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中央アジアにて
中央アジア・ウリグシクの首都クシの国際空港に、格安航空会社の飛行機を乗り継ぎ、日本から三人の男女の若者がたどり着いた。時刻はウリグシクの時間で午後二時である。三人は篠原セナと北仁、南陵である。三人はそれぞれ大型のスーツケースをカートに載せて空港の到着ロビーを歩いていた。
彼らは時折言葉を交わしながら、空港出口に向かっていた。チェックの綿シャツにジーンズというラフなスタイルの陵は変哲のない空港ビル内部をきょろきょろと好奇心たっぷりに見渡しながら荷物カートを押していた。篠原セナと北仁は就職活動にでも行くようなスーツ姿で生真面目な面持ちでやはり大きな荷物を積んだカートを押していた。
セナと陵は、空港の出口あたりで客待ちをしていた大型のタクシーに日本から運んできたスーツケースを積み込んで出発した。行き先は空港から車で三十分ほどのところにあるウリグシク国立大学である。北仁は小さな手荷物だけを持ち、そのままクシの中心街に向かう空港バスに乗り込んだ。
国立ウリグシク大学はクシの郊外の高台に広大なキャンパスを持つ総合大学であり、人文系の学部、理化学系の学部を網羅している。そしてキャンパスに隣接して付属の総合病院もある。
篠原ミカと夫のユースフが所属している史学科研究室は何棟も並ぶ校舎群の一番端にある。理化学部のワン教授の研究室も同じ建物に入っている。
セナと陵は空港から乗ったタクシーでキャンパス内をぐるぐると走った後にやっとワン教授の研究室の入っている建物に辿り着くことが出来た。陵はこぢんまりとした鎌倉大学と比べて「でっかいな」と驚嘆を隠せないでいた。セナと陵は校舎の入り口でタクシーから降りた。セナは陵に「じゃあここにいて」と短く言うと、荷物を一つだけ持って建物の中に入って行った。稜は再びタクシーに乗り込んだ。
ウリグシク大学の校舎は何の変哲もないコンクリートの建物であったが、中に入って見ると大分年期が入っており、コンクリートの壁にところどころひび割れがあった。セナが入った建物は研究室のみが入っている研究棟で中に入ると廊下を挟んで木製のドアが廊下の向こうまで並んでいるのが見える。木製のドアには番号と研究室の責任者の名札が貼り付けてある。ドアにはガラス製の小窓が付いていて各研究室の中が見えるようになっている。
セナは長い廊下の真ん中ほどまで来て、そこにWAN HAO RANと名札が出ている部屋を見つけた。ドアの窓から中を覗くと白衣を着た東洋系で小柄な小太りの男性が一人で部屋の中央に置かれたテーブルでタブレット端末を操作しているのが見えた。セナは一目でそれがワン教授であると確信した。
セナがドアをノックすると「お入りください」という声が聞こえた。セナが中に入ると、白衣の男がタブレット端末を操作した。「私はワン教授です」とタブレットから声が出た。「この前、メールを送ってくれたミカさんの妹のセナさんですね。始めまして。通訳装置を使いますが、あなたはいつものように日本語で話してください」とタブレットの声が続けた。
「初めまして。私はミカの妹のセナです」セナもつられて、機械に合わせるようにぎこちない話し方で言った。ワン教授は母国語の中国語がタブレットに表示されるようで、一瞬それを読んでから、タブレットを叩いた。
「よくいらっしゃいました。失礼ですがミカさんとはあまり似ていないようですが」とタブレットの音声が流れた。セナは答えた。
「そうなのです。姉妹ですけど姉とは血が繋がっていないので」
「そうなのですか。よけいなことを聞きました。ところでご用は何でしょう」
「ワン教授から姉の手紙をいただいた後に、姉から手紙が来ました」
ワン教授は一瞬驚いた表情を見せたがすぐに、もとの真顔に戻って言った。
「そんなはずは……いやそれはどんなものだったのですか」
「今、ミカとユースフ教授で進めている研究に鎌倉のお寺に保管してある古文書が必要なので、ぜひウリグシクに持って来て欲しいと書いてありました。ミカの居る場所はワン教授がご存じなので、ワン教授に相談して欲しいと書いてありました」
ワン教授は一瞬考え込んでいたが、すぐにタブレットに入力した。
「残念ながら、私はミカさんの居所は知りません。コンタクトもないです。一度ユースフ教授の研究室を片付けた時に出てきたものをご家族宛に送りはしましたが」
セナはがっかりしたように言った。
「そうなのですか。ミカに頼まれた荷物も持って来たのですが。これがあればミカとユースフの研究も格段に進むと書いてありました」
ワンはまた少し考えこむ表情をしたが、また無言でタブレットを叩いた。
「そうですか。しかし私は彼らの居る場所を知らないのです。でも将来、ミカさんからコンタクトが有ったら、その資料を渡せるように預かりましょうか」
セナは顔をほころばせて言った
「そうしていただけたら大変ありがたいです。どうもありがとうございます。ここに一部コピーを持ってきました。これを預かってください」
タブレットから「承知しました」という声が聞こえた。セナは立ち上がるとワンに一礼をして言った。
「ありがとうございました。それでは私はこれで帰ります。ワン教授、またいつかお会いしましょう」
