雨が燃えている

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 結局、本は私を救ってくれなかった。あれほど好きだった小説も肌を白くするばかりだ。詩や歌やエッセイ、物語と呼ばれるもの全てが私の脚を細くした。見慣れた部屋の中、ベッドから見えるものだけが私の日常だった。真っ白な紙に書かれた幾つかの台詞。イメージを膨らませる情景描写。瞳に映る文字と時折現れる瞼の裏の暗闇だけに意識を向けていく。何時しかカーテンを開けることもなくなった。白かった紙は白熱灯のオレンジにべたりと染まった。  雨の日だけは、窓を叩く外側の音が聞こえた。ぽつぽつと耳をノックする音に対し、私は居留守を使う。息を潜め、紙の舞台に没頭し、歯を食いしばってやり過ごす。雨はその内に止む。外を走る車の音が大きくなって、部屋が外の世界に侵食されていく。救いを求めて、物語の中を途方もなく彷徨う。いつも。その繰り返し。  そして、とうとう身体が悲鳴をあげた。脳に書き込まれ続けた心理描写で頭ばかりが重くなって、痩せた脚は肥大した心を支えられなくなった。倒れた私を夜の病室で抱き上げた母は言った。 「遠くに行きましょう」  ぽつぽつと液体の落ちる音がした。 「遠くってどこ?」  雨が降っているのか、点滴の音なのか、瞼が大きな分銅のように重く感じて確かめることができなかった。 「お母さんの生まれたところ」  あるいは、涙の落ちる音なのだろうか。こんなことになってしまったから母に謝りたいのか。それとも、私をこんな風にした母を拒絶したいのか。自分の欲求も分からない。心の中の天秤は音もなく壊れていた。  ○  その美人はいつも黒いつなぎを上だけ脱いで、細い腰で袖を結んでいた。逆三角形の鍛えられた背中は汗ばんで、白いTシャツが貼り付いている。見たことのないうさぎのキャラクターが彼女の胸で踊っていた。細いくせに胸もある。遮るものがない猛烈な陽射しに、ショートヘアが明るく萌えている。身体中に藁や泥が付いているけれど、全く気にしていない。椿ちゃんは一学年上だけど、早生まれの椿ちゃんと私の誕生日はほとんど同じはずなのに、私は全てが幼く見える。 「久しぶりだね」  水を弾くスモモのような笑顔でそう言われたけど、昔のことを全然思い出せなかった。母の妹の娘。従姉。そういえば従姉がいた気がする。両親共々、田舎から上京していて親戚付き合いが薄く、どこに行っても本ばかり読んでいた私には、親戚の子供同士の交流や祖父母との微笑ましいエピソードはほとんどなかったように思う。特に母の実家に来たのは小学校に入る直前の春以来だった。三月なのに物凄い寒かった嫌な記憶がある。  広い北海道の南の方に、母の生まれた街はあった。街といっても、人よりも家畜や動物の方が多い、典型的なド田舎。車に揺られながら見た夏の原野は全てが緑で、どこまでいっても平らだった。紺色の空に鉄錆に似た分厚い雲が貼り付いていた。母の実家の牧場は通信キャリアによっては電波が届かないらしい。私はまさにその電波圏外のキャリアと契約していたようだ。いくら調べても、最寄りのコンビニまでの道ですら表示されない。そんな牧場に私は一人預けられた。これがドナドナの世界観だろうか。  叔母さん曰く、母は実家を飛び出してきたらしい。初めて知った。呆けが進んできた祖母とは未だに折合いが悪く、例え葬式の遺影であっても顔を合わせたくないと電話で漏らしているそうだ。祖父が亡くなってから、牧場は叔母夫妻が継いで、三人の従業員と一緒に経営しているとのことだった。椿ちゃんは大学に通っていて、今はこの家を出て、東京で独り暮らしをしている。色々あって、夏休みの間だけ、叔母さんが連れ戻してきたらしい。その『色々』が何なのか、私はまだ知らない。 「椿と仲良くしてやって。こんな田舎で牛と馬と男ばっかりじゃ、嫌になっちゃうでしょ」  あははと笑いながら、そう言われたけれど、田舎も牛も馬も知らない人との触れ合いもほとんど初めてだったので、よく分からなかった。何と返していいか分からず戸惑っていた私に、叔母さんは「あ、ヤギもいるか」と付け加えた。ヤギも初めてだった。  旅立ちの日、母は荷物から小説を全て抜いてしまった。キャリーケースの大半を占めていたそのスペースに、街の本屋で買ってきたらしい図鑑を詰めた。『北海道の野草・樹木』、『北海道の昆虫』、『大むかしの生物』、『大型鳥類図鑑』、『星空観察 北半球の星座』などなど。その結果、荷物の総重量の九割が図鑑になって、道中辟易した。中には古本屋で売っていたと思われる『原色 日本の地層』という使い道の分からない巨大な図鑑まで入っていた。しかし、椿ちゃんは地層の如くの分厚いページを一枚一枚熱心に捲りながら、 「読み終わったら頂戴よ、これ」 と信じられないことを言った。もちろんあげる。重いし。荷物が減って、両者にとって都合の良い話だ。着替えを出すために荷物を解いたら、与えられた部屋の半分は本で埋め尽くされた。こんなに遠くに来たのに、また同じ景色。この小さな部屋は元々椿ちゃんの部屋だったらしい。 「ベッド、凄い軋むけど気にしないで」  ふかふかのマットレスに腰をかけるとぎしぎしと呻き声が上がる。 「角部屋だから風も良く通るし、住めば都だよ。きっと」  椿ちゃんは二枚の窓を全開にした。どこか遠くを見ている。 「本物の東京はあまり良い所じゃなかったけど」  椿ちゃんが言った。 「そうかな?」 「ずっと住んでたら、良い所になるかな」 「どう、なんだろう」  言葉に詰まってしまう。久しぶりに、人と話している。 「えー、十八年東京に住んでて、愛着ないの?」 「夏はちょっと暑いし」 「あれでちょっとなんだ」 「うん」 「そっか」 「東京って言っても、家の近くしか知らないから」 「そっかそっか」 「北海道は広いね」 「まあ、確かに」 「うん」 「物理的に広い」 「北海道は好き?」 「どうかなー」 「十八年住んでて、愛着はないの?」 「分かんない」 「そっか」  細かい塵が窓の外に吸い出されていく。窓から射す陽を浴びて、きらきらと輝いている。 「でも、星は綺麗だよ」 「見てみたい」 「じゃあ、夜、晴れた日に見てみよ」  椿ちゃんの白い手が弧を描き、レースのカーテンを閉めた。部屋に慣れていない私は部屋の主の淀みない動作を見ていることしかできない。机の上に積もった埃を払いながら、回転椅子を半回転させて座り、長い足を組んで、他の図鑑に手を伸ばす。『日本のチョウ百科』。どの図鑑も電車や飛行機で一通り目を通してしまった。読むのが早い私にとって、図鑑は写真が多くて文字情報が少なすぎる。 「蝶々は好き?」 「うん。図鑑で見たら、綺麗だった」 「この蝶、この辺によくいる」  そう言って指差したのはクジャクチョウという本州では珍しい蝶だった。真っ赤な翅に大きく潤んだ瑠璃色の目が四つある、孔雀のように美しい蝶。胴体は少し太めで、茶色の毛でふさふさしているので、よく見ると少しゾワッとする。 「春先、フキノトウがそこら中に生えてさ。その蜜を吸いによく来てる」  図鑑を見ていた椿ちゃんが顔を上げる。鋭い視線が私の頭を貫く。 「あと、牛の糞にもめっちゃ集まってくるんだよね」  夏の陽射しのような笑顔。 「あれは少しきもい」  黒いつなぎから、獣の臭いがした。  ○    その日の夜は私の歓迎会の意味もあり、ご馳走が出た。手巻き寿司、煮込みハンバーグ、地元で採れた野菜のサラダ、近所の牧場で作っているというチーズとビスケット。叔父さんはすでにビールを飲みながらテレビを見ていた。とりあえず椿ちゃんと叔父さんの間の空いている椅子に座った。椅子からの眺めを見て、しばらくはこの席でご飯を食べることになるのだと気が付いた。 「あ、オヤジに酒とか注がなくていいから」  私は頷く。普通は酒を注ぐものなのだろうか。テレビから流れる野球の試合の実況が背中に聞こえる。地元のチームが勝っているみたいで、叔父さんはとても機嫌が良さそうだった。おつまみに手を伸ばしながらも、ピッチャーが投げる度にテレビに目を向けている。 「椿は光ちゃんに注いであげなさい、牛乳」 「はいはい」 「お父さんにも」 「はあ」  あからさまな溜め息が漏れた。料理の準備を進める叔母さんが手際よくボイルしたソーセージを皿に並べる。椿ちゃんがガラスのコップに牛乳をとくとくと注ぐ。透明なガラスが白く染まっていく様子を私はただ座って見守っていた。テーブルを飾るご馳走に対し、なぜ牛乳なのだろうか。牛乳を見つめる私を祖母はにこにこと糸目になって眺めている。そういえば、祖母の声を聞いたことがない気がする。叔父さんはテレビを見たまま言った。 「うちの牛乳おいしいぞー」  この家の人は皆、そっぽを向いたまま話す。それら全てが当たり前なのだろう。全員の前に牛乳が並ぶと、野球観戦を切り上げた叔父さんがテーブルに向き合って話し始めた。 「この家では、その日の朝に絞った牛乳を夜ご飯の最初に飲むことになっています。それがこの家の唯一のルールです。門限も、牧場を手伝う必要も一切ありません」 「門限って。