのかを実験で確認しようとコンバイがユースフ氏に自身の体をもって人体実験させようとした。ミカさんはこのことを、賞金を渡しに来たコンバイのエージェントから聞き、そのような人体実験を行うと幻視の世界をさまよい、現実の世界に戻れなくなることを心配して実験を思いとどまるようにユースフ氏に言うためウリグシクに行くことにした。ミカさんは行く事を決めてからほんの三日ぐらいで出発してしまった。貿易会社をやっているお父さんのつてを使ったと言っていた。そして……実は僕もアシスタントという役周りで一緒に行ったのだ」 セナはそれを聞いて思いだして言った。 「ああそれで。姉が大学生の時に、ゼミの研究旅行でウリグシクに行くことになったと言って出掛けていきました。そんな旅行にしては随分急だなと思っていました。誰か大学の人が一緒に行くと言っていたけど、北先生だったんですね」 「そうなのだ、そして、ミカさんと私は、コンバイのエージェントの誘導でユースフ氏がまさに人体実験を始めた直後にその現場に到着した。そして手遅れになる前に、実験を中断させてユースフ氏を現実に引き戻すことに成功したのだ」 セナはますます驚いた顏になり、何度も頷いて言った 「そんなことがあったんですね。ぜんぜん知らなかった。姉からは、向こうで会ったユースフ先生の話とかウリグシクの大学で大きな竜巻がいくつも起こったという話しは聞きましたけど」 悟志はまた少し考え込んで言った。 「そう凄まじい竜巻が幾つも起こってね、ウリグシクの平原では時々起こるらしいが、あの日は僕たちが到着した時にそれが幾つも起こって、大きな被害をもたらしたようだった。丁度同じ頃、日本でも九州で同じような現象があったらしくて日本のテレビのニュースでも報道されたようだ。このことがきっかけで、ミカさんとユースフ氏はこの幻視をもたらす現象の研究を一緒に始めた。まだまだその時点で分かっていないことがあったからだが、これはまた二人のなれそめになったと言う訳なのだ」 そこまで話すと悟志は、立ち上がってテーブルの横にある自動販売機まで歩いて行って、缶コーヒーを二つ買いそれを両手に持ってもどって来た。一つを自分の前に、もう一つをセナの前にポンと置いて、「どうぞ」と言った。セナは「あ、恐れ入ります」と言うと軽く頭を下げた。悟志は缶の栓を抜くと、勢いよくぐっとコーヒーを飲み込んで言った。 「それで、その後二人はこの幻視について研究した。当初中央アジアの高原に育つ赤い根の植物から作った薬の効果で服用した人間に幻視をもたらすと考えていたが、それだけではなさそうだと考え始めた」 「その植物は中央アジアにだけ育つものなのですね」 「そうなのだ。この幻視をもたらすものはすべてウリグシクが起源のものだ。それだからこそ、コンバイが最初に目をつけたのがユースフ氏だったという訳だ。そして二人は幻視はその薬だけで起こるのではなく、ウリグシクの遺跡で時折発掘される銅の鏡、銅鏡によって制御されると気が付いた」 「銅鏡?」セナは聞き慣れない言葉が出てきたので思わず聞き返した。 「そうなのだ、ミカさんとユースフ氏がウリグシクと日本の歴史資料を調べて行くと、幻視を起こすのは例の植物から抽出した薬剤の効果ではあるが、幻視の世界に入りまたそこから出るためにはある波長の光を放つ銅鏡を使うことが必要だということが解ってきた。それは幻視を制御する装置と言ってもよいものらしい」 「幻視を制御する装置ですか。ええっと、それについて日本にも資料があったという訳ですか」 「銅鏡については、僕もよく知らない。大分時間が経ってミカさんからそういうものがあることをあらまし聞かされただけだからね。日本にあるそのことについての歴史的資料は主に鎌倉時代の元寇の際に日本に入ってきて、そのままあまり人目につかない形で残されているようなのだ」 「そうなのですか。ひょっとするとその場所は……」 セナは悟志の顏を見て言った。 「そう、それはこの鎌倉に残っている。そして多くの歴史的資料や遺物を残しているのが鎌倉の樹恩寺だ」 樹恩寺。その名前を聞いてセナは驚いた。ミカとセナの祖父廣元が住職を務めている、二人になじみの深いあのお寺だ。同時に、何故ミカがこの研究に携わり始めたか思い当たった。セナは言った 「その樹恩寺に、姉が何か重要なものを預けているらしいのです。それは何なのか良くわからないのですが、姉の手紙によれば、コンピューターによって人の心に起こされる幻から抜け出る方法らしいのです。私はそれを解くことで姉の行方を突き止めることに繋がるような気がするのです」 悟志はセナの方をじっと見て言った。 「多分、その通りだと思う。そして……そのミカさんが言っているコンピューターによって引き起こされる幻に今掴まって帰れなくなった者がいる」 セナは、この数日音信不通となっている友人のことを思い出し、もしやと思い悟志の顔を見た。悟志は苦しそうな声になって言った。 