タブレットからも「また会いましょう」と声がした。セナは部屋から、気落ちした様子で出て行った。
二十分後、ワン教授は校舎から出て、校舎の脇の駐車スペースに停めてあった古い乗用車に乗り込むとキャンパスを後にした。セナは稜の待っていたタクシーに外から見られないように身を隠していたが、ワンの車が出て行くのを見届けると身体を起こし、ショルダーバックから小型のノートパソコンを取り出して、操作をすると稜に言った。
「うまく行ったわ。ワン教授は私の渡した資料を持って移動中よ。資料につけたクリップの発信器が作動している。それではこちらも出発しましょう」
セナがそう言うと、すっかりタクシーの運転手と仲良くなっている稜が、セナから受け取ったパソコンの地図画面を運転手に見せて、指で示しながら、一言二言片言の英語を言うと、
運転手はにやっと笑い、指を立てる仕草でOKと言うとタクシーを猛然と走らせ始めた。
ワン教授は大学からクシ市のクシ中心部のほうへ走り、ダウンタウンに入って行った。そしてその辺りでも中国出身者が多く住んでいる地区に到着し、一階が中華レストランとなっているビルの前で車を停めた。スラブ系の白人が多いここウリグシクでもこの地区はアジア系住民が多いため、中国人や日本人などアジア系の容姿であっても目立つことはない。この辺りをワン教授やミカが歩いていても見咎められることはあまりない。アジア人が身を隠す、もしくは閉じ込めておく場所としてはこの上無いのかも知れない。
ワン教授は入り口からレストランに入りそのまま中を通り過ぎて、建物の奥のエレベーターを使い地下まで降りた。エレベーターを降りるとすぐ前にある扉の前に立った。ドアの横の呼び鈴を三回押し、中から声がないことを確認すると言った。
「ワンです。開けてください」
ややあって、鉄製のドアが開いた。そこにはスラブ系の背の高い男性と東洋系の女性がいた。部屋は白い壁の広い部屋で二つのデスク、テーブルが置いてあり、部屋の奥には寝室と小さなキッチンがあった。ワンが口を開いた。
「ユースフ、ミカ、変わりは無かったかな」
ユースフと呼ばれた中年の学者然とした男が返事をした。
「こちらは何もないよ。ワン。しかし外出が出来ないと研究も進まないよ」
ミカも頷いた。ワンは少し疑うような顔をして聞いた。
「こちらから外部にコンタクトするようなことはしていないですね」
「もちろん、あなたがそう言うから、この数か月の間、外とは一切連絡を取っていないわよ。本当は研究を続けるには、少し欲しい資料が日本にあるのだけど」
ミカは少し不満げに答えた。ワンが言った
「そうですか。それを聞いて安心しましたが、また急いで引っ越しする必要がありそうなのです。組織Xがこの場所を嗅ぎ付けたようなのです」
ミカがうんざりしたような顔になって言った。
「またですか。ワン教授」
「申し訳ないのですが、今すぐにでも移動する必要がありそうなのです。今にも組織Xの奴らがここに来るかもしれません」
ユースフが言った
「今すぐ?」
ワンが答えた
「今すぐです。先ほども私に組織Xからコンタクトがあって、お二人の行く先をしつこく聞かれたのです。ここの場所を嗅ぎ付けられるのも時間の問題だと思います」
その時、入口のドアをノックする音が聞こえた。三人は黙ったまま、お互いに顔を見合わせた。やがてドアの外から声が聞こえた。
「お届け物です」
その声に対応しようとしたミカを手で制して、ワンが「隠れていてください。私が出ます」と言うとドアを開けると、サングラスにシャツ姿の男が「ワン・ハオ・ランさんにお届けものです。どこにおきましょうか」と言って、自分の後ろに置いた大きなトランク二つを指さした。「誰からだ」とワン教授が言うと、男が手に持った紙を持ち上げて、目を近づけて読んだ。「セナ・シノハラ」
それを聞くと、ミカが「妹からだわ」と言うと、男に向かって「部屋の中に入れてちょうだい」と言った。男は重そうに一つずつ、トランクを押して部屋の中に入れ、一礼して出て行った。ワンの目に大きい方のトランク端から布がはみ出ているのが見えた。ワンは顔を引きつらせて、ユースフとミカに「さあ、急いでここを出なくては。急いで」というと二人の身体を押して、部屋を出るように促した。ユースフは言った。
「ちょっと待ってくれ、せめて研究の資料を持っていかないと」
「それは後で私が持っていくから、取り敢えずここを出てくれ。頼むから」
必死の形相のワンに押されて、ユースフとミカは部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ。三人は準備中の中華レストランの中を抜け表に出ると、ドアの脇に停めてあったワンの車に乗ってそこを後にした。
ワンの車が出て行くのを物陰から見ていたセナと先ほどのサングラスの男は中華レストランに飛び込むと、驚いた店の人間が「準備中ですよ」と言うのにも目をくれず、店の中を通り抜け、建物奥のエレベーターに飛び乗って地下の部屋に急いだ。先ほどまでワンとユースフ夫妻が居た部屋にぽつんと置かれた大型トランクを見ると、セナはポケットからトランクの鍵を取り出し、鍵穴に差し込むとそれをひねった。トランクのふたが勢いよく開くと中から陵が飛び出した。
「これはきつすぎる。死ぬかと思ったよ」と陵が言うと、セナが「ちょっと待って」と言って、携帯で「陵を確保。仁、この後よろしくね」と一言言うと、トランクの横でへたっている陵に「お疲れさま」と言った。