街灯もほとんどないんだから、誰も出歩けないでしょ」 「暗くなる前に帰ってきた方が身のため、ってことだ」 「いつまでいても良いんだよ。帰りたくなるまで」 「いっそこの家の子になっちゃえば? 私も出たことだし」 「さあさあ、乾杯しましょう。料理も冷めちゃうし、牛乳も温くなっちゃうし」 「ねえ、光。温い牛乳って、最悪の飲み物だと思わない?」  生産者の前で笑って良いのか分からないことを椿ちゃんが言うので困った。 「それでは」  コップを持つ。液面がたぷんと揺れる。 「乾杯!」  皆がゴクゴクと飲んでいくので、遅れて私も口を付ける。 「この時期のはやっぱ青臭い」  椿ちゃんが言った。確かに少しだけ、草の香りが口から鼻に抜ける。よく見ると、いつも飲んでいる白い牛乳よりも少し緑っぽい気がした。 「そしたら、明日は甘いやつにするかなぁ」 「あの子のがいいんじゃない? 特に脂肪分多めの子。いたでしょ?」  飲み終わった私を叔父さんと叔母さんが見ていた。熱い視線が私を突き刺した。 「どう? 旨いかい?」  なんだか恥ずかしくなって、顔が熱くなった。 「あ、はい、おいしいです。えっと、えー、なんというか、はい」  上手く喋ろうとすればするほど言葉が逃げていく。笑顔を作ろうとすればするほど顔が固くなっていく。どうしたら良いのか頭では分かっていても、いつも身体がついていかない。そんな私を見て、叔父さんは盛大に笑った。 「そっか! 良かった!」 「笑い過ぎ」 「だって、お母さんにそっくりだからさぁ」 「光の?」 「うん」 「そう、ですか?」 「姉ちゃんも好きだったよ」  口の中に残る後味がとてもおいしかった。叔母さんが懐かしそうに言った。 「この牛乳」  テレビから痛快な打球の音がして、叔父さんが振り向いた。「あー」と盛大なため息を漏らしている。叔母さんは余っていた牛乳を鍋から皆のコップに注いでいる。椿ちゃんは早速中トロを海苔で巻いている。祖母はそんな様子をにこにこと糸目になって眺めている。  輪の中に上手く入れない私の口の中で、牛乳の甘い後味がいつまでも消えなかった。  ○  知らない匂いで目が覚める。シンプルな洗剤の香り。とても怖い夢を見ていた気がする。壁に立て掛けた『世界の爬虫類大全』の表紙の森で蠢めくミズオオトカゲの黒い瞳と目が合った。目を覚ましたはずのこの世界も悪夢のようだった。心臓に悪いから場所を移しておこうと寝ぼけた頭にメモしつつ、生成りのカーテンを開ける。太陽は空の高い位置に上がっていた。寝坊してしまった。 「おはよう」  リビングに向かうと椿ちゃんがテレビで高校野球を観ていた。昨日と色違いの藍色のつなぎ姿でソファに寝転んでいる。 「顔洗ったら、朝ご飯テーブルにあるから、適当に食べて」  大きなバスケットにパンが幾つか入っていた。 「そこのパン屋、美味しいんだ」  確かに、とても良いバターの香りがする。 「今度連れてってあげよっか?」  うん、と頷いて、ひとまず顔を洗うことにした。久々にちゃんと鏡を見ると、顔が昨日飲んだ牛乳のように青白かった。左の頰に大きめのニキビ。何年分かの寝不足で取れなくなった目の下の隈。何より酷いのは雄ライオンの鬣みたいな寝癖。普段、家にいて他人に会わなかったので、あまり外見を気にしたことがなかったが、親戚の家ではさすがに寝癖ぐらい直したい。まだ慣れない洗面台の蛇口をひねり、水で濡らした手で髪を押さえてみても、頑固な髪は中々言うことを聞いてくれない。サバンナの王者を超えて、日本海の荒波のようにも思えてきた髪のうねりと格闘していると、見かねた椿ちゃんが蒸しタオルを持ってきてくれた。 「これで押さえると一発だよ、一発」  じんわりと温かい綿のタオルを髪のうねうねしているところに当ててみると、髪の毛の隙間を伝って湿り気が周りの頭皮まで届く。「じゅう」という擬音が鏡に写ってもおかしくない。 「これ、どうやって作るの?」 「レンチン。タオル濡らしてレンチンで一発」  ソファに戻って高校野球を見ながら、彼女は答えた。まだ抗おうとする髪を押さえつけながら、バスケットからクロワッサンを一つ取って咥えた。口の中で幾つも重なった生地の層が壊れていく音がした。ここではどんなに小さな音でもよく聞こえる。  叔父さんと叔母さんはとっくに仕事に出ていて、祖母は昼寝をしていたので、家の中はがらんとして、風が抜けている。東京の家のようにエアコンはなく、大きな窓が全開になっていた。ご飯を食べていると身体が温まってきて、じんわりと汗が出てくる。窓の外に他の建物は見えない。大きな樹が一本立っているだけで、ずっと牧草地が続いていた。鮮やかな緑の絨毯の向こうには深緑の森が茂っていて、空も雲もマンションの小さな窓から見上げていたものよりもずっと大きかった。まるで本の中で見た景色。それらはどんな言葉で表現されていただろうか。『壮観』とも違う。『雄大』とも違うし、『見渡す限りの大自然』とも違った。そもそも牧場は自然のものではない。その場所はひたすら大きかった。ちゃんとした高校生活すら送れていない自分が少し不安になるくらいに。暗くなる気持ちを押し込めるために、クロワッサンを口に詰めた。バターの香りは当てもなく鼻から抜けていった。 「今日はあの樹まで行ってみよっか」  朝ご飯の後に椿ちゃんが提案した。窓の外の大きな樹が緩やかに揺れていた。他に何もないので距離が分からないけど結構遠くに見える。牧場の手伝いは朝で終わっていたみたいで、後はもうやることがないらしい。汚れるからとお古のつなぎを貸してくれた。部屋で着替えている時、ふと思い立って『北海道の野草・樹木』という小さな図鑑を持って、外に出た。 「ここで使ってる牧草にもさ、幾つか種類があるんだよ」  大きな樹に向かって歩いている間、椿ちゃんが教えてくれた。 「ほとんどが細長いチモシーとペレニアルライグラス。同じイネ科で見た目は正直あんまり変わんないけど。それでも性格みたいなものが違ってるんだよね。あと、よく見るとクローバーもたくさん生えてるでしょ? これは本当にシロクローバー」  足元の細長い草を踏みつけて進んでいく。イネ科の草は縦に力強く伸びていて、私の足を地面から少し浮かせる。慣れたアスファルトの感触と全然違う。細長い草の隙間から点々とクローバーが顔を出している。 「すごい昔に光がうちに来た時は、四つ葉のクローバー探しに夢中になって大変だったんだけど、覚えてない?」  全く覚えていない。 「まあ、小さかったからね。疲れ切るまで探してたから、結局おばあちゃんに抱っこされて帰ってさ。マジで子供って元気だよね。今思うと」 「何か、自分がそんなだったって想像できない」  椿ちゃんは私を見て言った。 「人生色々あるからねー」 「何それ」  私たちは歩きながら、声を出して笑った。こういう時、何が面白いのかは、あまり関係ない気がした。  大きな樹が更に大きく見えるようになったがまだ遠い。半分ほど来たところだろうか。Tシャツの袖からすらりと生えている椿ちゃんの腕は白く、芽吹いたばかりの植物のように初々しい。うっすらと筋肉が盛り上がっているのが見える。北海道は寒いから、東京の人よりも肌が綺麗なのだろうか。そんなことを話していたら、椿ちゃんはまた笑った。 「光の方が白いでしょ」  腕まくりをしたつなぎ。細っこい腕の内側に青い血管が走っている。歳もほとんど変わらないのに、何だか違う人種みたいだ。 「本ばっかり読んでたから」 「本?」 「うん」 「二宮金次郎みたいな?」 「学校は行ってない」 「あー、それは焼けないわ」 「うん」 「どんな本読んでたの?」 「何でも読んだよ。日本のも、海外のも、図書館にあるのほぼ全部」 「海外の本ってハードル高そう」 「うん。『レ・ミゼラブル』とかはやばい。一冊五百ページ以上あって、全五巻」 「うわ、無理、不可能」 「だよね」 「面白かった?」 「うーん、多分」 「多分?」 「小説って内容は大体覚えているんだけど、読んだ時の感想ってあまり覚えていないんだ。読んでる時とか、読み終わった時は物凄い感動していても、後で物語を思い出した時にその感情を再現できないというか」 「そういうものなの?」 「うん」 「ふーん」 「なんとなくだけど」 「ていうか内容は大体覚えてるんだ」 「うん」 「やば」 「そうかな?」 「私は内容大体忘れちゃうから。読んだ時にすごい感動したのは覚えていても、何で感動したのか、どのシーンが素敵だったのか、全部忘れてて。友達とかに勧めようにも、上手く説明できないんだよね」 「そうなんだ」 「そしたらさ、光は夏休みの宿題にある読書感想文ってどうしたの?」 「あー、無理。書けない。文才無いし、私」 「文才関係なくない?」 「ていうか、書いてないかも」 「サボり?」  昔を思い出すと鬱になる。 「そういえば、夏休みの宿題を溜めすぎて、それで学校に行かなくなったんだったかも」  椿ちゃんは前を向いて笑った。 「じゃあ、読書感想文が立て篭もりの原因か」 「うん」  引き篭もり、と言わない明るさに救われた。実際にはそうなんだと思うけど、そう言われると、本当にそうなってしまう気がして。