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雨の東部杯 2
「……、コウテイヘイカ!?」
一拍置いて言葉の意味を理解したロアは、これ以上丸くできないほどに目を丸くした。
男爵家とはいえジャンメール家の領地は辺境だし、領地も狭い。それに元々はチェッリーニ司教国からベルンシュタイン帝国に渡ってきた一族なので、ベルンシュタイン皇帝との縁は薄い。
それなのに一体何が起きたのかと、ロアは眉根を寄せた。目元に流れる雨を手のひらの付け根で拭いながら、たどたどしく文面を追う。
「ええと、雨、煙り、大地、こ、肥ゆる、じ、じ、じ……」
何事かと近寄ってきていたニコラが、しかめっ面で苦戦するロアを見かねて手紙を覗き込む。
「時候、だね。雨煙り大地肥ゆる時候に入り、って書いてある」
堅苦しい言葉の意味がよく分からないロアは、自分で読むのは早々に諦めてニコラに手紙を差し出した。
ニコラは騎手だが孤児院で子どもに勉強を教える教師でもある。ニコラの夫も町の学校で教師をしている。
「お願い。要約してくれる?」
差し出した手紙はあっという間に雨で濡れていった。安物のインクなら字が滲んで読めなくなっていただろう。
フランツは皇帝陛下からの手紙が濡れてしまったことに戦いて、少し青ざめた。
「いいけど。雨煙り大地肥ゆる時候に入り、グラットコール地方の領主である貴公においては…………うわ」
手紙を受け取ったニコラは、文章を読み進めてすぐに顔をしかめた。
「何て書いてあるの?」
ニコラは片手で口元を覆い、手紙から顔を上げて冷やかすように笑った。
「あんたを帝国の代表として、ウィンフィールド王国の大舞踏会に行かせるってさ」
「はあ?」
ロアは素っ頓狂な顔をして、思い切り間の抜けた声を響かせた。
ウィンフィールド王国というのは、ベルンシュタイン帝国の西にある国だ。帝国より領土はずっと狭いものの、天馬騎士団を擁するため空から攻撃を仕掛けることのできる軍事力は決して侮れない。しかも文化の面では帝国を凌ぐ華やかな国だ。
昔から多くのウィンフィールド王族は各国と婚姻関係を結んでいる。そのため、ソイニンヴァーラ王国と並んで周辺諸国への影響力は高いらしい。
だがロアは、ウィンフィールドの大舞踏会と言われても何のことかさっぱり分からなかった。
「ロア・ジャンメールが、花のウィンフィールドでダンスぅ? あはははは!」
ドゥラカが腹を抱えて笑った。それもそのはず、男爵の娘ではあるけれどロアはレース後の晩餐会さえ苦手だった。
ドゥラカに教わったギリヤの民のダンスのようなテンポが速い曲は得意だが、男性とぴったり寄り添って踊るスローダンスは大の苦手だ。それに、社交界でのおしゃべりはもっと苦手なのだ。
レースと無関係の地元の舞踏会など、ここ数年騎手の仕事が忙しいことにして顔を出していないくらいだ。
「ど、どういうこと? 大舞踏会って何?」
混乱しながら尋ねると、ニコラは呆れた顔をして濡れた前髪を掻き上げてからまた手紙を見た。
「知らないの? ここには詳しく書いてないし私もよくは知らないけど、独身の王子二人に花嫁を選ばせるためにウィンフィールドで大規模な舞踏会をやるって話は有名だよ。うちの子ども達だって知ってる話なのに」
子ども達でさえ知っている、という言葉がロアの胸を抉る。ドゥラカがにやにやしながら口笛を吹いた。
「へええ。おまえが王子様の花嫁候補か。まったく、我が国の皇帝陛下の酔狂さは世界一だね」
花嫁候補という言葉に、ロアは同じような年頃の着飾った少女達と一列に並ぶ自分を想像した。鳥肌が立ち、一気に気持ちが暗くなる。
小さな頃から女の子のする遊びには興味がなく馬にばかり乗っていたロアは、同じ年頃の少女達にとって異質な存在だった。
社交場で壁の花になっているロアを、遠くからくすくすと笑う少女達の転んだ半月のような目が思い出される。
騎手になってようやくそういう世界とは離れられたのに、どうして今頃になってまたそんな思いをしなくてはならないのか。
ロアは腹立ち紛れに濡れた手袋をぱしんと腰の横に叩きつけた。
「い、意味がわからない。どうして私が花嫁候補なの!?」
「さあね」
「私、よその国の王妃様になれるような要素なんて何にもないよ!?」
混乱して弱り切ったロアに、ニコラは頷いて同意する。
「知ってるよ。でもあの皇帝陛下の考えることなんて、私達みたいな庶民に分かる訳がない」
ニコラはお手上げだと手紙を返してきた。ロアは救いを求めて哀れな顔でフランツを見た。慌てたフランツはぶるぶると首を振る。
「お、俺も知りませんよ。トラウゴット様も、全く理由がわからないとおっしゃってました」
「父様にもわからないんじゃ、私にわかるはずないよ……」
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