空港からセナと陵を乗せて来たタクシーの運転手がサングラスを取って、セナに向かって言った。「それじゃ、タクシー料金だけでいいよ」セナはポケットから百ドル札を出すと「今日は、ありがとう」と言ってそれを渡した。タクシー運転手はセナと陵を見て「スパイ映画みたいで楽しかったよ」と言うとエレベーターに乗って出て行った。
セナが陵に向かって言った。
「今、仁が警察の人と三人の後を追っているわ」
陵がそれを聞いて言った
「それは良かった。トロイの木馬作戦が失敗した時にはどうなるかとおもったけどね。でもどうしてワン教授はトランクを置いて逃げてしまったのだろ」
「あのね陵、その今着ているシャツの端がトランクからはみ出ていたわよ」
それから一時間後に、ワン教授はその居場所の通報を受けた地元の警察に、ウリグシク大学教授ユースフ・アリシェロフ氏とその妻ミカの拉致、監禁の容疑で逮捕された。警察での事情聴取の後、ユースフとセナはその日のうちに自宅に戻された。ミカは警察から連絡を受けて、稜と仁とともに急いでやって来たセナと再会を果たした。
ミカはセナと仁、陵に、夫妻の五カ月に亘る失踪事件について一部始終を話した。それによると、五か月前に突如、ユースフとミカは理化学部のワン教授に、彼が隠れ家を準備するので身を隠すようにと言われた。ワンは、大学の仕事以外
に自身がコンバイのエージェントとして、魔境の伝説に使う謎解きのネタを提供していたが、彼がコンバイから得た情報によるとでは、コンバイとその背後にある国際的な武器密売組織Xが二人を誘拐しようとしているらしいと言うのだ。理由はユースフ夫妻の研究、人に幻視を見させそれを現実世界にも出現させるという古代の魔法の研究を完成させ、それを盗もうという意図だという。
ユースフ夫妻は半信半疑であったが、ユースフの十年来の友人であるワン教授が、真剣に身を潜めるように懇願するので、その言葉に従うことにした。
この五カ月に二か所。居場所を変えた。その度にワン教授は組織Xに嗅ぎ付けられたらしいと言った。最後は、ワン教授の実家で営む中華レストランの地下室に二週間前に移った。
警察に捕られたワン教授の説明では、コンバイから大きな金額の資金提供を受けていた彼はユースフ夫妻の研究を盗み出すよう半ば脅され、それを実行出来ないことをコンバイに対してごまかすため、ユースフとミカの失踪を演出したものとのことであった。
世界警察機構は世界各地で起こっているコンバイの魔境の伝説による夢遊病者や廃人の出現に関わりあるとしてワン教授をマークしていたが、日本からのある情報でワン教授が魔境の伝説に因縁のある大学教授夫妻を誘拐したことを突き止めた。世界警察が地元の警察と連携して、ワン教授の逮捕に至った。この逮捕にあたっては、日本から来た北仁が情報提供者として協力した。
ワンの説明によれば、現在コンバイが組織Xの意向を受けて、独自に開発を進めているのは、ディスプレイからユーザーに幻視を起こさせる光を発生させるためのプログラムである。それはまさにユースフ達が研究しているウリグシクの伝承に登場する幻視を起こさせる銅鏡の光なのだ。
コンバイはこの光の成分を分析するためにこの伝承にある銅鏡をことごとくウリグシクの博物館や研究組織から持ち去っていた。そして最近オンライン・ゲームのユーザーを利用して、幻視を起こさせる実証実験を始めた。この実験は今のところすべて失敗しており、被験者にされたプレーヤー達は幻視を見たまま、現実世界に戻れなくなっている。
コンバイは分析を深めるために手に入る限り銅鏡を手に入れようとした。その一つが元寇の際日本に渡り、鎌倉の樹恩寺に所蔵されていることを突き止めた。
コンバイはワンにからミカの大学時代の友人でコンバイへの協力を申し出た北悟志という人物にその銅鏡を手に入れさせ、それをコンバイに送るように仕向けることを命じた。ワンは北悟志がなぜコンバイに協力することになったのかは知らされていなかったが、自動翻訳プログラムとコンバイの開発した筆跡偽造ソフトを用いて、ミカの妹セナ宛てに北悟志にコンタクトするよう手紙を書いたということであった。
ワン教授逮捕の後、三人の日本の大学生たちはユースフとミカの住む家を訪れた。セナは仁、陵と共にミカとユースフの話を聞いた後、日本で起こった問題を説明した。そして仁の兄、北悟志がまさにコンバイの魔境の伝説の実証実験の餌食となったかのように幻視の世界に入ったまま帰らない状態にあることを話した。
ミカは悟志が現在、夢遊病で廃人のようになっていることに大きな衝撃をうけたようで、セナたちが悟志を救う方法がないかと相談するまでもなく、「何とかしなくては」と言うと考え込んでしまった。
ミカが何かを真剣に考え込むと、没頭して周りが何かを話しかけても聞こえなくなってしまうことをセナは知っているので、その晩は仁と陵とともに滞在先のホテルに帰ることにした。ユースフからはホテルを出てこちらに泊まるようにと申し出を受けたが、今日は大変な一日で旅の荷物も解いておらず、ともかくもホテルに戻って休息を取ることにした。
翌日、セナ達はミカから連絡を受け、ユースフとミカの勤め先であるウリグシク大学の史学科の研究室に出向いた。ミカから、一晩かけ北悟志を救い出す方法を見つけ出したという連絡を受けたのだ。ミカは研究室のテーブル越しにセナ、仁、陵に話始めた。ミカの夫のユースフもミカと並んで同席した。ミカは三人に言った。