そう言われなければ、そうならない気もして。 「宿題とか感想とか、本当はどうでもいいのにね」 「そうなのかな」  私はやっぱり変なのだろうか。久しぶりに人とちゃんと喋って、どんどん熱くなっていた私の頭を更に加熱しようとしている陽射しが、不意に遮られた。見上げると大きな樹が腕を伸ばし、指先の葉はひらひらと風にそよいでいた。私たちは根元の木陰に腰を掛けた。大きな樹の向こう側もまた、ずっと牧草地だった。地平の縁にある森はきっと山なんだろうけれど、遠すぎて緩やかな丘のように見えた。  夏の太陽が青空を焦がして空けた穴に丸い緑の蓋をしている。植物が編みこまれた蓋の隙間からは陽射しが少し漏れ出ている。木漏れ日が風に音に乗って揺れている。柔らかな光線が身体の凝り固まった箇所を徐々に解していく。  低く、細い枝先をよく見てみると葉っぱの端はギザギザしていて、葉脈が平行に走っている。ハルニレの樹だと椿ちゃんが教えてくれた。抱えてきた『北海道の野草・樹木』を開く。ハルニレ。ニレ科ニレ属。北海道を代表する落葉樹。写真の葉っぱの形と、目の前の葉っぱの形が全く一緒で、何故だか少し驚いた。  それから夕方まで、その木陰でたわいもない話をして過ごした。会話の内容はすぐに忘れてしまうだろう下らないものばかりだったが、その時の心地良さは部屋のベッドに潜ってからもずっと続いた。きっとこういう感覚は薄まるものではない。毛布に包まれた優しい温かさのせいか、そんな風に信じることができた。  ○  明くる朝、高熱が出た。顔も腕も肌を出していたところは全部真っ赤になって、何かが触れる度に痛くなった。痛みは弱まるどころか、時間が経つにつれてだんだん酷くなってくる。麦茶を持ってきてくれた椿ちゃんは「怒られちゃった」と悪びれず笑っていた。熱と日焼けのせいで頭も痛いので、もう少し申し訳なさそうでも良いのにと思ったが、胸の内に仕舞っておいた。 「今度はもっと家の近くからだね。初心者コース。いきなりハルニレはきつかったかも。といっても牛舎は臭いし、パン屋も歩きじゃ遠いし、この辺、何もないからな」  麦茶のグラスが机を丸く濡らした。「自販機とかどう?」と真剣に提案されて、私は首を横に振った。何が楽しくて自販機に行かなきゃいけないのか。むんむんと考えている椿ちゃんは持ってきたチョコレートアイスの袋を威勢良く開けた。 「じゃあ、昆虫採集とか?」  もっと日に焼けちゃいそうだ。 「いかにも夏休みだね」 「十年振りだから、勘を取り戻さないと」 「勘?」 「そう。虫に対するアンテナ」  表面のチョコレートを歯でパリパリと割りながら、唇で器用に破片を口に入れていく。中のバニラアイスに噛り付くと、綺麗に歯型が残った。 「あ、ヤギは好き?」 「ヤギ?」 「うん」 「好きっていうか、見たことない。本物は」 「うち、ヤギいるよ」 「たくさん?」 「一匹」  椿ちゃんは窓から外を見た。 「ペット」 「家畜じゃないんだ」 「うーん、まぁ、強いて言うなら草刈り担当大臣かな」  窓の外はやはり一面の緑。牛舎は巨人のように大きくて、遠くにはあのハルニレの木立が小さく見える。雲一つなく、良く晴れていた。太陽が真上にあるので、部屋の中は暗かった。アイスを咥えた椿ちゃんは図鑑を漁って、『北海道の昆虫』と『日本の野鳥』を手に取った。 「ちょっとこれ借りるね」 「何に使うの?」 「復習に」 「復習?」 「うん。昔よく虫採ったり、鳥を観察したりしてたけど。名前とかちゃんと分かんないし」 「名前?」 「なんか、子供の頃って、自分だけの言い方とかしてなかった?」  そういえば、そうかもしれない。イントネーションとかは未だに自分だけ違う時がある。本やインターネットで知った言葉を、実際に使う機会が少ないから。椿ちゃんはポケットサイズの『日本の野鳥』をどこか懐かしそうに捲っている。 「私、ハクセキレイのこと、ずっと『歩くゴミ』って言ってたんだよね」 「は?」  それはあんまりだ。あんなに丸くて、おまんじゅうみたいに可愛い鳥のことをゴミと言える神経が信じられない。 「動きが早すぎて、形をあんまり認識できてなかったんだと思うけど。歩くゴミっていう発想はどこから出てきたんだろう」 「ゴミが意識を持って動いていると思ってたの?」 「うーん」  アイスの下の方の分厚いチョコレートをバリバリ砕いて、しばし黙った後、「あんまり深く聞かないで」と照れながら言葉を濁した。アイスはすっかり木の棒だけになった。 「アズキ連れてくるよ」 「アズキ?」 「ヤギ。牛舎で飼ってるヤギの名前」  可愛い名前だ。草刈り担当大臣のアズキちゃん。 「元気になったら、まずはアズキの散歩かな」  図鑑を携え、棒を咥えて部屋を出て行った椿ちゃんは、しばらくしてヤギと一緒に窓から顔を出した。ヤギを間近で見るのは初めてだった。瞳孔の形が人間と違う。ヤギは横に長い。椿ちゃんのは丸い。思ったよりも小さくて、脚の間にすっぽり入っている。イメージにあったような真っ白じゃなくて、ブラウンが混ざっている。小さい角が生えていた。 「子ヤギの頃はもっと可愛かったけど、ま、大人になっても可愛いか」 「可愛い、と思う」 「人懐っこいからねー。散歩の時もリードいらないし」 「どっかに行っちゃったりしないの?」 「うん。この子はずっと付いてくる。牧場の中は車も走ってないから安全だし」  アズキは椿ちゃんの脚の間で大人しく草を食べていた。唇を動かして細長い草を口の中に入れる。束ねた草の根元を歯で切り取る。もごもごと顎を左右に振って、よく噛んでいる。噛んでいる時は顔を上げて、横長の瞳で遠くの雲を見つめている。草を噛み締めている間にも雲は流れていく。何だか力の抜ける光景だった。 「それじゃ、午後も働いてくるかなー」 「うん」 「アズキと遊びたかったら、しっかり休むこと」 「分かった」  くるんと振り向いて歩き出した椿ちゃんをアズキは追いかけていく。遠くで牛たちが草を食べている。そこに向かって、二人はまっすぐ進んでいく。小さくなっていく後ろ姿を私はベッドの中から見ていた。  いつからだろう。私の見る景色はいつも見送る側だった。  小学校に入った頃から、ずっと居心地が悪かった。幼稚園の頃のことは何も覚えていないので、物心付いてから私の生活はずっと居心地が悪いのだ。 教室の狭さ、校庭の広さ。窓の大きさ、プールの水の冷たさ。教室と廊下の温度の違い。そういう温度差みたいなものが世界中に溢れていることに、いつしか気が付いてしまった。人は私が望むよりも私に興味がない。私は私が思うほどに優しくなれない。先生も友達も、恐らくは親だって、結局は自分自身のことが一番だ。  友人同士で一見楽しく会話をしていても、本当は相手に何の興味もない。教師が語るだけの授業も白けていた。教科書やテレビやネットで見たものを、知ったかぶりの解釈で取り繕って、ありふれた言葉でとびきり薄っぺらに仕上げて、皆で何となく共感したフリをして、それだけだった。それが私に充てがわれた物語の全てだった。私の心と世界の有り様には決定的な温度差があった。  日常をそんな風にしか思えなかった私は自発的にも、強制的にも、どんどん独りになっていった。言ってしまえば浮いていた。  私に残された最後の居場所は図書室だった。そこは一年を通して一定の温度に保たれていた。本を守るため。快適な読書の環境を保つため。他にもたくさんの理由があるのだろうが、少なくとも孤独な私に落ち着く空間を与えるためではなかっただろう。棚から本を選んできて、立派な木の机に腰掛ける。分厚い本を読んでいるだけで、少し偉くなった気がした。  アルセーヌ・ルパンはいつも私をわくわくさせてくれた。ジュール・ヴェルヌの描いた『海底二万哩』への旅は私を言葉の海にどっぷりと潜り込ませた。本の中は身体が熱くなる冒険や心を温かくしてくれる台詞や素敵なヒーローで溢れていた。どんなに短い文章も私を見捨てたりはしなかった。彼らはページを捲る小さな指をちゃんと待っていてくれるし、物語のどんなに急いでいる場面でも、鈍臭い私の脳を置いていったりしなかった。プールの授業を知らせるチャイムが鳴った。席から立ち上がることができない私を物語だけが独りにしなかった。  永遠とも思えた読書の時間。私はずっと待っていた。小説に出てくるような美しく、気高く、勇ましい人を。手を取って窓の外に連れ出してくれる、椿ちゃんのような人を私はずっと待っていたのかもしれない。  夕陽がガラスをすり抜けて、天井は赤く染まった。クジャクチョウの翅の色のようだった。風はだんだんと温度を失って、私の熱を攫っていく。そうして私に夜が来た。  ○  夜、すっかり熱が下がった私を、庭で星を見ようと椿ちゃんが誘ってくれた。まだ重たい脚を引きずってどうにかこうにか外に出ると、「昔より星が減った」という椿ちゃんの言葉が信じられない程の満点の星空が広がっていた。夜空を流れる天の川をおそらく私は初めて見た。『知られざる宇宙図鑑』で勉強した星座は、きっと、この星空に全てある。よく目を凝らして、観察すればきっと全て見つかるはずだ。 「南半球のは無理じゃない?」  