「仁が、二日前からコンバイのゲームをやったまま、夢遊病者のようになって現実の世界に戻ってこない」 樹恩寺にはセナと悟志と、セナの幼なじみで仁の親友でもある南陵の三人で出掛けた。樹恩寺は相模湾を望む高台にあった。セナがここを尋ねたのは、昨年鎌倉研究会の活動で、仁と陵とともに鎌倉時代からの所蔵品を見学しに来た時以来であった。    樹恩寺の玄関で、セナは住職の廣元に悟志を紹介した。二人は既に知っている仲のように軽く会釈を交わした。セナはミカから家族宛の手紙がウリグシク大学のユースフの同僚ワン教授から送られてきたことを話した。セナはミカからの手紙を廣元に見せて言った。「おじいちゃん、ミカちゃんの言っている心の幻から抜け出るための道具って何だかわかる?」 廣元は頷くと、言葉は発せず手ぶりでこちらにどうぞと示した。彼らは本堂の中へは入らず建物の脇を歩いた。廣元の後をついて歩いて行くと本堂の裏手にある倉庫のような建物の前に来た。廣元は「ここでしばらく待ってください」と言うと本堂に足早に入りすぐに鍵の束と茶色の封筒を持って戻って来た。「お待たせした。さ、中に入ってください」そう言うと廣元は倉庫の扉を開け自分がまず中に入った。 「こんなところで、申し訳ない。ここが一番安全なのでね」と廣元が言った。 「おじいちゃんは、ミカちゃんから何か聞いているのね」 何か外部の人に聞かれないように秘密に話そうとしている廣元の様子を見てセナは言った。 「そうなのだ。実は半年ほど前にミカが里帰りした時に預かった書類があってな。これは極秘の書類で、狙っている者たちがいるので、しばらく預かってほしいということだった。多分これをセナが取りに来るとも言っておった。そして自分はしばらく連絡が取れなくなるかも知れないが必ず無事に帰ってくるので心配しないで欲しいと言っていた」 「ミカちゃんがそんなことを。だからおじいちゃんはミカちゃんが無事だと言っていたのね」 「ああそうなのだが、セナがミカの手紙で今日ここを訪ねて来ると聞くまで半信半疑であった。昨日セナから連絡をもらって、ミカの言う通りになっているからミカは無事なのだろう」 悟志が口を挟んだ。 「その時ミカさんは誰かに命を狙われているとは言ってはいませんでしたか」 命を狙われていないかという言葉を聞いて、セナと陵が思わず悟志のほうを見た。リョウが口を尖らせて言った。 「北先生、そんな縁起でもないことを言わないでください」 悟志は慌てて言い直した。 「いや、最近は世界各地で危ない事件がおこっているから。何か危ないことがなければ良いと思って」 廣元はそれに応えて言った。 「うん危ないことが無ければ良いと私も思っている」 「ミカちゃんの書類には何が書いてあるのかしら」 「私も読んではいないのだ。ここでセナに読んでもらおうか」 廣元が三人を倉庫の隅に置いてあるテーブルに座るように促した。四人は椅子に腰を掛けた。廣元は持って来た茶色の封筒を開け中からUSBの記憶媒体と数枚の便箋を取り出した。 「ミカが実際にそれを読んだ音声データがあるので、それを再生しよう」 そういうと廣元は僧衣の懐から携帯端末を取り出して記憶媒体を繋げ操作をした。スピーカーからミカの懐かしい声が聞こえた。 「私とユースフ・アリシェロフ教授は、五年前から一緒に日本の鎌倉時代に元寇と言われるモンゴル帝国軍の二度の日本への侵攻と退却の謎について研究していました。 それは当時、日本より圧倒的な火力を持ち優勢であったモンゴル帝国軍が日本への上陸を果たしたにもかかわらず、二度とも一夜にして博多湾から退散したと言われています。   その理由は大嵐が来て軍船を沈没させたとか、軍船の中で疫病が蔓延したとか、船団は多くはモンゴルに征服された高麗の軍であったことから、士気が高まらず退散したなどの理由が挙げられていますが、本当の理由は解明されていません。 これは大変不可解なことです。歴史学者である、ユースフと私はこのウリグシクに残されたある伝承に着目しました。それはこの中央アジアにだけに育つある植物から抽出した薬剤を服用した人が、特殊な波長の光を放つ銅鏡を覗き込むと、その人が心で強く望んでいるもの、もしくは恐れているものが見えると言うものです。 私はモンゴル帝国の軍船には兵隊や船乗りの士気高揚のためにこの薬草と銅鏡が積まれていたのではないかと考えました。彼らは、モンゴル帝国軍が日本の武士を蹴散らす話を繰り返し聞かされ、その上でこの薬草や服用し銅鏡を覗き込み、戦勝の場面を何度も幻視することで勇気を振り起こしていたのでしょう。夫のユースフは少し違う可能性も考えていましたが、現在は薬剤と銅鏡の効果による集団催眠下での幻視の発生という考え方に落ち着いています。 この植物は今でもこのウリグシクで採集できます。またこの銅鏡はウリグシクの遺跡で発掘されています。そして銅鏡の幾つかは、元寇の際に日本に持たされたものが、今でも日本にも残っています。 