「悟志君を何とか安全に救い出す方法は今のところこれしか思いつかないわ。そしてこれを実行するにはあなた達にかなりの覚悟がいることになるけど良い?」
三人は黙っていたが。ミカが重ねて聞いた。
「良い?」
「俺は何でもオッケーですよ」と陵が答えた。
「僕も大丈夫です」と仁が答えた。セナは二人の様子を見て、ミカに頷いた。それではと言ってミカが話始めた。
「まず、今、悟志君の状態はコンバイからゲームの画面を通じて送られた特殊な光線を無意識に見続けたために起こったと思われるの。この光線はコンバイが、ウリグシクの伝承にある銅鏡からを発せられる赤い光を彼らなりに分析して、合成したものだと思われます。ウリグシクの伝承では幻視を起こさせる薬を飲んだ後に、銅鏡にゆらゆら揺れる光を反射させ、それを見ることで本人も気が付かないうちに、幻視が始まるけど、コンバイの魔境の伝説の幻視は人を無理やり錯乱させるような脳に激しい疲労を与えるようなものと言われているわ」
経験者の仁がその通りとばかり大きく頷いた。ミカが続けた
「コンバイはターゲットとする魔境の伝説のプレーヤーにこの幻視を起こさせる光を浴びさせるので、悟志君は仁君をターゲットにしていた幻視光を浴びたのだと思う」
セナが言葉を挟んだ。
「北先生は何故、そんなことをしたのかな」
「全然、分からないわ。昔から彼は謎の行動が多かったのよ」とミカが言った。
仁が黙ったまま少しむっとした顔になったので、ミカは急いで続けた。
「ウリグシクの伝承では銅鏡を使って幻視を見ている人を現実に引き戻すには方法が二つあるのよ。一つは青い光を放つ銅鏡からの光を受けること。この場合も蝋燭などの光を反射させると良いと言われている」
「あっ、それは俺が仁を引き戻す時に俺がやった方法だ。家の言い伝えにあった方法さ」と陵が言った。
「そう、そのやり方であれば、コンバイが魔境の伝説で送った光で幻視状態に入った人も戻すことが出来るようなの。そしてもう一つの方法は、幻視状態に入ってから間もなければ、例えば三十分位以内であれば、鏡の光を遮断することで現実に戻すことが出来るのよ」
今度は仁が言った。
「それは、最初に僕が部屋で幻視に入った時に、兄貴が僕を呼び起こしてくれた方法だ」
ミカが続けた。
「でもその時間を過ぎると銅鏡の青い光を使った方法でないと現実にはもどらない。これが今の悟志君の状態ね。だから……」ミカはそこで言葉を飲んだ。
「今のところ、悟志君を現実に戻す方法はただ一つね。それは銅鏡の青い光を見せることなのだけど、このウリグシクにあった銅鏡はすべてコンバイが持ち去ってしまったの。そして日本で見つかって、樹恩寺にあった銅鏡も奪われてしまったようね。コンバイがワン教授に偽の手紙を書かせ、セナに送ったのも鎌倉に一つあった銅鏡を手に入れるためと考えられるわ」
せっぱつまった顏になって、仁がミカに尋ねた。
「それじゃあ、どうやって兄を助け出すと言うのですか」
ミカが答えた
「日本にはもう一つ銅鏡があるはずなのよ」
「え、それはどこに?」とセナが尋ねた。
「樹恩寺に保管されている鎌倉時代の文献では、元寇の際にモンゴル帝国軍がその銅鏡を軍船に積んで持って来たとあるわ。それは船に乗っていた戦士や、船乗りたちに幻視を見させて士気を鼓舞する目的があったようなの。それは最近私が手に入れた、元寇の際の出来事を記した古文書に書かれているのだけど、最初の元寇、文永の役の際に博多湾で座礁したモンゴルの軍船から銅鏡二組が日本の武士により持ち去られ、一つは鎌倉にもう一つは対馬に持って行かれたとあるの。鎌倉に運ばれたものが樹恩寺にあったものね。そしてもう一つが対馬のどこかにあるはず」
「対馬?でもそれは島のどこにあるか手掛かりがあるの?」とセナが尋ねた。
「それは表立った記録にはどこにもないのよ」とミカが言った
「それじゃ、どうやって?」とセナが聞き返した。
「仁に夢の中に見に行ってもらおうと思うの」とミカが言った
「どういうこと?」セナがもう一度聞き返した。
そこまで黙って聞いていたユースフの方を見た。ユースフはうなずくと研究室の奥からホワイトボードを運んできた。
ミカが言った
「このアイデアは私とユースフが相談しながら作ったの。ここから彼に説明してもらうわね」
そういうとミカはユースフの方を見た。ユースフはホワイトボードを使って、時々ミカの助けを得ながら、日本語で説明した。
「まず、この計画の前提条件になっているのはミカと仁と稜が共通の言い伝えを記憶しているということだ。仁と稜の家では代々後を継ぐ子供に鎌倉時代に起きたある事件を物語りとして伝えていると思う。またその事件をきっかけに仁の北家、稜の南家がミカやセナの三浦家を守ることになったと言われている。ミカあっているよね」
セナが口を挟んだ。
「うちは篠原ではなく三浦家だったのね。前に仁から聞いた」
ミカがユースフとセナを交互に見て言った。
「あっているわ。ユースフ。セナ、その通り、篠原家は江戸時代の始めくらいまでは三浦という性だったのよ。その時代にも何か事件があって改姓したらしいのよ」
「ふーん。そうなの?」とセナが言うとユースフが続けた
