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雨の東部杯 1
「さあ、行くよ!」
ベルンシュタイン帝国の女性騎手ロア・ジャンメールは、最後の直線に入ると馬上で身を縮めた。
ゴーグルを嫌って装着しないせいで、目に雨粒が容赦なく飛び込んでくる。
背後から七番の馬が追い込みを掛けてきているのが、大きくなる足音と気配で分かった。
十数頭の馬が大地を蹴る振動から、一頭分のぬかるみをひた走る足音が抜け出してどんどん近づいて来る。
ここまではロアの読み通りだ。七番の騎手のドゥラカが躍起になって鞭を入れている音が聞こえて、更なる追い上げの予感にロアの背中がびりびりした。
次第に強くなる雨脚の中でも、観客はわあわあと声を上げている。視界の左端に七番の馬の黒い鼻先が揺れているのが見えた。
ゴール板代わりの大きな銅の蹄鉄は目前──どうにかロアは先頭のまま蹄鉄の前を駆け抜けた。ガンガンと鐘を叩く音が響き、大きな歓声がそれに応えるようにレース場にこだました。
「いぇあー!!」
ロアは黒いベルベットの乗馬用ヘルメットを投げ捨てて、雨空に叫んだ。
ヘルメットから解放された髪は肩につかない。貴族の娘でありながら髪を結い上げられないほどの短さなので周囲からの評判は悪いが、本人は気に入っている。
だが体調が良ければ毎朝髪を編んでくれていた亡き母が今のロアの髪を見たら、もったいないことをしてと嘆くかもしれない。
「あああああ、ちっくしょー!!」
ロアと同じくらいの大声を出して、七番の馬に乗っていた騎手のドゥラカがすぐ横を追い越していった。
ここはベルンシュタイン帝国の東部、街外れの大きな森の中にある競馬場だ。東部杯の最終レースがたった今終わったところだった。
ドゥラカがゴーグルをヘルメットの上へ上げ、泥まみれのゴーグルごとヘルメットを脱ぐ。黒く長い巻き毛をわしゃわしゃと掻き乱しながら、ロアを振り返って毒づいた。
「ロアてめえ! 今日はうちの家族が見にきてんの知ってんだろ、先輩に花持たせろよ!!」
荒い口調で言ったドゥラカの、ギリヤの民独特の睫毛の濃い眦の切れ上がった目がロアを睨む。
「ずるはできないよ。それに、去年の東部杯はドゥラカの勝ちだったでしょ」
ロアは笑ったまま首を振った。
「一年前の話なんて関係あるか、あたしがしてんのは今日の話だ!」
揉める私達の横に十一番の馬に乗った金髪の女性騎手ニコラが近づいて、レース中に頬に跳ねた泥を手の甲で拭った。
「まあまあ、二着でも賞金は出るんだからさ」
女性騎手の中では現在ニコラが一番年長だ。特にドゥラカはニコラから字や文法を教わっていたので、彼女には頭が上がらない。ドゥラカはむっつりした顔でまたロアを見た。
「ケッ、一着の四分の一じゃねえか。おまえ男爵の娘で金に不自由してないんだから、地方競馬でくらいちったぁ手ぇ抜けよな!」
ドゥラカ達ギリヤの民は血縁者がまとまって暮らし、土地を移りながら助け合って生きる人々だ。
今でこそドゥラカはその美貌と実力でベルンシュタインの花形騎手の一人だけれど、幼い頃は物乞いをして家計を支えていたほどに家庭は貧しかったらしい。
半年ほど前に父を亡くして、遺言によって血族の長となったドゥラカはより一層賞金に執着するようになった。
「お金の問題じゃない、名誉の問題」
ロアは真面目な顔でふるふると首を横に振る。
「何が名誉だ、名誉で腹が膨れるもんか。今晩おごれ、うちの家族全員分だ」
「いいよって言いたいけど、今回賞金をもらえたらうちの領地の畑の整備に回すって、父様と約束してるんだよね。春先の大雨で山崩れが起きちゃってさ」
その返答に、ドゥラカはぴくりと濃い眉を上げる。
「なーにがうちの領地だこの野郎、おまえの親父の領地だろ」
「そうだけど。うちのって言ったって間違いじゃないでしょ」
ドゥラカは半眼になってロアを見た。ドゥラカは何せ手が早いので、ニコラが間に入って穏便に治めようとする。
「二位の賞金でだって、十分美味しいごはんを食べられると思うけど?」
「家族が何人来てると思ってんだよ。今日は東部の遠縁まで来てるんだ、八十人以上いるぜ」
凶悪な顔で申告して、ドゥラカはつんと顎を上げた。大切な血族とはいえ、湯水のごとく金を使われるのは辛いことだろうとニコラは察する。
かたや男爵の娘のロアは、生まれた時から牧場を持っている。ロア自身は身分の差や資産の差など気にしたことはないが、時折こぼれる貴族特有の無神経さがドゥラカを苛々させる。
「春の南部杯の賞金は?」
「そんなもん残ってるわけねーだろ、こっちは大大大家族なんだよ! このくそったれのスネかじり女!」
馬上のロアを捕まえようとでもいうのか、腕を伸ばせるだけ伸ばしておかしな姿勢になりながらドゥラカが馬を急接近させた。
ロアは少し笑って、ひらりと跳ねるようにして逃げた。泥がびちゃびちゃと跳ねる。
「待てコラ!!」
「またじゃれてるのか、あの二人は」
追いついてきた男性騎手が、呆れたようにニコラに声を掛けてきた。
「まったく、雨のレースじゃあの二人に勝てる気がしないね」
ニコラもロア達を眺めて笑っている。その後ろから、一人の青年が近づいてきた。
「ロア様ー!」
「ロアー! 人が来てるよ!」
青年の呼ぶ声に気づいたニコラが、口元に手を当てて大声で叫ぶ。それを聞いてロアはドゥラカをひらひらしたおかしな手つきで制して、慌てて青年の元へ近づいた。
「フランツ! どうしたの、父様に何かあった?」
青年の名前はフランツ、ジャンメール家の馬丁だ。わざわざ東部まで来るなんて、父様の身に異変でもあったのだろうかとロアが表情を曇らせる。
フランツは馬から降りたロアに掛け寄り、傘を差し向けた。だがロアは大丈夫と言って傘をフランツの方へ押し返した。騎手仲間の前で貴族扱いされるのは何だか居心地が悪いからだ。
フランツはロアを傘の下に入れることを諦めた。雨に濡れないよう懐にしまっていた手紙を取り出し、震える手で差し出す。
「いえ、トラウゴット様はお元気です。……あの、お、お手紙が届きました」
顔面蒼白のフランツは、ごくりと息を飲んでから答えた。
「手紙?」
ロアは濡れて脱ぎにくい手袋を嚙んで引っ張って脱ぎ、それから手のひらをズボンの尻で拭って手紙を受け取った。
「ああ、丁寧に! 丁寧に扱ってください!」
薄氷色の封筒へ雑に手を突っ込んで便箋を取り出そうとしたら、フランツが泣きそうな声で叫んだ。
「皇帝陛下からのお手紙ですよ!」
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