芝生の上に大きなブルーシートを敷いて寝転がった椿ちゃんはいつもより細長く見える。私の育った街にはない純粋な闇夜だった。 「このシート、香ばしい匂いがする」 「乾草の下に敷いていたやつだからかな。臭い?」 「大丈夫」 「埃っぽいのは我慢して。そんなのしかないからさ」 「大丈夫だって」 「あれ?」 「何?」 「なんか不機嫌?」 「そうでもない」  椿ちゃんはあははと笑った。 「星、綺麗」 「そうでしょ?」 「うん」 「ちょっと前までは五等星でも超くっきりだったんだけど、少し空が明るくなったのかな。近くに新しい工場ができたって聞いたし」 「工場?」 「うん。牛乳の」 「牛乳の工場?」 「そう」 「牛乳って工場で作るんだ」 「そりゃそうでしょ」 「昨日飲んだのは、普通の鍋で作ってた」 「あれは特製。生産者にしか出来ない芸当だから」 「そっか」 「この牧場で取れた牛乳もその工場に運ばれるわけ。そこで混ぜ合わせて、きちんと殺菌されて、牛乳パックに詰めて、いつもの牛乳になる」 「おいしい牛乳?」 「メーカー違うけど、まぁ、そう。割とおいしい牛乳」 「割と?」 「牛乳も本当は個性があって、牛ごとに味が違うんだ。季節とか、健康状態でも変わるし、もちろん餌でも変わる」 「知らなかった」 「放牧して草を多く食べてる今は少し青臭くて、穀物をたくさんあげると脂肪分が増えて甘くなる。甘い方が『いつもの味』って感じて人気だし、あんまり個性が出過ぎないように工場に集めた牛乳を混ぜ合わせるの。出来るだけ味が変わらないように」 「個性はあった方が良いでしょ」 「牛乳に個性あったら、絶対ビビるよ。同じ牛乳パックで、見た目も大体白くて、でも、一本ごとに味違うとかやばいでしょ」 「そうかな?」 「クリーム大福みたいな味の牛乳の後に、よもぎ餅みたいな味の牛乳きたらやばいでしょ」 「やばい」 「でしょ?」 「そっか」 「そう。そういう個性を楽しむのは牧場の特権なんですね」 「そういうものなんだ」 「そうなんです」 「そういえばさ」 「ん?」 「椿ちゃんって彼氏いるの?」 「あ、流れ星」 「嘘」 「別にどっちでもよくない?」 「別に隠すこともなくない?」 「まぁ」 「いるんでしょ?」 「いるいる」 「へぇ。どんな人?」 「どうでもよくない?」 「彼氏いないから気になんの」 「親戚の彼氏なんて世界で一番どうでもよくない?」 「私は彼氏いないんだから気にしてもいいでしょ。椿ちゃんは彼氏いるんだから、彼氏いない人には優しくしないといけないんだよ」 「彼氏いないことが偉いみたいになってんじゃん」 「私が惨めだって言いたいの?」 「分かったよ、分かった」 「分かってくれた?」 「うん」 「彼氏はー、そうだな、んー、お助けロボみたいな人」 「お助けロボみたいな人?」 「そう、猫型の」 「便利ってこと?」 「いや、便利っていうのは違う」 「あんな便利な人間いないよね」 「人を便利って言い方もどうかと思うけど」 「じゃあ有能?」 「有能ってのも違くて。未来の道具とか怪力とかのロボット的な要素は、そのキャラの陽の部分というか」 「陽?」 「うん」 「え、陽?」 「まあ、そう。そうなの。私が言いたいのは、そこに隠れた陰の部分が似ているな、ってことで」 「陰?」 「うん、まぁ」 「え、陰?」 「もういいでしょ! 語彙力の問題だから許して」 「つまりどういうことなの?」 「なんていうか、夜、私が眠れない時に押入れから顔を出して声を掛けてくれる、っていうそういう、ただそれだけの関係が心地良いっていうか」 「同じ部屋で、別々に寝てるの?」 「ベッド狭いからさ、そういう時もあるよ。暑い日とか」 「ふーん、そういうものなんだ」 「そういうもの」 「何もなし、って日もあるの?」 「うん」 「それは私が想像してた彼氏彼女の関係と少し違う」 「え?」 「小説に出てくる若い男女っていうのはさ、もうすぐエッチしちゃうから」 「あー」 「本当に信じられないくらいすぐエッチするもんだと思ってた」 「人それぞれじゃない?」 「そうなんだ」 「それにすぐそういうことになる時と、そうじゃない時ってのがある」 「例えば?」 「まぁ、仕事で疲れている時とか」 「バイトとか?」 「あ、いや、私の彼氏、年上で、もう社会人」 「どれくらい上なの?」 「六つかな」 「まだ若いじゃん」 「まぁ、私もちょっとイメージと違ったけどさ」 「そうなの?」 「だって考えられる?」 「なになに?」 「『今日は疲れたし、暑いから、別々に寝よう』って言うんだよ」 「うわ」 「ありえないよね?」 「多分」 「多分?」 「いや、彼氏いたことないから」 「ああ、そっか」 「うん」 「ごめん」 「いいよ別に」 「でも、ほら、そう。もし、光が私の彼氏だったら、別々に寝る?」 「それはないね」 「でしょ? いくら楽だからってさ」 「女子大生が押入れで寝ている彼氏とのんびり快適ライフだなんて」 「そうなの。で、夜な夜な思うわけ。『私、これでいいのか』って」 「うんうん」 「で、色々考えて、夏休みは実家に帰ってきた」 「あ、『色々』ってそういうことなんだ」 「え?」 「まぁ、でも、私からしてもそんなの物足りないな。そんなの老後に満喫すればいいじゃん。どうせ若いならもっと激しい恋がしたい」 「彼氏いないくせに何言ってんだ」 「拗ねるよ?」 「あ、流れ星」 「嘘でしょ」 「今度は本当」  椿ちゃんはあははと笑って、小さい頃読んだ科学の絵本のように星が煌めく夜空をまっすぐ指差している。その人指し指からはビームが出るような気がして、笑いそうになった。 「本当の『色々』はその続きなんだよね」  独り言のような小さな声だった。 「何か、良く分かんないんだけど、私のことを好きだっていう人が他にも出てきたんだ」 「え?」 「自慢じゃないんだけど」  十分過ぎるほどの自慢なのだが。しかし、まあ、いいか、別に。 「そいつは私と同い年で、同じ学部で、それがまあ良い奴なのよ」 「良い奴?」 「良い奴だし、結構できる奴なんだ」 「できる?」 「なんて言えば良いんだ。うーん、さっきの話で言えば出来過ぎなクラスメイト?」  表現力の全てを名作アニメから学んでいるのだろうか。 「その出来過ぎな男はすごく良い人だし、家も何かの会社を経営しているみたいなんだけど、友達だから私に彼氏がいるのも知ってて、『それでも一応伝えたい』ってさ」 「何て応えたの?」 「何とも言ってない」 「え?」 「つまりさ」 「ん?」 「私は今、キープしてるんだ。その出来過ぎな男を」  大学が一体どんな場所なのか、すっかり分からなくなってしまった。大学生は土管のある空き地で野球をしていて、金持ちと猫がどら焼きを食べている。そんなイメージが湧いてきた。 「それが『色々』」  贅沢というか、何というか。いくら出木過ぎな男が望んだこととはいえ、そんな状態のままお茶を濁しているなんて、ほとんど浮気と言っても良いのではないだろうか。 「お助けロボとは微妙な感じだし、出来過ぎ男とはちょっと気まずいし、お母さんにも頼まれたし、こうして実家に帰ってきたってわけ」  ぶちぶちという音がした。椿ちゃんの方を見てみると草を千切っていた。千切っては捨て、千切っては捨て、草の山を作っている。私はこの美人のことをどこか神聖視していたみたいで、椿ちゃんが実家に帰ってきた色々というのが恋愛に関することだったことは、正直予想外だった。 「つまり、乗り換えようかな、ってこと?」  椿ちゃんはあははと笑った。 「そうです」 「そうなんだ」 「意外?」 「いや、別に」 「あれ? また不機嫌?」 「そんなことない」 「そっか」  物語の世界のような夜空の下で、私たちは酷く醜い現実の話をしている。夜風の冷たさがここが北国であることを教えてくれた。 「私のこと話したんだから、光のことも教えてよ」 「私の?」 「うん。恋バナでも悩み事でも何でもいいから」 「恋バナは何もない」 「嘘でしょ?」 「マジで」 「マジで?」 「うん。その辺の虫の方が私よりちゃんと恋してると思う」 「じゃあ、何か悩み事は?」 「悩み事」 「ある?」  無ければここにいないだろう。 「学校に行ってない、ってこと以外で」 「それ以外?」 「だってそれはもう知ってるし」 「うーん、あー、そうだなー」  悩みはあるけれど、誰かときちんと話すこと自体が久し振り過ぎて、それをきちんと言葉にしたことはなかった。 「私さ、学校に行きたくないとか、部屋に引き篭もっていたいとか、そういう願望がある割に、部屋に一人でいても時々鬱状態になるんだよね」 「ふーん」 「部屋で本を読んでると、本の内容に自分自身が引っ張られたりしてくるじゃん」 「うん」 「例えば、昔、『レ・ミゼラブル』って本を読んだ時はさ」 「うん」 「すごい昔に書かれたフランスが舞台の超大作で、外見だけだと人を殺せる鈍器みたいなビジュアルなんだ」 「二時間サスペンスドラマみたいな?」 「そう。たまたま部屋に置いてあった鈍器みたいな。カッとして、持って、後頭部殴っちゃうような」 「そんなの読む気になんないわ」 「まぁ、当時の私も結構身構えた」 「でも、読んだんでしょ?」 