「その三家に伝わる物語の中に、樹恩寺にあった銅鏡とは別の銅鏡の在りかが示されているらしい。もし仁か稜がそのことを覚えているのであれば、我々はそこに出掛けて銅鏡を見つけ出せば良い。残念ながらミカはそれを覚えていないと言う。どうだい、君たちのどちらかでも覚えているかい。仁、稜」
稜が頭を掻きながら言った。
「家に残る言い伝えっての言うのは、あの悠馬と三郎太の話かな、仁」
仁が稜を見て言った。
「ああ、あの話だな」
ミカが話に加わった・
「鎌倉時代、北条時宗の家来の三浦悠馬と三郎太が鎌倉から京都を経て博多、それから海を渡って対馬まで旅をする話ね」
セナが口を尖らせて言った。
「その話は全然聞いたことがない」
ミカはセナに言った。
「私は樹恩寺のおじいちゃんから聞いたわ。多分、パパも知っていると思うけど、この話を受け継ぐことを拒否したので、私がおじいちゃんから直接受け継いだの」
陵が「しかし、あの話に銅鏡の有りかなんて出てきたっけ」と言うと仁も「微妙だな」と答えた。ミカが言った。
「あの話の最後は、対馬で終わるのよ。銅鏡も話の最後のほうに出てきて対馬で失われる。だから、そこから推理すると、少なくとも一つの銅鏡は対馬にありそうなの」
仁と陵が頷いた。ミカ達の会話をじっと聞いていたユースフがホワイトボードに「物語」と書いてそこから矢印を伸ばして「対馬のどこかに銅鏡」と書き、再び話始めた。
「そう、物語を知っている誰もが、何となく記憶しているけど、詳細は覚えていない」そう言うとユースフはホワイトボードの真ん中に「幻視」と書いて、そこから「対馬」のところまで矢印を引っ張った。
「仁は前にコンバイの魔境の伝説をやっていて、途中から幻視の世界に入って行った」
仁が頷いた。ユースフが仁にその時幻視で見たものを説明してもらえないかと言うと、仁が二度目の幻視で見たものを簡単に話した。それを聞いてユースフが言った。
「その時は、RPGのストーリーに入り込んだと思ったかも知れない。しかしその時もっと多くの幻を見ていると思う。それは仁や陵の家に伝わる悠馬と三郎太の話だと思われるのだ。
なぜそれが分かるのか言えば、あのRPGのストーリーをコンバイに提供したのはこの私だからだ。今、仁はRPGのストーリーよりも多くのことを詳細に話した。それは家に伝承されたお話を無意識にトレースしていたと考えられる」
仁は少し考え込んで「確かに」と言った。ユースフは続けた。
「そこで、仁と陵に魔境の伝説のオンライン・ゲームを使って幻視の世界に入り、対馬のどこに銅鏡が置かれたのか確認して来てもらいたい。時間はモニターのスイッチを切れば幻視から抜けられる三十分以内としよう。まず仁に自分のIDとパスワードで魔境伝説に入ってもらい、銅鏡のありかが見つからなければ陵に交替して探してもらう。それを繰り返して銅鏡が置いてある場所が分かれば、直ちに対馬にそれを取りに行き、悟志君を救い出す」
仁と陵はユースフとミカの方を見て、同時に分かりましたと言った。陵がおどけて「幻視の世界か。どんなところかな。ウリグシクよりも良い所かな」と言うと全員で噴き出してしまった。
三十分後、仁はユースフの研究室でパソコンのディスプレイの前に座っていた。仁の後ろにはセナと稜が座り、ミカとユースフはそれぞれ手にメモ用のボードを持って、仁を挟むように立っていた。仁は自分で膝に置いたキーボードを操作して魔境の伝説にアクセスし、IDとパスワードを打ち込んだ。現れた画面は前回、仁が幻視に落ち、セナや稜の手で現実世界に戻った直前のものであった。「慣れているわね」とミカが言うと仁はそれには答えず画面を睨んだまま少しにこりとした。三分ほどするとディスプレイの画面でゲームがスタートした。
静かにゲームの重低音を効かせたBGMが流れ始めた。画面は前回やったセッションと殆ど同じように思われた。ディスプレイの画面が赤っぽく光り始めた。
仁はディスプレイをじっと見つめた。ゲーム設定の画面がストーリーの場面を映した動画に変わっていた。映像は以前ゲーム上で見たことのある夜の海岸とその向こうに見える暗い海であった。そこに武士の姿をした若者の姿があった。画面は悠馬の目から見える景色に変わっていた。仁は次第にゲームの登場人物に自分の意識を重ね合わせて行った。
――――――目の前には、月の光で照らされた群青色の春の穏やかな海が横たわっていた。若い武士はしばらく海を正面に眺めていたが、やがて体の向きを変えて浜を歩き始めた。時折海の方を見ながら歩くと湾の端までたどり着いた。そこには夜の闇の中に陸揚げされている小舟が二艘見えた。
―――仁はここまでは前回やったゲームのシーンと同じだなと思った。しかしあの武士が自分なのだろうか。今一つ不安であったが意識は若い武士のものになっていった―――
若い武士は、少し大きい方の舟の後ろに回り、船尾を押したが、舟はびくともしなかった。それでならばと、今度は小さい方の舟の方に回って船尾を押した。こちらは、彼の力でも少し動いたので押し続けると、小舟は押し出されて前に進み始めた。彼はふーっと一息付くと、顔は下に向け、両腕をつっぱって舟を押し続けた。
舟はがくっという振動とともに、急に軽くなった。悠馬は顔を上げると、船首の先に、日焼けをした若い男がこちらを見てにやっと笑うのが見えた。
「三郎太……、どうしてここに?」