私たちは、更にこの幻視について、研究を進めました。それはこの研究の発端となっているロンドンの電子ゲーム会社のコンバイのエージェントの進言により、この五年間に行った人体実験により得られたものです。被験者は主に夫のユースフと、回数は少ないのですが、私です。 幻視に入って行くためには中央アジアの一部の地域に育つ赤い根の植物からある成分を抽出したものを服用します。その正確な抽出方法と服用方法については別に述べますが、その方法は正確に守る必要があります。さもなければ人体に悪影響を及ぼし、最悪は死に至る可能性があります。 但しそれを服用しただけでは気分が高揚するだけで、何も起こりません。幻視が起きるためには、その薬剤を服用した後に特別は波長の光を放つ銅鏡でそこ映る世界を注視することが必要です。 赤い根の植物の薬剤を服用し銅鏡を直視することで、次第に幻視の世界に入っていきます。銅鏡はいわば幻視への入り口の扉のようなものです。気をつけなくてはならないのは長く幻視状態にあれば、効果がより強烈となり被験者の体と精神に相当なダメージを与えることです。この幻視状態から、幻視に入って時間がそれほど経っていない場合は鏡の光を遮断することで現実の世界に引き戻すことが出来ますが、幻視状態が長くなった場合安全に引き戻すためにはもう一つ別の種類の光、青い色の光を出す鏡が必要となります。幻視の世界に居るものがこの青い光の鏡を注視することで、現実の世界に戻ることが出来ます。 ウリグシクに残る伝承には、この赤と青の二種類の光を放つ対の銅鏡が必要となることが書かれています。 ウリグシクの伝承によればこの幻視状態をコントロールする銅鏡は二つの板に鏡をはめ込み真ん中のちょうつがいで九十度の合わせ鏡にしたものを使います。その真ん中に光を置くことによって効果が強くなると言います。 この銅鏡はユースフと私が調べたところ現在まで数基発見されています。その一つはウリグシクの中世の遺跡から発掘されたもので、現在許可を得て私たちの研究室に保管しています。そしてもう一つは、モンゴル帝国軍の日本侵攻の際に軍船に持ち込まれたもので戦利品として鎌倉の執権北条時宗に届けられ、現在に至るまでそれを届けた僧の寺に収蔵されてきました。その寺というのが鎌倉の樹恩寺です」 廣元は「一旦止めよう」と言ってミカのメッセージを止め、三人を見渡した。 悟志は廣元に向かって言った。 「その手紙にある銅鏡というのはこの寺にあるのですか」 廣元は頷いて言った。 「それはここにあるんだ。後程お見せするとしよう」 そういうと廣元は「まだ録音の続きがある」と言って端末を操作した。再びミカの声が流れた。 「もう一つ伝えなければならないことがあります。ユースフと私がこの幻視に係る実験を始めるきっかけとなったのはゲーム会社コンバイの依頼によるものですが、私たちの研究が深まるにつれ、このコンバイが私たちの研究成果を手に入れようと大きく関与するようになりました。 コンバイは背後にXと呼ばれる国際的な武器の密売組織があるのですが、この組織とコンバイはこの幻視作用を武器創出に応用できないかと考え、私たちの研究室に頻繁に彼らのエージェントを送り込みました。またウリグシクの遺跡から私たちが発掘し研究室で保管している銅鏡も最近コンバイのエージェントが持って行きました。  最近はコンバイの私たちの研究への介入がひどくなり、半ば脅迫のように研究成果を急かすので私たちは身の危険すら感じています。もし私とユースフに何かあればそれにはコンバイが関係していると考えてください。 またコンバイ社の魔境の伝説のプレーヤーがゲームを行うと異変が起こるという噂があります。私とユースフは、これはコンバイがオンライン・ゲームを通じて人体実験を行っているのではないかと疑っています。 それはゲーム中にパソコンのディスプレイから発する赤い光をプレーヤーに無意識に見させることによってゲームの世界の幻視を発生させるということのようです。もし、そうであれば、プレーヤーが幻視の状態から戻れず、意識がそこを彷徨続けるという危険な事態を招くことになります。組織Xとコンバイは、安全性などは無視をして無差別攻撃手段としての幻視の実験を行っているようなのです。 その幻視の状態に陥った人を現実世界に戻すためには、樹恩寺に保管されている青い光を放つ銅鏡の効果を用いるしかありません。周りにコンバイの人体実験の犠牲者が出たらこの銅鏡を樹恩寺から借りて救ってください」  録音はそこまでであった。倉庫に静けさが戻った。しばらくの間誰も言葉を発しなかった。やがて悟志が廣元の方に向き直って緊張した面持ちで言った。 「弟の仁が、魔境の伝説をやっていて、一昨日からミカさんの言った幻視状態に陥っています。私もどうして弟の意識が現実に戻らないのか分からなかったのですが、今のミカさんの話を聞いて確信しました」 思いもかけない悟志の言葉を聞いて、セナがびっくりした表情で悟志に尋ねた。 