「二回くらいは挫折したかな。読破するのに三ヶ月はかかったし。しかも、そんなに分厚い小説なら、物凄い壮大なお話があると思うでしょ? 未知の生命体と遭遇するとか」 「願いが叶う聖杯を手にするとか?」 「空色の猫型ロボットと友達になるとか」  椿ちゃんがあははと笑う。 「実際はどんなだったの?」 「主人公の男が貧乏で、家族のためにパンを盗んで、捕まって、脱獄して、今度は銀の食器を盗んで、それでも許されて、人のために真っ当に生きていこうとする。言ってしまえばそれまで、って感じ。主人公の話だけで言えば、本当にこれだけなの」 「え?」 「これが挫折した理由なんけど、この話の肝心な部分は群像劇であることだったと思うんだよね。中学の時の私にとって群像劇ってまだ馴染みがなくて、どうしても物語は主人公を中心に進んで行くものだと思っていたんだけど。挑戦三回目にしてフランス革命当時のフランスに生きる人達の皆のお話だってことなんだと感じたんだよね」 「群像劇って、色んな人の視点で描かれているってこと?」 「うーん、視点はあくまで主人公が多いんだけど、盗みを許された後の主人公の行動が色んな人を変えていくのよ。革命の混乱の中で、前だけを見て走っている人とか、自分にはもはや自由や未来はないと思い込んでいる人とかに色んな気づきを与える存在になるというか。まぁ、これ以上言うとネタバレになっちゃいそうだから」 「いいよ。多分読まないし」 「まぁ、それはそうかもしれないけど、私ネタバレって絶対許せない派だからさ」  椿ちゃんはきっと読まないだろう。モテる女子が読む本ではない。作者にも椿ちゃんにも失礼だが、勝手にそう思ってしまう。私のような鬱屈した人間にこそ、あの長い物語のトンネルが必要だったのだから。 「それで、その本がどういう風に鬱状態に繋がってくるの? 読み終わったら、むしろ達成感がありそうなもんだけど」 「あー、えーと、何て言うか」 「うん」  目を閉じて、自分の部屋を思い出す。小さな窓から、向かいの高層マンションに貼り付く無数の窓が見える。窓は光を反射して何かを映しているが、記憶の中では只真っ白に見える。それはただの曇り空だったかもしれないが、私の心に何にも映っていなかったから、描き残されたままになっているのかもしれなかった。体温が上がる。汗がじんわりと出て、ブルーシートに接している背中が不快で、私はゴロンと椿ちゃんの方に寝返りを打った。 「物語の中では、主人公もその周りの人たちも少しずつ変わっていって、自分も『何か良く分かんないんだけど頑張ろう』とか思うんだけど、読み終わって何日かした後、部屋でお菓子とか食べている時に、その勇敢なお話を読んでいた自分は結局何一つ変わっていないことに気付いちゃうんだよね。それからはしばらく、まぁ、何て言うか、軽く鬱状態って感じ」 「ねぇ」 「何?」 「その鬱状態って、どういう状態?」  何故そんなことを訊くのか。何故そんな惨めなことを説明させるのか。ここに来てから色々と良くしてくれている椿ちゃんのことを悪く思いたくなかったけれど、弱者に対して思いやりのない人なんだとはっきり感じてしまった。彼女の強さや美しさがそうさせているのだと邪推した。 「ごめん、部屋、戻る」 「あ、ごめん、待って」  ◯  次の日、私は朝から塞ぎ込んだ。布団から出ず、声を掛けにきた叔母さんをどうにか追い返し、お菓子を持ってきた椿ちゃんを追い出して、窓の外、遠目からこちらを覗いている叔父さんも無視した。こうやって私はまた居場所を失うのだろう。母の笑顔を失ったように。閉じ籠る自分の部屋すら失ったあの日のように。古い小説で読んだ精神病棟の描写が浮かんできて、体の震えが止まらなくなった。終にはあんな地獄に行くのだろうか。どこまでも晴れ渡る大空は大気圧となって肺を押し潰す。焼いた卵とウインナーの香りが部屋を少しずつ侵して、道なき道を闊歩する牛達の歓声が目を瞑った私を現実に連れ戻す。ここでは全てが現実で、持ってきた本も全て現実の理が書かれていて、逃げ込める空想の世界すらない。  頭まで毛布に包まって、毛虫のように転がっていると掠れた叫び声が聞こえた気がした。目を開けると毛布の薄緑色が視界一杯に広がっている。均一な視界のせいか、それとも気が付かない内に眠っていて、たった今、夢から覚めたからなのかは分からなかったが、音が良く聞こえるようになった。 「おいで。おいで」  誰かが誰かを呼んでいる。 「こっちにおいで」  しわがれた声でこちらに来いと呼んでいる。喉が潰されているのか、叫んでいるのに声はその場に落ちて、床下から言葉の意味だけがぶくぶくと浮き上がってくるようだった。こちらとはどこなのか。そこに行ったらどうなってしまうのか。不意にベッドの底が抜け落ち、幾つかの次元を越えてブラックホールの底まで落ちていく感覚に襲われた。部屋の直方体が歪み、世界は薄緑色の毛布と同じ形になる。毛布の形はどこまでも不確かで、遂に私はアインシュタインが唱えた宇宙の特異点に吸い込まれた。とうとう頭が逝かれたのか、それとも、こんなにも救いのない、唐突で、不条理な物語が私にはお似合いということだろうか。 「椿ちゃーん。こっちにおいでー」  はっとして、毛布から飛び出ると、そこはようやく見慣れてきた椿ちゃんの部屋だった。時計の針はいつも正確で、お昼前であることを知らせていた。部屋はきちんと角ばっており、時空の歪みは観測されなかった。冷静になって考えれば、声の主は祖母だ。午前中、家に残っているのは祖母と私だけだった。 「早くおいでー」  心配で、黙っている訳にもいかず、部屋を出て祖母を探すとリビングの窓から脚を出して、床にぺたりと座っていた。話し掛けると祖母は正面を指差した。指先の庭には白樺の樹が植えられていて、その根元に大きな青い皿が置かれていた。陶器の皿には水が溜められていて、一羽の鳥が縁に留まって水を飲んている。鳩くらいの大きさであまり見ない鳥だったけれど、確か『北海道の野鳥』の中にいた。 「鳥?」  頭が渋いオレンジ色で、翼が黒と白と鮮やかな青の班で彩られている。 「この鳥、椿ちゃん好きだったでしょう?」  私のことを椿ちゃんだと勘違いしている。祖母は糸目の奥の瞳で鳥を見つめたまま、しわしわの優しい声でそう問いかけた。 「そう、だったっけ?」  私はどう返したらいいのか分からず、会話を続けた。 「そうそう。この鳥は何ていう名前だったかねぇ」 「この鳥の名前?」 「昨日、私に教えてくれたでしょう? ほら、えーと、なんて言ったっけねぇ」 「ミヤマカケス」 「あぁ、そうそう。ミヤマカケス。よく覚えているねぇ」 「本で見たから」 「熱心に読んでいたからねぇ」  とても美しいカラスの仲間。皿の中に飛び込んで、くるくると機敏に羽根を動かす度に水がちゃぷんちゃぷんと跳ねる。水を浴びた翼の青は金属よりも光輝いていて、図鑑の写真を見た時の印象を遥かに超えていく。青い皿は野鳥のための水飲み場になっていて、祖母は毎日水を替えて一日それを眺めていることもあるのだと言う。水浴びに満足したミヤマカケスは皿から離れ、大股で歩みを進めた。首を振って辺りを確かめながら、満開のウツギの白い花の方に向かっていく。 「鳥は毎日見ていても飽きないんだよ」  鳥が跳ねる。 「ほら見てごらん」  何かを咥えている。 「カミキリムシがいたんだね」  玉虫色に輝く虫が嘴に挟まれて、もがいている。細長い胴体は場所によって緑や赤に見えて、不思議だった。 「あれ、光ちゃんじゃないかい?」  相変わらず祖母の糸目はどこを見ているか分からないが、顔が私の方を向いているので、きっと私を見ているのだろう。 「よーく似ているから、全然気が付かなかったね」  そう言って、祖母はあははと笑った。この笑い方はきっと遺伝なのだろう。顔の作りも全然違うし、祖母の白髪も薄くなってきているのに、親子三代の笑い方は瓜二つだ。瓜が三つの場合、何て言えばいいんだろう。 「光ちゃんも鳥が好きなのかい?」  どうだろう。私は少し言い澱んで、「この鳥は好き」と応えた。煌びやかなミヤマカケスは美しい虫を咥えたまま、飛び立ってしまった。  私の母がどうやって笑っていたか思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。いつから私と母は笑い合っていなかったのだろう。 「綺麗」  私は飛んでいく鳥を見送っていた。曇り空の白が鳥の彩色を見易くしてくれている。祖母は見慣れているのか、重たそうに腰を上げ、リビングに戻っていった。あれほどカラフルだったミヤマカケスもすぐに小さな黒い点になって、やがて見えなくなった。祖母のゆっくりとした歩みの音はほんの少しずつ小さくなって、私の心を丸く削っていく。 「光ちゃんはドーナツ好きかい?」  振り返ると、祖母はにこにこと私を見ていた。テーブルの上のバスケットからドーナツが二つ入った袋を取って、私に見せている。 「私の好物なんだけど。分けて食べないかい?」  祖母の糸目が更に細く、皺々になって、私は何にも言えなくなってしまった。