「悠馬様はお考えがすぐにお顔に出るので、夕刻から様子を伺っておりました。で、夜半に、宿から出られるのを見たので、後をつけてまいりました。……それにしても随分と水くさいじゃないですか。」
「すまん。お前を巻き込みたくなかったのだ。もしあれに出会ったら二度と帰れなくなくなるかも知れないからな」
「何をおっしゃる」
―――仁はこのセリフは前にも聞いたと思った。それにしてもこの家来はいやに軽いやつだな。ひょっとする陵の先祖かな――――
悠馬と呼ばれた悠馬は、顔を少し綻ばせると、再び小舟を後ろから押した。三郎太と呼ばれた若者はあわてて、船首に括りつけた縄を引いた。
暗い砂浜を、二人で大汗をかきながら舟を動かすと、ほどなく波打ち際までたどり着いた。悠馬と三郎太は互いに顔を見合わせると、同時に舟にしがみ付くように乗り込んだ。
悠馬が魯を取ると船頭役になって舟を動かし始めた。
「悠馬さま。船を漕ぐのはこの三郎にお任せください」
「後になったら、替わってもらうさ」と悠馬は、余裕を見せ漕ぎ出してみせた。しかし十掻きほどしたところで苦し気に、顔を少しゆがめてううっと呻いた。
三郎太はそれ見たことかと言わんばかりに、にやっとすると悠馬から魯を引き継
いだ。しかしこちらも二十掻きほどすると、険しい顏になって、魯を漕ぐ速度が
目に見えて遅くなり、やがて止まってしまった。
悠馬が言った。
「こうして漕ぐのは思いのほか手ごわいな」
三郎太が答えた。
「船頭などは簡単そうに漕いでいるので、私にも出来ると思いましたが、素人には無理のようですね」
「引き返して、明日宿の主に船頭を紹介してもらおうか」
「そうしましょう」
―――仁は思った。なんだ、この安易さは、誰かににている。若い頃の兄貴、いやいや陵の方に似ているか。この世界ではあいつは俺の家来なのかな―――
「あ。いや、待て舟が動いているぞ」
「いけね。流されているようですね」
そういうと三郎太は再び魯を握って、今度は陸に向かって漕ぎ始めた。しかし舟は漕ぎ手の意図とは全く関係なく、沖に向かって流れ始め、次第にその勢いが速くなっていった。三郎太は魯を漕ぐ手を止めて言った。
「このまま、流されるままにしましょう」
悠馬も頷いて言った。
「そ、そうだな。他に手はあるまい。もともとそのつもりであったからな」
悠々と構えたが、しかしその声は少し震えていた。
流れがどんどん速くなり、それと同時に海面にうねりが出て来た。その不規則なうねりに船は左右、上下に大揺れする。
悠馬は目をつぶり、ぶるぶると震えている。三郎太は気丈にあたりを見渡し、この突然の大波の原因は何なのかを見極めようとした。海がこんなに荒れているにも関わらず、空は曇りも無く月や星さえも見えている。荒れているのは海だけなのだ。大きな魚の化け物か海坊主が海の底で水を揺らして弄んでいるのではないかと思えてきた。
水の流れは急となり沖合に向かっていく。突如、悠馬と三郎太の目の前に海が人の丈ほどの水の壁となって立ちはだかった。と同時にその水の壁の向こうに、細長い黒い塊が海の中から飛び上がった。
「で、出たぁ」と三郎太と悠馬が同時に叫んだ。
それは目をらんらんと光らせた魚の姿をもった塊であった。その魚の怪物が大きく口を開け、船首に噛みついた。三郎太は腰が抜け、舟の底に背を向けて、手をついたままへたりこんでいた。悠馬が櫓を槍のように持ち替えて、ようやく立ち上がり、腰がひけたままの格好で、船首の方に移動し、櫓の先で大きな魚の頭あたりをつっついて舟から遠ざけようとした。しばらく様子をうかがったが、やがて悠馬が口を開いた。
「襲ってこないな」
「そ、そうですね。人様に怖じ気づきましたかね」
しばらくじっとしていた魚の怪物は頭を船首から外して、海の中に潜ったが、水しぶきの轟音とともに、再び海面から大きく飛び上がった。一旦、着水すると二度三度と同じ動きを繰り返した。
「ひょっとすると。あやつは我らとじゃれておるのか」
大魚は尾ひれを空中で振るわせると、舟の下で、背びれで船底を押すように、泳ぎ始めた。舟は再び勢いよく流れ始めた。
―――仁は思った。これは魔物ではないな。人に慣れたイルカか。目がやさしいな―――
舟の上の二人の若者は、この舟を運んでいるものが危害を加える意図はないことを感じて、つかの間安堵の息をついた。舟は周りの流れとともに、湾の中央まで流されて来たが急に止まった。同時に大魚が舟から離れ、何かに向かうように泳ぎだして行った。大きな波が立て続けに舟を上下に大きく揺らした。
悠馬は先ほどから船べりにしがみ付いていたが、舟の舳先で海を伺っていた三郎太はバランスを失った。と同時に「あっつ」と言う声を挙げると漆黒の海に落ちていった。
―――やばい、三郎太がいなくなってしまった。あいつは陵だったのだろうか―――
「おおーい」
悠馬は焦ってなさけない声をあげ、三郎太を助けようと船縁から手を離したが、立て続けに起こる波で揺れる舟の上で、すぐにバランスを崩し、再び船縁にしがみついた。
「おおーい、おおーい、大丈夫か」
悠馬は半分泣き顔で、二度三度叫んだ。しかしその声は突如吹いてきた強い風にかき消された。風は初め舟の正面から吹いていたが、やがて渦巻いて吹き始めた。いやに生暖かい、海の匂いとは別の血のような生臭い風であった。