「仁は、……北君は今どんな状態なのですか。三日前に会った時は普通に元気そうでした」 悟志が答えた。 「あ、いや、体には異常はないようなのだ。ただ日常の用を足すとき以外はパソコンの前に座り続けている。何か話しかけると反応はするが、こちらは全く見えていないようで、答えることはない。まるで意識がどこか別の世界にいる感じなのだ」 ここまで黙って聞いていた陵が言った。 「早く助けに行こう。廣元和尚さん。ミカさんの言っていたこのお寺にある銅鏡を出してください」 セナも大きくうなずきながら言った。 「みかちゃんの言っていた銅鏡はどこにしまわれているのですか」 廣元はつと立ち上がって、目の前のテーブルを指さした。 三人は先ほどから向かっているテーブルが年季の入った頑丈な板であることに気が付いた。 「銅鏡はこのテーブルの板に付いている。皆、ちょっと手伝って持ち上げて裏返しにしてくれるかな」 悟志と陵、そしてセナもテーブルの板の端を持って持ち上げると、それは支えている脚から外れた。そしてその板を裏返すと、板の真ん中に蝶番がありその左右に鈍い輝きを持つ銅製の鏡が見えた。 「へえ。こんなところにしぶい鏡がついているよ」と稜が言うと、廣元が陵に向かって言った。「たのんだぞ。陵」 陵は頷いた。そして小さい声で独り言を言った。 「望みはわれらにあり」  セナは陵を見て言った。 「何それ?」 「小さい頃、仁と結成した少年冒険団の合言葉さ」 悟志と陵、セナは樹恩寺の銅鏡を持って急ぎ仁の部屋に向かうことにした。稜は一旦樹恩寺から近所で畳屋を営む実家に帰り、軽トラックを取って来た。悟志と陵、セナの三人掛かりで銅鏡の付いた板を荷台に積み、駿河湾を臨む樹恩寺から鎌倉の狭い切通を抜けて、北鎌倉の仁の実家までトラックを飛ばした。 悟志が家の玄関の扉を開けると陵は「おじゃまします」と大きく声で声を掛けると、「陵君、いらっしゃい」と奥から北兄弟の母親の声が聞こえた。銅鏡を板ごと二階の仁の部屋まで持って行く必要がある。玄関で板を持っている陵に「手を貸そう」と悟志が声をかけたが、陵は顏でそれを制するしぐさをして、脇にそれを挟み込んで階段を駆け上がるように登った。悟志とセナはそれに続いた。セナが「陵、自分の家のように仁の家を知っているのね」と言うと、陵は「何せ、小さい子供の頃から一緒にこの辺駆け回ってるからな」と階段を登りながら言った。 悟志と陵とセナが、仁の部屋の扉を開けると、八畳ほどの洋間の奥で仁がこちらに背を向け、コンピューターのディスプレイの前に座っているのが見えた。セナが「仁、大丈夫?」と声を掛けた。仁はそれには返事をせず、時折、薄暗い赤みががった光を発するディスプレイをじっと見ていた。 「おとといからずっとこんな感じなのだ」と悟志が言った。陵が言った。 「心ここにあらずってやつだな。仁は子供の頃から一旦自分の世界に入ると中々出てこなかったからな」 そう言うと陵は、どこいっしょと持っていた板をパソコンのディスプレイの横に置いて銅鏡が仁から見えるように開いた。板には二つの銅鏡が貼ってあったが、表面が青っぽいほうだけが見えるように位置を調整した。周りで騒がしい音を立てているにもかかわらず、仁は何事もないかのようにずっとディスプレイを睨んでいた。 陵は「ええと、それから……」と言って、部屋をばたばたと出て行き、直ぐに毛布と蝋燭と着火器具を持って戻って来た。セナが「それ何処から持ってきたの」と聞くと、陵は「仁のおばさんに借りた」と言って、毛布を表面が赤っぽい鏡の上に掛け光がもれないようにしてから、蝋燭に着火器具で火を点けた。セナが「その蝋燭は何なの?」と聞くと 「子供の頃、仁と遊んでいた時、あいつはゆらゆらゆれる火に興味を示していたのを思い出した。このままじゃ仁はディスプレイしか見ないけど鏡の前で蝋燭がゆらゆらすると絶対そっちの方を見ると思う」 セナは少し驚いて言った 「本当に稜は仁を小さい頃から良く知っているのね」 「ああ、少年冒険団だからな」 うつろな目をしていた仁に少しずつ変化が起こり始めていた。今までディスプレイのみを見つめていた瞳をゆっくりと蝋燭の火の方に移し、いぶかしげな顔をした。そのまま何分か時間が過ぎた。仁を取り囲んだ三人には殆ど時間の流れが感じられなかった。やがて仁はゆっくり稜の顔を見て言った。 「稜、ここは弁天様の洞じゃないのか?」 「いやここは仁の部屋だよ」と稜が言うと、仁は悟志とセナの顏を交互に眺め言った。 「兄貴、セナも何でここにいるんだ」 悟志とセナが同時に「良かった」と言うと、陵と三人で顔を見合わせて笑い出していた。仁の顔つきは次第に普段のものになった。陵が言った。 「お前こそ、どこに行っていたのだ」 仁がしばし考えて言った。 「どこか暗い夜の海だ。最後は銭洗い弁天の祠のようなところだと思う」 そう言うと仁は大きなあくびをして、「悪い、眠たくってだめだ」と言うとそのままパソコンの脇のベッドに滑り込んで寝てしまった。