祖母はゆったりとした所作で白い小皿を出し、ドーナツを取り分けている。コップに牛乳をなみなみに注いでくれる。心配して見に来たはずなのに、すっかり私が世話をされている。 「ここのパン屋は美味しいんだよ」  窓辺に並んで座ってドーナツを食べながら、今度は図鑑でカミキリムシのことを調べてみたいと話した。蝶以外の虫にはあまり興味が湧かなくて、読み飛ばしていた部分もある。 「光ちゃんも椿ちゃんもよく勉強していて、本当に偉いねぇ」  そんな風に言われて、少し泣きたくなったけれど、恥ずかしくてなんとか堪えた。昼寝のため自室に戻った祖母を見送ってから、自分の幼さが辛くて、再び引き篭もっている。雨の降る夜。風がとても強かったが不思議とお腹は空かなかった。  ○  雨が燃えている。朝焼けが雨雲を赤く焦がしている。この家を包んでいる草木から白煙が上がる。植物から吐き出された水蒸気が早朝の雨に冷やされて、微細な水粒子に姿を変えていく。もうもうと立ち込めた霧は、庇の下の直接雨に当たらない部分すら黒く濡らしていく。  物事を綺麗に二つに分けることなど本当はできないのかもしれない。窓の外と窓の中。壁の向こう側とこちら側。それらは二つに別れているようで、本当は同じ風が吹いている。同じ匂いがして、雨の音が聴こえている。星明かりはベッドのシーツを照らし、私に陰を作る。太陽のような人もきっといないし、卑屈な私は月みたいに美しくない。お酒は二十歳から、なんてことでさえ国によって変わる。そもそも選挙権が十八歳から、というのも誰かが勝手に決めたおかしなルールだ。どんな小さな赤子にだって投票する権利自体はあるべきだと思う。投票するかしないかは別として。全ての人は遠大な家系図で繋がっているのだから。  あなたは「こう」と言われたって、そんな「こう」というだけの人間はいない。あなたは子供。あなたは大人。あなたは赤。あなたは青。あなたは黄色。あなたはお調子者。あなたは根暗。あなたは正直者。あなたは嘘つき。そう言われればそういう気がしてくるだけの、平日の朝のテレビの占いみたいものだ。生活の中で溢れかえっている普段の言葉にはそういう包容力あるいは暴力的な曖昧さが含まれている。  それでも今、例えばインターネット上での短いコメントで、あなたは「こう」、私達は「これかあれ」と言ってしまう時というのは、粗暴な言葉というものについて、きちんと考えることを放棄してしまった時なのかもしれない。誰かの目を見て、誰かに話し掛ける時、今、送信しようとしているその言葉を使うことができるだろうか。そういう想像力が大切なのかもしれない。物語を書くように言葉を紡いでいけば、誰かと話すときの言葉の選び方だって、きっと変えられるはずだ。  よく寝て、頭が冴えている。思考は高く飛んで、イメージが熱を持って膨らんでいく。昨日までのことを思い出すと胃の上の方がじんわりと痛くなる。  椿ちゃんにとても酷いことを言ってしまった。後悔は真鯛の骨のような鋭さで喉の奥に突き刺さっている。椿ちゃんは私のことを「こう」だなんて言わなかった。知らないものを知ろうとしただけだ。逆に私は頭の中で勝手に描いた聖女のイメージを勝手に押し付けて、それ以外の椿ちゃんを受け入れようとしなかった。どう考えても単純に、全て私が悪い。  今思えば、自分の言動のせいで何かを失うことばかりだった。誰かと話していると理解できない部分が出てくる。愚鈍な私を置いて、どんどん話は進んでいく。理解できないのでよく考えず、受け入れられないから拒絶して、逃げたくなって頭の中で独りになる。辛い気持ちになりたくていじける。本の世界に逃げ込んで、そこに閉じ篭もる。心の底では外に出たいのに、本の主人公達も精一杯勇気付けてくれるのに、私は蹴つまずく。海底を目指す潜水艦のように柔らかい羽毛の中に深く沈んでいく。どこまでも深い言葉の海はだんだんと光を失い、私の脚から水圧に争う力を奪ってしまう。誰もここから助けてくれない。そんなことはずっと小さい頃から分かっていた。  私がここに来たことで椿ちゃんの部屋を奪ってしまっていることが後ろめたくて、ヤギのアズキに会いたくなったのもあり、牛舎に向かうことにした。外の空気は驚くほど冷たかった。北国にもうすぐ夏の陽が昇る。夜明け前の空を初めて見た。宇宙まで抜けていくようなサーモンピンク。雨はすっかり止んでいたけれど、牧草に付いた露のせいで水色のスニーカーは泥だらけになった。  牛舎の巨大なシャッターの横に小さな人間用のドアがあった。鍵は開いていて、中に入ると動物の臭いが立ち込めていた。少し酸っぱい臭いもする。牛達はもう起きていて、白黒の巨体をのそのそと動かしている。体重は私の十倍はありそうだ。今まで見てきた世界とは物の大きさが根本的に異なるので戸惑った。牛舎を中から見ると、想像していたよりもずっと広くて、天井は学校の体育館よりも高い。アズキもここで飼っていると言っていたけれど、大きな牛が何頭も蠢くこの場所で、あの小さなヤギを見つけることはとても不可能なことのように思えた。 「あら?」  あ。 「どうしたの?」  見つかってしまった。 「あらあら、泥だらけ」  その場で動けない私の足元を見ていた叔母さんは、あははと笑ってうんうんと頷いた。 「そういう時もあるか」  高く積まれていた乾草の陰から、黒い仔牛が出てきた。仔牛は叔母さんに縄で引かれながらも、しっかりと自分の脚で歩いている。脚はぽきりと折れてしまいそうな程に細く、少し不安な気持ちになる。 「こんなに早いんですか?」 「うん?」  叔母さんは大きな目をパチパチとさせた。とてもはっきりとした二重。仔牛に負けず、睫毛も長い。母にはあまり似ていない。当然、私にも。 「いつも、こんなに早くから?」 「あー、今は放牧してるから、朝、牛を出してあげないといけないんだよ」 「放牧ってずっと外にいるんじゃないんですか?」 「それだと牛乳絞れないでしょ?」  確かにそうだ。 「牛も牛乳を絞ってほしいから夕方にはここに戻ってくるの」 「絞ってほしいの?」 「そうそう。絞ってもらわないと苦しいでしょ。おっぱいが」  おっぱいが苦しくなったことがないので良く分からなかった。張っている時みたいなものだろうか。 「それはそうと、お手伝いしてくれるの?」 「え?」 「あれ、違った?」  正直に言えば、アズキに会いたいだけだった。 「私にも何かやれることないかなって」  どうしていつも、こんな風に取り繕ってしまうのだろう。 「あ、アズキのお世話とか!」 「アズキのお世話か!」  それでも叔母さんは笑顔で応えてくれた。 「それは助かる。椿は全然ダメだから、今日は『眠いからパス』だって」  母が娘のモノマネをするとさすがに似ている。 「じゃあ、仕事の前に何か食べてくるかい?」 「大丈夫です。お腹はあんまり空いてないから」  正直に言うと、椿ちゃんがここにいないと知って、少し安心したからだ。それでも叔母さんは頷いた。 「それじゃ、光ちゃんにはアズキとこの子たちのお世話をお願いしようかな」 「仔牛?」 「そう」 「この子が大きくなると白黒になるの?」 「いや、この子達は肉用だから」 「肉用」 「そう、黒毛和種とホルスタインの交雑種。だから黒いんだよ」 「なるほど」 「きっと光ちゃんも食べた事あるよ」 「そう、なんですか?」  叔母さんは大きな胸を揺らすように笑っている。笑われているような気もする。 「ひとまず長靴に履き替えておいで。そこのロッカーに並んでいるの、適当に履いていいから。服はそのままでも臭くなるだけだから平気だし。ほらほら、テキパキしないと陽が昇っちゃうよ」  長靴を探していると従業員の人達に会った。彼らはびしっとつなぎを着こなして、無駄のない動きでそれぞれの仕事をしていた。大きなフォークを持って牛の檻に向かう人。牛の脚に青い包帯を巻いている人。何かの機械のスイッチを入れている人。各々が別々の役割を持って、夜明け前から働いていた。それでも私とすれ違うと「おはよう」と挨拶をしてくれる。笑顔の人もいれば、真顔の人もいた。真顔の人が長靴の場所を教えてくれた。私は自分が何者なのか説明しようとあたふたしていたが、叔母さんが言った。 「皆、あなたのこと知っているから大丈夫」  ウンウンと近くで仕事をしていた人達が頷いた。 「本当に小さい頃に、会ったことあるんだよ?」  丁度良いサイズの長靴を探す私を横目に、叔母さんは年の近い従業員の男の人と「覚えてないのも仕方ないか」「お互い歳だねー」なんて言い合いながら笑っていた。結局、ぶかぶかの長靴しかなかった。豪快に笑う叔母さんの立派な脚に比べて、私のふくらはぎはどうしてこんなに頼りないんだろう。  ○ 「さて、ここからは教科書にも載っていない、実際の仕事をしてもらいます」  アズキと仔牛の檻は隣り合っていた。というより、アズキが仔牛用のケージに入れられているようだ。同じサイズのケージが幾つか並んで、二頭の黒い仔牛が一頭づつ入れられている。一番端のケージにはアズキが大人しく座って、口をもごもごさせていた。 「まずはフォークを持ってください」  ゴロンと置かれている乾草ロールに一メートルくらいの大きなフォークが刺さっていたので抜いてみる。