すると悠馬の耳には遠くで稲妻の音が聞こえた、急に降って来た大粒の雨と同時にその音が大きくなってきた。と、突然すぐ近くに稲妻が光り悠馬の目を射った。悠馬は立て続けに起こる稲光で目を開けていられず、もはや手探りで船べりに掴みしがみつくしかなかった。すると体が舟とともに空中に浮くのを感じた。悠馬が思わず目を薄々開くと、暗闇とそれを引き裂く閃光、そして巨大な人影と赤く光る眼が見えた。「な、な、なんだ」悠馬は波にずぶ濡れになった冷たさと、恐ろしさで震えが止まらなくなった。
―――仁は恐怖に襲われながら思った。前回はこの辺りであの魔物が登場したのだ―――
大きな人の形をもった怪物は悠馬に向かい大きな手を伸ばしてきた。「三郎太、誰か、誰か助けてくれ」悠馬はもはや声にはならないほど消え入るような声を出して、怪物を見据えていた。怪物の手が悠馬に掴み掛かりそうになるとふと我に返り、「あ、あの鏡が……」と言うと、慌てて片手を懐にやり、布製の袋を取り出した。その瞬間に再び大波で、舟が大きく揺れた。悠馬は「あっ」という声をあげ、袋を持っていた手で船べりを掴もうと、手を大きく後ろに回した。その時思わず握っていた袋から手を放してしまった。袋は水浸しの船底をころころ転がり、舳先の近くまで行ってそこで止まった。袋の中からは手の平ほどの大きさの鈍く光るものが、半分出ていた。
―――仁は驚いた。これがあの銅鏡か。悠馬のドジ。しっかり鏡を握っていろよ―――
「やっ。しまった」悠馬は慌てて、片手を延ばしたが、指先が袋に触れるだけで掴めない。しかたなく船べりを掴んでいた手を放して体を前に進めようとしたが、次の大波が船を揺らし、悠馬はもんどりうって海の中に落ちて行った。
悠馬は深い海の中に体が沈んでいくのを感じた。激しい恐怖で、目を閉じたまま手足をばたつかせた。すると今度は体が、何者かによって水中から引き上げられ宙に浮くのを感じた。一瞬何が起こったか分からず、そのままの格好で身を縮こまらせていたが、やがて恐る恐る目を開けた。そして自らの体が巨大な手に掴まれ、海面から自分の身の丈の二、三倍の位置に持ち上げられていることに気が付いた。そして目の前には、鈍く光る大きな目玉がこちらを見据えているのが見えた。
その時、再び稲妻の閃光が暗闇を引き裂き、悠馬は目の前で自分を掴んでいる黒い袈裟をまとった巨人を見た。その顔は人間のものとほど遠い鬼のような形相であった。
「放せ」と言うと悠馬を掴んでいた巨人の手が急に緩み、悠馬は海中に落ちて行った。海の中で次第に意識が遠のいて行った。――――――
ユースフの研究室ではパソコンの前で目を見開いたまま意識がない仁をミカ夫妻、セナ、陵が囲んでいた。ユースフが言った。
「三十分経った。電源を切ろう」
ミカがデスクトップ・パソコンのディスプレイの電源を消した。皆が息をのんだ。仁の意識はすぐ戻るはずだ。三十秒経った。しかし仁は相変わらず、暗くなったディスプレイを見続けたままであった。一分経った。仁はそのままであった。ユースフが言った。
「だめだ。仁は戻ってこない」
それを聞いて陵が大きな声で言った。
「話がちがうじゃないですか。ユースフ先生」
ユースフがちょっと考えてから言った。
「仁は前の幻視の状態から銅鏡を使って現実に戻ったので、幻視の状態がより強固に維持されるようになったのかも知れない」
稜がすこし怒ったような顔になって、ミカとユースフの方を見て怒鳴った。
「そんな。それでは仁を戻す方法はもう銅鏡を見つけて持って来るしかないのだな。ミカさん、先生」
ユースフは少しうろたえって言った。
「そうなのだが、しかし仁が現実に戻れなくなったので、稜が幻視の世界に入ることにもかなりの危険があると思う」
「ユースフ先生は、いまさっき仁は何度も幻視の世界に入ったからこうなったって言ったじゃないですか。俺は、TVゲームは時々やるだけだから大丈夫じゃないですか。俺は行きますよ。止めないでくださいね」
ユースフはちらっとミカの方を見た。ミカは稜に言った。
「誰も止めないわよ。稜君、ぜひお願いしたいわ。これしか方法はないと思います」
ミカはあっさり言うので稜は逆にすこし戸惑ったようだったが言った。
「そうですよね。あっ、行きます、行きます。行くに決まっているじゃないですか。何着ていこうかな」
皆、ぷっと吹き出した。ミカは稜に向き直って言った
「さて、稜君やるわよ。でも一つ気をつけて、もし、中で気分が悪くなったら、すぐに合図を送って。そうしたらすぐにモニターを切るから」
「あざーす」と稜は言うと、モニターの席に腰を下ろした。
ミカはセナに小声で「今、何ていったの」と聞いた。セナは笑って答えた。
「ありがとうございますよ」
魔境の伝説を再度動かそうとパソコンのキーボードを操作していたユースフがミカに言った「君でも分からない日本語があるんだ」ミカはにこっとして肩をすくめた。ユースフが言った。
「それでは。始めるよ」
陵がディスプレイを食い入るように眺めた。ディスプレイで一旦静止していたゲーム画面が再び動き出した。陵は次第に目の前がぼうっとしてやがて意識が遠のくのを感じた。
――――――悠馬は砂浜で意識を戻した。目の前の海からもがきながら這い上がってきたことは覚えている。それから大分時間が経ったようだ。空には明るい光を放つ太陽が昇っていて、砂浜に座り込んだ悠馬には心地良く感じられた。彼は先ほどまで暗い海で起こったことを思い出していた。あの耳まで裂けた口を、赤いのどが見えるまで開いてこの悠馬を喰らおうとした化け物は何なのだろうか。不思議と疲れは感じていないが、これから立ってどこかに行くという気持ちもわかない。ここはどこなのだろうか。