三人はやれやれという顏をしたが、ひとまず仁が正常に戻ったことで安堵しながらこの後どうすべきか話し合った。悟志はこのまま仁の容体をみることにした。陵は銅鏡を軽トラックに載せ樹恩寺に返してくると言ったが悟志が仁が完全に回復するまで、念のためここに置いておいて欲しいと言った。 翌日、セナと陵は鎌倉研究会の部室ですっかり普段通りとなった仁と会った。仁はこの二日間パソコンの前に座ったまま見たものの話をした。 それは今回の催眠状態に入る直前に見ていた魔境の伝説の続きのような話であった。 ――――――その時代は十四世紀の鎌倉時代と感じられた。場所は日本の南の島であろうと思われた。自分はそこで、三浦悠馬と言う武者になり、三郎太という従者とともに海岸から何かを確かめに夜の海に小舟を漕ぎだす。沖合に漕ぎ出して暫くすると、小舟の周りを泳ぎ回る大きな生き物がいて、自分たちは恐れおののくが暫くしてそれが大きなイルカのようなものであることがわかる。 やがて、イルカが小舟を背中に乗せて沖まで来ると、静かな夜の海に突如大嵐が起こる。激しい雨の中で、大きな風と波に小舟は翻弄され、櫓を漕いでいた三郎太は嵐の海に振り落とされる。自分は何度も三郎太の名前を呼ぶが暗い海に三郎太を見失ってしまう。そして生臭い風とともに暗い海から、人間の姿をして僧侶のような衣を纏った大きな魔物が現れる。その魔物は爛々と光る赤い目と耳まで裂けた口で、悠馬に手を伸ばして襲いかかる。悠馬は小舟に持ち込んでいた布の袋に手を伸ばした。それには魔除けの青い光を放つ銅製の手鏡が入っていたのだが、船が揺れたはずみに海に落としてしまう。 悠馬は魔物にわしづかみにされ空中に持ち上げられた後、海に落ちていく。そして気を失い気がついた時には対馬の海岸にいた。――――――  仁がそこまで話すと「RPGの話のようね」とセナが言った。 「そうなのだよ。そして最後に海岸を歩いているとふと横を見ると海の上でゆらゆらとろ光が揺れているのが見えた。まるで蝋燭のようだった。そしてそれをみているうちに、視界がぼやけてきて、気がつくと自分の部屋にいた」 稜が聞いた。 「それは、仁のどちら側だった?」 「右側かな」と仁が答えた。 「やっぱりな。それは俺が点けた蝋燭だよ」 「そうか。ありがとな」 「例には及ばん。冒険騎士団の誓いだからな」 仁が、セナのほうを横の目で見ながら、唇に人差し指をあてて陵に黙るようにという仕草をした。セナはその様子を見て言った。 「あなたたち、幼なじみで仲が良いのは分かるのだけど、何か変なのよね。何か隠していない」 「いやなにも」と仁が言った。 「もう、ここまできたのだからセナに秘密にしなくてもいいんじゃないか」と陵が言うと セナが「なによそれ、秘密って」と言った。仁は腕を組んで、首を少しかしげて言った。 「本当はだめなのだろうけど、何かずいぶんもう稜が喋っちゃてるし、ここで言わないと人間関係が悪くなるかな」 稜が仁らしい言い方だなと言ってにやりと笑った。仁は稜とセナの方を見てから、稜に目配せして言った。 「じゃ、稜話してくれよ」 稜は子供のように嬉しそうな表情になって話はじめた。 「では、どこから話すか。そう、まず俺たちの関係だが、俺と仁はずっと昔から家族ぐるみのつきあいだ」 「へえ、そうなのいつ頃から」とセナが聞いた。 「俺と仁は赤ん坊の頃だから、二十年くらいか」と稜が言うと仁が横から口を挟んだ。 「いや、僕と稜はそうだが、家族同士のつきあいはそんなものじゃないだろう」 セナが口を挟んだ。 「二人とも地元出身だから、ひょっとして鎌倉時代からだったりして」 それを聞くと仁と稜は真顔になって、顔を見合わせた。ややあって、仁が「実はその通りなのだ」と言った。セナがこれは何なのという顔になった。仁が稜とセナに向かって言った。 「僕が説明するよ。ちょっと長くなるが」 仁のまじめな様子に二人はすこし神妙な顔になった。仁はなんで稜までがセナと同じような顔つきをするのかと思ったが話し始めた。 「もともと僕たちの家族、稜の南家と僕の方の北家、そしてセナは何も聞かされていないようだからびっくりするかも知れないが、セナの篠原家は長年に亘って関係がある。それはさっき言ったとおり、鎌倉時代の十四世紀から続くものなのだ」  仁は一旦話を止めると、大きく息を吸って再び話を始めた。 「もっとも当時は篠原家の名前は違っていて三浦だった。三つの家とも鎌倉幕府の御家人の家系だった。元寇があった時代に我々の先祖は、その時の幕府の執権、北条時宗の命を受けて、わずかの間に世界征服を成し遂げたモンゴル軍の強さの秘密を探りにモンゴル軍が上陸した対馬へ旅した。そこでモンゴル軍が用いた恐ろしい魔法のような方法を知ったらしい。それは大変危険な方法であるので、我々の先祖はそれを封印してしまい、その秘密を知っている三家族は、その家族の中だけでその秘密を語り継ぎ、いつの世にかその秘密を悪用しようとする者が現れた時には、三家族で力を合わせてそれを防ぐことを掟としたのだ。