長さがあるせいか思ったよりも重たい。 「そう、それです」 「なんとなく分かりました」 「なんとなく分かる、って大事なことだね」  あははと笑いながらも指導が続く。 「まずはフォークを使って汚れた敷き藁を取ります」 「はい」  叔母さんはくすくす笑いながら、仔牛のケージを開け、檻の中に入る。仔牛は立ち上がって叔母さんの腰の匂いを嗅いでいる。身体で仔牛を端に寄せて、空いたスペースの敷き藁にフォークを突き立てる。フォークを振り上げると敷き藁がごそっと持ち上がる。藁の表面は一日分の糞や尿で汚れている。それを毎日取り替えてやる必要があるのだ。 「敷き藁には足を滑らせないようにする効果もあるんだよ」  重たい鉄の鍵を開け、アズキの檻に入る。近くで見ると、ころころした黒い糞がたくさん落ちている。身体ごとぶつかってアズキを端に寄せてみる。大人しいアズキは仕方ないといった風に立ち上がって、私の背中側に回ってくれた。フォークを敷き藁に刺してみる。水分を含んで重たくなった敷草を上手く掬うことができない。隣で叔母さんが何倍もの量の敷き草を一度に掬い上げて運んでいる。「もっと腰入れて!」と言われたって簡単に腰は入らない。自分なりに腰を入れてみたところで、振るったフォークは深く刺さらず、表面の藁数本とそれらに絡みついた幾つかの糞が持ち上がるばかりだった。 「取れた藁は台車に入れてね。後で捨てに行きましょう」 「はい」 「大丈夫かい?」 「あ、あの」  最初の最初から上手くいかないことに焦って、気まずくなってくる。 「何?」 「ヤギって足を滑らせることあるんですか?」  気まずくて、変な質問をして、小賢しく時間を稼ごうとしている。それが分かって、自分で自分が嫌になる。 「あ、あの、図鑑で、ヤギはどんな岩場や崖でも登れるって読んだから、滑ることなんてないのかなって」  答えを聞き逃さないように気を付けてばかりで、フォークの扱いはちっとも上手くはならない。ちらっと叔母さんを見ると、叔母さんは淀みない動きで藁を取り続けていて、ケージ内の藁はきれいさっぱりなくなっていた。 「んーと、なんていうか、ヤギとか牛とかって、ずっと爪先立ちしている感じなんだよ」 「爪先?」 「何て言えばいいかな、バレエみたいな感じというか」 「バレエ?」  叔母さんはフォークを胸に抱えてしゃがみ込んだ。目線の高さを合わせて仔牛の首筋を撫で、その手をだんだんと下に降ろし、前脚に当てた。 「光ちゃんはアズキの脚を見てみて」  脚が四本生えている。白く短い毛が生えた細い脚の一番先に二股に分かれた黒い蹄がある。  「蹄があるでしょ。それは人間の身体でいうと爪なのよ」  蹄が爪。 「そこから一つ上、脚の真ん中辺りにある関節が足首」 「え?」 「で、そこから上が人間でいうところの脚ね」  混乱する私に叔母さんは身振り手振りで示す。 「つまり、この子達の脚の下半分が人間の足で、足が指で、指が爪先っていうのかな。ヤギとか牛の仲間は、ずっと二本指で立っているの」  頭で理解するのは難しいけれど、一つずつずれているイメージだろうか。 「分かる?」  私が頷くと、叔母さんは仔牛を見る眼差しで私を見ていた。 「それでコンクリートは滑りやすいんだ。爪先で立ってたら、硬くて平らな床じゃバランス悪いって、なんとなく分かるでしょ?」  叔母さんはまた作業を始めた。今度は新しい藁を敷いていく。乾草ロールから剥ぎ取るように藁を解して、フォークでまとめて運ぶ。ケージに入れたら更に解す。 「ふわふわにしてあげてね」  私がアズキのケージの古い敷き藁を取り切る間に、叔母さんはもう一頭の仔牛の敷き藁の交換も終えてしまった。叔母さんが仔牛用の牛乳を取ってきている内に、新しい敷草を敷き詰めなければならない。乾草ロールから藁を剥がす。これは思ったよりも上手くできた。新しい乾草を解しながら敷いていくとふわふわに広がっていく。想像よりもずっと軽かった。大きな哺乳瓶を二つ抱えた叔母さんは何故が笑いながら帰ってきた。 「私も説明が下手だよね」 「え?」 「あんな説明じゃよく分からないでしょ?」 「あ、えーと、脚の話?」 「そう」 「いえ、よく分かりました」 「姉ちゃんに似て、光ちゃんが頭良くて助かった」 「いや、本当にそんなこと」  哺乳瓶に仔牛達が喰らい付く。 「誰でも苦手なことってあるよね」  痩せっぽちの脚で必死に踏ん張って牛乳を飲む仔牛達を叔母さんは優しく見つめている。敷き終わった藁をアズキが食べ出したので、急いで乾草を運んできて、餌用の籠に詰める。少しコツが分かってきた気がした。どうしようと考えてから動くんじゃなくて、頭で考えながら身体を動かす。そうすると、自分の身体の形がはっきりとしてくる気がした。指はフォークをしっかり掴んでいる。肩を回し、腕を振り上げて、藁に深く刺す。柔らかい感触が手に伝わる。 「餌の藁は特別にふわふわにしてあげてね」 「ああ、そっか」 「分かる?」 「その方が美味しそう」  アズキはふわふわの藁に顔を突っ込んだ。気持ち良さそうで、私まで嬉しくなった。  それから少しの間、休憩となった。休憩の間、叔母さんと私の母の話をした。昔から負けず嫌いだったこと。学校の成績が良かったらしいこと。姉妹で比較されて悔しかったなんていう思い出話。母の優しいところ。少しヒステリックなところ。たくさんの嫌いなところ。たくさんの好きなところ。そんな話をした。  空気を震わすエンジンの音が遠くから聞こえてきた。久しぶりに聞いた気がした。 「親父のバギーが到着したかな」  太いエンジンの音が段々と近づいてきて、大きなトラックも通れそうなシャッターが勢いよく開いた。灰色のコンクリートに縁取られた青空に太陽が燃えていた。純粋な白い光が濡れた草地を照らしていた。  ○  叔父さんの乗るバギーは年代物だ。大きな四輪が地面をがっちり捉えて、舗装されてない道では泥がイルカの群れのように跳ね上がる。牛の群れを少し離れた放牧地に連れていくために、時々大きな声を出しながらバギーで後を追う。前方のバンパーの端には冷たい麦茶の入ったヤカンが引っ掛けられていて、ガタガタと音を立てて震えている。たくさんの荷物を載せれるように、座席の後ろに網が付いている。私はその網に乗って運ばれている。大きな水溜まりを越える。お尻が浮き上がる。あんまりにも怖いので、網を掴む指が真っ白になっている。 「ベーベーベー!」  叔父さんが叫ぶと牛達の走るスピードが上がった。がっちりした背中に対して、少し腕が細いように思ったけれど、アクセルを掛けるときには筋肉がぼこんと盛り上がって、黒い肌が筋張った。椿ちゃんの体型は父親譲りなのだろう。時々遅れそうになる若い牛を見つけると、バギーがぴったり後ろに付いて、更に大きな声で叫ぶ。牛の群れはなだらかな丘を幾つも越えていく。鳥が速く、低く飛んでいくように景色は過ぎていく。雨上がりの朝。澄んだ空気に草の匂いが混ざっている。突然、道の両脇が緑に覆われる。とうもろこし畑が一面に広がっていた。 「このとうもろこしは光ちゃんには食べられないんだよ!」 「何でですか!?」  無数の牛の重たい足音と古いバギーのエンジン音のせいで、どうしても叫ぶような話し方になってしまう。 「デントコーンって言って、ものすごく硬いの! 人間には噛み砕けないくらい!」 「牛達の餌用なんですか!?」 「そう!」  こんな普通の会話だって、叫んですると阿呆みたいだ。内容は変じゃないので、笑う訳にはいかず、変な表情でじっと堪えているとバギーの振動で舌を噛みそうになる。 「ベーベーベー!」  叔父さんが叫ぶ。 「それ、何て言ってるんですか?」 「これぇ!?」  うーん、と少し考え込んでいる。右への急カーブがあって、その先の緑には黄色が混ざり始める。世界は忽ちひまわり畑に変わった。 「『遅れるな』って感じかな! 牛語で!」 「牛語分かるんですか!?」 「分かるというか伝えるの!」 「ベーベーベーってそういう意味なんだ!」 「あー、違う違う! 音や言葉に意味があるんじゃなくて、声に気持ちを込めるんだよ!」 「気持ち!?」 「そう!」  叔父さんの背中が大きく膨らんだ。 「ベーベーベー!」  道の端で歩みを緩めた牛の後ろに回り込んで、エンジンを吹かす。ひまわり畑は少し低い位置にあるので、道を外れるとちょっとした崖のようになっていた。 「ほら!」  その牛は再び道の中心に戻って、群れの中で走り始めた。 「今のは『気をつけろ』! 声に気持ちを込めるんだ!」  ひまわりが風に揺らめいて、牛達を前へ前へと後押ししている。 「光ちゃんも!」 「え!?」 「ほら!」 「嫌です!」  叫ぶことなんて、何年もなかったから。 「嫌でもいいから、声出して!」  猛進する牛達が皆、こっちを向いている気がする。 「腹の底から!」  腹の底から思うことなんてあるだろうか。 「前に向かって!」  また、大きな水溜まりを抜ける。身体が上下に揺さぶられる。これまでの人生で積み上げた自分自身の殻は、高く跳ねた泥水が掛かって、何だかどうでもよくなった。