―――陵は意識がまだ悠馬と一体化していない中で思った。化け物とは何なのか。むかし家で聞かされた「悠馬と三郎太」の話の中にもそんなものが出て来たな。たしか呪怨とかいう坊さんが、悟りきれず、自分の境遇への恨みのために魔物に身を変えてしまったやつだ。そんなものに近寄らん方がいいな。くわばら、くわばら―――
悠馬がそのまま、浜にあぐらをかいていると目の前に毛むくじゃらの二本の足が見えた。上を向くと日に焼けた真黒な顔がこちらを不思議そうに見ているのが見えた。この浜に住む漁師のようであった。顔が黒すぎて年寄なのか、若いのか、怖そうなのか、優しそうなのか全く分からなかった。
「この辺で、見かけないお人だな」と漁師が言った。その男は手に太陽の光を受けてきらりとひかるものを持っていた。悠馬はそれが大荒れの海で無くした鏡であることを認識した。
「私は鎌倉の北条執権の使いで来た三浦悠馬と言う者です」
漁師は悠馬が名乗っても全く反応を示さなかった。このあたりの者は都や鎌倉のことなど全く知らないのだろうと悠馬は考えた。
「昨夜は、この海で坊さんの姿をした魔物に喰らわれそうになった。漁師さん、なんか知らないか」と悠馬が言うと、漁師は特段驚いた顏もせず淡々と言った。
「この辺は、海の向こうから来た化け物が海を荒らすのじゃ」
悠馬は海から来た者とは何のことかと思ったが漁師が手にしているものが気になり言った。
「漁師さん、その手にしているものは何ですか」
漁師が言った。
「今日、網をあげたら掛かっていた。何というものか知らないが、硬くてつるつるしていて良く光るものだな」
悠馬は、それは夜の海で無くした銅鏡であることを認識した。
―――陵の意識は考えた。これこそあの銅鏡に違いない。今は漁師の手にある銅鏡がこの後、どこに置かれるのかしっかり確認しないと―――
悠馬は漁師に向かって言った。
「それは銅鏡というものだ。その銅鏡は私が海で無くしたものだ」
そう言うと、漁師が身構えた。
「いや用心しなくても良い。それを私に返してくれとは言わない。一旦海に帰ったものだからな」
漁師が少し安心したような顔になった。悠馬は続けた。
「漁師さん、その鏡をどうすされるつもりですか」
漁師は口を開いた。
「これにはありがたい観音様が描かれているからな、これを家に納めてお寺を作って、島の皆でお参りするんだ。これをご本尊にして代々子孫に受け継いでいく。そうするとこの辺の海を荒らす魔物も出なくなる」
それを聞いて悠馬は言った。
「おう、それは大変良いことだ。もともとこの鏡はこの島に流れついたものなのだから、そのようにしたら良い」
―――陵は、これだ、これで寺の場所を聞けば良いのだと思った―――-
悠馬は尋ねた。
「それで寺は、いや漁師さんの家はどこですか。寺が出来たら都の偉い坊さんにお経をあげに行ってもらうよ」
漁師は嬉しそうに日焼けした顔を崩して笑い、海岸に迫っている山の一つをさして言った。
「それは有り難い。寺にはあなた様の名前をつけるとしましょう。俺の家はここから、あの猫の耳の形をした山に続く道をずっと行って……」
―――陵は、次の言葉を聞き逃してはいけないと思った―――
その瞬間、悠馬の背後から音もなく僧の姿をした魔物が現れ、大きな口をあけ悠馬の首にかみついた。悠馬は不意を突かれて後ろにもんどりを打って砂浜に倒れた。――――――
陵は、慌てて手足をばたばたさせようとして、自分には意識しかなく、代わりに悠馬が砂浜で手足をバタつかせているのが見えた。そして目の前の景色が一瞬にして消え、目の前に電気の消えたディスプレイの黒い画面が見えた。
セナの声が聞こえた。
「どうだった?」陵は頭がぼーっとして、がんがんと頭痛がするのでしばし頭を押さえてかがみ込んだまま言った。
「普通、大丈夫?とか言わないかな」
セナが応えた。
「大丈夫?頭痛いの?」
陵が頭を抱えたまま話した。
「頭ががんがんするけど何とか生きている。銅鏡の場所がもう少しで分かるって言う時に邪魔が入って、ここに連れ戻された」
ミカが言った。
「あら、そうなの?陵君が手足をバタバタさせるからスイッチを切ったのよ」
「あ、いえ良いです。邪魔者というのは大きな僧の姿をした化け物のことで、あ、でもその話はあとにするとして、現代のテクノロジーがあればあの場所を特定することができると思います」
そういうと陵は目の前のパソコンをインターネットの地図検索サービスの画面に切り替えた。そして「対馬」と打ち込むと現れた地図から、現地の写真の画像に変更して、マウスをがちゃがちゃと動かして、ディスプレイに映る景色を食い入るようにして見た。
「あっ、海岸はこの場所だ」と言うと今度は画面を地図に切り替えて、画像を動かしつつ舐めるように見て行った。そして言った。「あっ見つけた。これかな。三浦神社。でも寺って言っていたかな?でもあいつの名前は三浦だった」
そして陵は全員の顔を眺めると言った。
「銅鏡は、対馬の三浦神社にあります」
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