三つの家族の中では三浦家が鎌倉時代の得宗家の北条氏に近い血筋であったため、リーダー的立場を担うことになり、北家、南家は三浦家を守ることになった」 ここまでの話を陵はうんうんと頷きながら、セナはポカンとした顏で聞いていた。 「つまり、仁と俺はセナを守るのさ」と稜が言った。 それを聞いて仁は言った。 「正確には、それぞれの家族が全員これに関わる訳ではなく、家族の中でこの魔法の秘密を受け継いだものが、その秘密を守るために助け合うということなのだ。基本的にはその家の長子のみが、事情を明かされ秘密を引き継ぐ、唯、事情があれば、家族の中で長子以外の者や複数の人間が引き継ぐこともある。セナのお父さんの雄二さんの場合は、長男だけどこの役を引き受けずおじいさんの廣元さんからミカさんに直接引き継ぐことになったし、僕の場合も兄の悟志は何か理由があって二十歳過ぎた頃、この役目は引き受けないと言い出したので、将来は僕がこの役目を引き継ぐことにしたのだ」 陵が我慢できず口を挟んだ。 「うちの家では子供は俺だけだから、子供のころからこの話を聞かされていた」 それを聞いて仁が言った。 「僕は家では何も聞かされていなかったけど、陵が子供の頃、今よりもっとおしゃべりで、親から聞いたことを何でも喋ったので僕は結構知っていたのだ」 今度は、じっと説明を聞いていたセナが口を開いた。 「私は何も知らなかった。そもそも、今の話もそんなにすぐに理解できた訳じゃないけど、すごく気になることが一つある」 陵が言った。 「なんなりと聞いてくれ、お姫様」 セナは陵をきっとして睨んだが、すぐに元の顏に戻って言った。 「その鎌倉時代から、うちと仁のところと陵のところで秘密に守ってきたものって何なの?ミカちゃんの言っていた幻視をおこさせる方法のことなの?」 陵が応えて言った。 「ああ、じゃその答えは仁から」 「何?稜知らないの」 「いや、この部分は正確を期した方が良いと思って」 仁が少しに笑って説明し始めた。 「それは、ミカさんが説明していたウリグシクの赤い根の植物と例の銅鏡を使うのだが、一族の中で秘密として守ってきたのは、望をかなえる魔物を出現させる魔法なのだ」 「なんかアラジンと魔法のランプみたいね」とセナが言った。 「そうだね。でもこの場合、何かを破壊したいという負の望をかなえる魔物ということらしい。但、ミカさんは魔物の出現には懐疑的と聞いたことがある」 と仁が言うと「へーそうなの。でも、らしいってどういうこと。仁も詳しくは知らないの」 「この言い伝えの内容の詳細は、原則三つの家のその時代の長氏一人が受け継ぐことになっている。今はセナのおじいさん樹恩寺の廣元さんがその人だ。書き物でも残っているけど、それは鎌倉時代に石碑に掘られた隷書をき写したもので、そう簡単には読めない」 仁はセナと稜を見て一息入れ、そして続けた。 「実際に魔物を出現させるために必要なものがあって、その一つが例の銅鏡だ」 「あの銅鏡?」セナが訪ねた。稜がうなずいて言った。 「元寇の時に、日本に持ち込まれたもので僕も見たことはなかったけど、稜達が樹恩寺から持ってきてくれたたあれだよ」  仁は陵の方を見て言った。 「そう言えば、あれ稜が戻してくれるんだよな 「ああ、家の軽トラが空いたら仁のところに取りに行くよ」 「頼んだよ。……それでもう一つ必要なものがあるらしい。それは中央アジア・ウリグシクの高原のある場所にだけ生える赤い根の植物から作る。もちろん、今日本にはない。そしてこの鏡とか草の根の薬とかは似たものを使ってもうまくいかないようなのだ」 中央アジアのウリグシクという地名が最近よく出てくるなと思った。ミカが結婚してウリグシクに行くと言う話を聞いたときには、何でまたそんなところにと思ったが、この鎌倉に住む一族と関係の深いところなのだと考えを改めた。 セナが少し考えてから言った。 「もう一つ分からないことがある。どうして、私たち三つの家族だけで何百年も、その秘密を隠し守らなければいけないのかしら。そんな不可解で重大な秘密をわずか数人で守って行く義務を背負わされるなんて理解できない」 「確かに、セナがそう考えるのも無理はないと思う」 と仁が言った。 「僕もそう思う。しかしこれを代々継承し守ってきたのは、それぞれの家族のその世代で一人だけだ。その家族の長子であってもこれに関わることを拒むことも出来る。強制されるようなことはない。だから三家族の中から誰も受け継がなかったら、そこでその秘密の魔法も永遠に葬り去られてしまうこともあり得る」 「でも、その魔法の秘密を守ってきた事に意味があったのかしら」とセナが尋ねた。 「それがあるようなのだ。実際に過去この秘密を受け継いだ者は命を掛けてそれが悪用されることを防ぎ、他に秘密が漏れないようにしてきたのだ。きっと自然にそうせざるを得なかったのだと思う」 こんどは陵が仁に聞いた。 「俺が聞くのも変だけど、この秘密の魔法が悪用されたことってあるのかな」 「それは何度もあるらしい、元寇の時代から今まで百年に一回くらい、何故かこの秘密を嗅ぎ付け盗み出そうとしたり、試みようとしたりする者が現れたらしい。いずれも我々の先祖が立ち向かって事を収めたようなのだ」 陵が急におどけて言った。 「まるで特撮のスーパーヒーローだな」 仁がにこりともせずクールに続けた。 「そしてこの時代になってからは、国際的にそしてコンピューターの技術を駆使して秘密を盗み取ろうと言う輩が現れた。ミカさんも廣元さんから話を聞いて、いつしか秘密を受け継ぎし者として使命感を持って行動しているのだと思う」 セナはまだ納得できていないという表情で言った。 「一応、分かった。まだ分からないことがあると思う。また教えて」 「でも、これ以上は廣元さんに聞いた方が良いと思うよ。僕もこれ以上は知らないし。陵もでしょ」と仁が言うと、陵はまじめな顔をつくって言った。 「いやいや、何を隠そうこの南陵も色々知ってるぞ。セナが小さいときのこととか」 「関係ないでしょ」とセナは言って、二人を交互に見て「でも、まあこれからもよろしくね。いろいろと」と付け加えた。仁と陵が同時に首を縦に振った。 その時、仁の上着から携帯の着信音が聞こえた。仁が携帯を取り出すと、「あれ、兄貴からだ」と言って、携帯を耳に当てたが、すぐに「切れちゃった。何だろ。電話なんてめずらしいな」と言って携帯のボタンを押してもう一度耳にあてたが「呼んでるけど、出ないな」と言うと陵に「じゃあ、あとで軽トラたのむな」と言うと立ち上がると、軽く手を挙げ「じゃあ、帰る」と言って鎌倉研究会の部室を出て行った。  一時間後に陵とセナが陵の運転する軽トラで仁の家に着いた。呼び鈴を押すと、顔を青くした仁が現れて言った。 「兄貴の様子が変だ。幻視の世界に行ってしまったようだ。銅鏡も誰かが持って行ったみたいだ」    その夜、樹恩寺の廣元のもとにセナと仁と陵が集まった。この前とは違って、今回は樹恩寺の境内にある廣元の住む庫裡に案内された。そこはごく普通の住居であった。廣元が鎌倉や横浜のアンティーク・ショップや古道具屋をこまめに歩いて探してきた調度品が置かれた部屋はそれなりに品のある雰囲気であった。 一人住まいの廣元は居間にテーブルとソファー、そして大きな執務用のデスクを置き、その脇にデスクトップのパソコンを置いていた。壁の本棚には、仏教をはじめ宗教関係の本や歴史関係の本がびっしりと置かれていた。そして、セナが驚いたのはそれらの本に混じってプログラミング関連の本があったことだ。そう言えばとセナは思い出した。廣元は樹恩寺の住職になる前には東京でシステムエンジニアをやっていた。警察や宗教法人関係の仕事をしていたと聞いたことがある。 僧衣から私服に着替えた廣元を囲む形で、ソファーにセナ、仁、陵が座り、樹恩寺から移動させた銅鏡が盗まれたこと、そして悟志が、仁が陥った状態と全く同じような状態になり意識が現実に戻らなくなってしまったことを話した。 廣元は三人の説明を黙って聞いていた。話を終えると仁が言った。 「銅鏡を持ち去ったのはコンバイの者でしょうか」 廣元は三人の顔を見渡して言った。 「私もそんなところだと思う。まずは落ち着いて我々の置かれた状況と取るべき行動を考えてみよう。そこで皆で知っていることを重ね合わせてみよう、これは私がコンピューターシステムの開発をやっていたころ、教わったメソードなのだが。だが、その前に少し腹ごしらえと行こうか。腹が減っては、頭が働かないからな」 そういうと廣元はキッチンに行き、大皿に盛ったおにぎりやお茶が入っているポットと茶碗を持って来た。廣元が「なんせ寺だから、植物性のものしかないがな。遠慮せず食べてくれ」と言うと大学生たちは「いただきます」と言っておにぎりを食べ始めた。 「さっき陵の腹の虫が鳴いていたようなのでな」と言うと廣元はデスクの脇のパソコンのディスプレイを皆の見える位置に動かし、おにぎりを一つ口にほおばりながら、パソコンのキーボードを膝に置いて操作し始めた。 「これはホワイトボードの代わりだ、皆の意見を忘れないように書き留めておくよ」廣元はそう言うと今度はお茶を一口すすった。 「始める前に二つだけルールを言っておく。各自自分の思っていることを脚色せず素直に言う事。そして他の人が言ったことを決して否定しないこと。では始めよう。まず、銅鏡は何故仁の部屋からなくなったかだ」 「僕の部屋からではないと思います。兄が樹恩寺に戻す前に見せてくれと言って、自分の部屋に持っていきましたから」 廣元はキーボードに打ち込みディスプレイに「悟志は銅鏡に興味を示す」「銅鏡は悟志の部屋から持ち去られる?」と表示された。 「誰が持ち去ったか」と廣元が言った。 「コンバイでしょ」とセナが言った 「仁の家にコンバイの誰かが押し入って銅鏡を持ち去ったのか。でも仁の家には家族の人がいるでしょ。気が付かなかったのかな」と陵。 「確かに、母はいたし、そんな強盗が押し入ったような形跡はなかった」と仁。 「となると、悟志が持ち出した?」と廣元。 仁は少し考えてから、冷静な様子で言った。 「家の外に持ち出したのは兄です。理由はわかりませんが」 廣元がキーボードをたたくと、ディスプレイに「銅鏡は悟志が持ち出した(理由は?)」と映し出された。セナがその画面を見て言った。 「関係ないかも知れないけど、私、気になることがあって。何故、ミカちゃんは手紙で、北先生と相談するように言ってきたかがよく分からないのです」 全員がセナの方をじっと見た。セナは続けた。 「この前、仁からの私たち一族の話を聞いて、おじいちゃんがこの件のリーダーだと知って思ったのですが、それであれば、なぜ直接おじいちゃんのところに相談に行くようにと言わなかったのかと思うんです。確かに昔は北先生とミカちゃんは行動を共にしていたようですけど、ここ何年もこのことでコンタクトはとっていないようだし」 少し間を置いて陵が行った。 「確かに。なんか変だな。ひょっとすると、これは悟志さんが銅鏡を手に入れるための誰かの工作じゃないのか」 「工作?兄貴が誰かと共謀して鏡を手に入れようとしたということ?」仁が少し怒ったような顔をした。 廣元が言った。 「仁、ルールを思い出してくれ。決して人の発言を否定しないで欲しい」 仁は冷静さを保とうとするように言った。 「わかりました。確かに、僕もその点が気になっていたんです。子供の頃はともかくも、最近は兄もすっかり大学の講師業に身を入れているようで、この関係の話はしていなかったのに、急にミカさんが兄の名前を出したのは唐突のように思えます」 「あの手紙は、ミカちゃんが書いたものではないのかも」とセナが言った。セナは持って来たブリーフケースの中からミカの手紙を取り出して、目を凝らして眺めて、「何となく違和感がある」と言った。 「誰が書いたのだろう」と仁。 「その手紙を送って来たワンっていう人じゃないか」と陵 「なるほど、ワン教授が悟志に銅鏡の在りかを知らせようとして、偽の手紙をセナに送ったということが考えられるかな」と廣元。 「理由は?」と陵が言うと、「良く分からない」と廣元。しばらくして仁が言った「そのことはあり得るけど、理由は思い当たらないです」 廣元は続けて言った。「そうすると理由は良く分からないがワン教授が関わっていて、ミカの失踪についても知っている可能性がある」そういうと廣元はその文面をディスプレイに映し出した。 「次に、悟志が夢遊病状態になっていることについてだ。この状態をどう解決するかだ」と廣元が言うと、陵が「悟志さんの状態は仁の陥った事態と同じと見えた」と言うと仁が頷いた。 「僕もそう思う。兄も僕の見ていたパソコンの前で夢遊病者のようになっていた。パソコンのディスプレイにはコンバイの『魔境の伝説』が映し出されていた」 セナが「ということはそこからの脱出方法も同じね」と言うと「銅鏡の青い方の光をあてた……だね」と仁が受けた。 「そして銅鏡はどこかに持ち去られた」と稜が言って、お手上げという表情をした。そこで廣元が言った。 「そもそも、なぜ我々はこの樹恩寺の銅鏡を使ったかだが」 「おじいちゃん、忘れちゃったの。ミカちゃんの手紙にそういう指示があったからよ」 「では、この悟志の場合もミカに聞くしかないのではないか」と廣元が言うと、セナが「それじゃあ、また振り出しに戻ったということ?ミカちゃんは行方不明なのに」と返した。仁が言った。 「いや、ミカさんとユースフさんの行方を知っている人物がいる。もう皆、うすうす考えていると思うけど、最初のミカさんの手紙を送ってきたワン教授だ」 廣元、セナと稜が頷いた。仁が続けた。 「セナが、違和感があると思ったミカさんの手紙が、改ざんされたものか偽造されたものだったからではないかな。あの手紙によって銅鏡が兄貴のところに届けられることになった。そのことを画策したのはワン教授その人だと考えるのが妥当じゃないかな。それで、そんな手の込んだことが出来たのは、ワン教授の近くにミカさんとユースフ氏がいるからじゃないのかな。決めつけはできないけど」そう言うと仁は全員の顏を見回した。 「そう言えば、北先生は昔、学生の頃ミカちゃんとウリグシク大学でワン教授と会っていると聞いたことがあるわ」 皆、しばらく考え込んでいたが、やがて廣元が言った。 「それでは、次はワン教授と会って、ミカとユースフ氏の奪回と行こう」 その夜は、その後その奪回についてしばし作戦を話し合い、学生たちは家に帰ることにした。帰り際、「それにしても、なぜ北先生は幻視の世界に入って言ったのだろう」とぽつりと陵が呟いた
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