網が当たるお尻の痛みで、お腹の下の方に力が入る。 「ベーベーベー!」  私は叫んだ。意味はどうだって良かった。どうせ牛達に理屈は通じないんだ。 「ベーベーベー!」  私はまだ言葉にすらなってない気持ちを叫んでいた。叫んでいる内に、思いっきり舌を噛んだ。強烈な痛みの後、少し血の味がした。腹の底にある心に『痛い』という感情が覆いかぶさったけれど、やはり、それはまだぐらぐらと揺らめいて形がなく、空を見上げるひまわりのように口を噤んでいた。暗い部屋の中に射す光の先を、私は腹の底から見つめていた。  ○  ひまわり畑を抜けた先が目的の放牧地だった。放牧地は幾つかのブロックに分けてあって、牧草の育ち具合を見て、その日、牛達を放す場所を決めるのだと教えてもらった。氷で冷えた麦茶が舌にできた傷に染みた。 「大丈夫かい?」  叔父さんが心底心配そうに尋ねるので、私はいかにも痛くないという顔をした。口を開くと痛いと言ってしまいそうだった。叔父さんはほっと一息ついて、自分のコップにヤカンから麦茶を注いだ。そのままの勢いで、ごくんと一口で飲み干した。 「これで朝の仕事は終わりです」  さっきまで走りっぱなしだった牛達も、今はのんびりと木陰で休んだり、草を食んだりしている。 「そういえば、どうしてあんなにひまわりを植えているんですか?」  叔父さんはバギーに寄りかかって、麦茶を足す。 「ひまわりは成長が早いから、痩せた土地に植えて、鋤混むと栄養になるんだよ」 「栄養?」 「ちょっと難しいかな?」 「あ、いえ、なんとなくは」 「牧草とか麦とか、そういう牛の餌だけを同じ場所で何年も育ててると、どうしても土の栄養がなくなっちゃったり、逆に良くないものが溜まっちゃったりするんだよね。そういうところはひまわりとかとうもろこしを育てて、種以外丸ごと切り刻んで、そのまま肥料にしちゃうんだ。そうすると、次の年、また牛のための餌を育てられる」 「綺麗なだけじゃないんだ」 「綺麗?」 「一面のひまわり畑って、少し憧れてたんです」 「そうなの?」 「東京だと、ひまわりは植えてあっても、こんなに多くはなかったから」 「そうなのかぁ」  叔父さんは麦茶をまた一口で飲み干して、少し意外そうに首を傾げた。 「見慣れた景色だから良く分からんな」  そう言って、ひまわり畑を眺めた。汗ばんだ黒い肌と汚れたバギーとひまわり。海外の小説の装画みたいだった。 「でも確かに、昨日は椿も見に来ていたよ」 「椿ちゃんが?」 「そう。久々に蝶々の幼虫を見つけたいとか言って」 「幼虫!?」  さっきまでのカントリーロード的な感覚がまだ完全に抜けていないようで、馬鹿みたいな大声が出てしまった。 「それでここまで連れてきて、一緒に探したら、めちゃくちゃでかいキアゲハの幼虫がいたんだよ。全身緑色で、うねうねしてる、いかにも幼虫って奴ね。草の中に上手く紛れているんだけど、探せば意外に簡単に見つかるもんだ、って思ってたら、それを大事そうにお菓子の空き箱にしまっててさ。椿が小さい頃は虫も花も牛も見飽きてて、都会にばかり興味を持っていたのに」  牛が合いの手のように鳴いた。 「何かゾッとしたね。そんな娘を見て」  言葉とは裏腹に叔父さんはにこにこと笑っていた。椿ちゃんが虫のことを愛してやまない大人の女性に育ったのかと勘違いしているようだが、私には容易にその動機が想像できた。 「私も蝶々が好きなんです」 「へー、それは少し意外」 「と言っても、図鑑で見ていただけなんですけど」 「蝶々はね、牛の糞に集まってくるんだよ」  そう言われて、足元の草原を見渡すとそこら中に牛の糞が落ちている。大きくて柔らかそうだ。椿ちゃんも同じことを言っていた気がする。きっと小さい頃に叔父さんから同じように教わったんだと思う。 「ほら、言ってるそばから」  糞の一つの周りを二匹の蝶々が飛び回っていた。飛んでいると真っ赤に見えるけれど、留まった時に見える翅の裏面は黒く、表には潤んだ瞳のような瑠璃色の模様がある。 「ん? アゲハじゃないな」 「クジャクチョウ」  椿ちゃんはきっと、私に見せようとして蝶の幼虫を捕まえてくれたのだ。『きっと』だなんて。こんなに簡単な謎もないだろうが。 「そんな名前だったのか、これ」 「生で見てみたかったから、嬉しいです」 「そうなの?」 「ありがとうございます」 「いや、俺は何もしてないよ」 「いえ、そんなこと」 「あえて言うなら、牛じゃない?」  糞をしたのは牛だった。 「そうかもしれないですね」  その後、私たちは太陽が真上に昇るまで、ずっと無言でクジャクチョウの羽ばたきや瞳から落ちる涙の模様を観察していた。風がひまわり畑を揺らしても、牛が近くで反芻を始めても、その静けさは崩れることがなく、何だか小さな子供の頃に戻ったような、とてもゆっくりとした時間の流れ方だった。クジャクチョウの羽が空気を切る小さな音が、唯一、時を刻んでいた。 「あー、そういえば午前中にもう一仕事あった」 「なんですか?」 「パン」 「パン?」 「お腹空いたでしょ?」  そういえば、朝から何も食べていなかった。 「そう。パン屋さんに昼ご飯を買いに行くのも、俺の仕事なんだよね」  叔父さんは幾分か軽くなったヤカンをバギーのバンパーに引っ掛けた。豪快にエンジンを掛ける。 「そしたら、ほら、乗って!」  腹の底に低音が響く。驚いたクジャクチョウはひらひらと飛び去った。  ○  バギーに揺られ、一本道をどこまでも進んだ先に、絵本に出てくるような赤い屋根のパン屋さんがあった。白い壁にはフランス語っぽい店名が屋根と同じ鮮やかな赤色で書かれていたけれど、意味までは分からなかった。店内に入るとバターの甘い香りが満ちていて、木彫の床からは焼きたてのパンの温もりが伝わってくる。大きなバスケットが幾つも並んでいて、それぞれに違う種類のパンやドーナツが入っていた。それぞれのバスケットにはパンの名前と値段の書かれたポップが付いている。レジの下のショーケースには幾つかのケーキと焼き菓子が並んでいて、それらにも一つ一つ、名前と値段が付けてある。私は何だか図鑑のようだと思った。しかし、このパンとお菓子の図鑑には匂いも温度もあって、どれも丁寧に作られていて、このお店の中で誰かが確かに目の前のパンを焼いたのだと思うと、ほんの少し幸せな気持ちにさせてくれた。  他の本と違って、図鑑は本来、その本に書かれた文字や写真や絵だけで完結していない。この世の森羅万象に名前を付けて、分類し、これまでの研究で分かったことを完結にまとめている図鑑は現実の世界と完全にリンクしていて、私達の思索が紙の上で完結することはない。実際に見た虫の名前を調べたり、庭に生える葉っぱの形の意味を考えてみたり、それそのものが人を楽しませることはなくとも、その図鑑と密接に繋がっているもの達が背中を押して、快適な部屋の中から夏の空の下へ向かって走り出す脚を軽くしてくれる。  私は今、自分が本当に好きなものを、自分で探すことができる。自分が知りたいと思ったことを、自分で観察することができる。母が私にこんなにもたくさんの図鑑を持たせた意味が少し分かった気がした。私がここで見たり、聴いたり、食べたり、嗅いだり、触ったりするものを、それらがこの世界に存在する意味をちゃんと理解できるように、母は私から物語の世界を奪い、分厚い図鑑を持たせたのだ。窓の外にだって私が愛する物語があると信じて。  例えば、このパン屋さんの赤い屋根やバターの香りのように、甘い物語があると信じて。  ◯  これまで私を形作ってきた数々の本も、親も、周りにいたクラスメイトも、椿ちゃんも祖母も叔母さんも叔父さんも、結局、真夜中の部屋から私を助け出してくれることはなかった。助けなかったというか、私が誰かの心を救うことができないように、どんなものも誰かの心を動かすことなんて本当はできないのかもしれない。その代わりに、彼らはずっと扉を開けてくれていた。こっちにおいで。あっちに行ってみよう。今生きているこの世界には美しいものや心地よいものがたくさんある。それを確かめに行こう。そうやって私の部屋から繋がる無数の扉を開け、今もまだ待っていてくれている。扉の先に広がる暗闇に怯えて、うずくまっていたのは自分自身だったのだ。そして、その暗闇すら、自分自身で作り出しているものだ。小さな頃、明るい部屋から見つめた窓の外の夜のように。薄暗い牛舎の中に未知の世界が広がっていたように。扉の先の暗闇は自分の身体から出る光によってできた影に過ぎなかった。  光源にどうしようもなく惹かれる虫達とは逆に、人間は暗闇に向かって突き進んでいく。知らないものを知りたいという欲望が私達を生まれつき支配している。見たことないものを見たい。聴いたことのない音を聴きたい。どんな小説家も描けなかった物語を生きてみたい。この宇宙の果てには、一体、何があるのだろうか。もし、それらを見つけたとしても、その遙か先に向かって、私はまた船を走らせるだろう。扉を開けて暗闇に分け入る彼らの声が私を勇気付ける。 「闇の方へ! 闇の方へ!」  椿ちゃんは言った。 「今夜は星を見に行こう」  私は椿ちゃんのことを自分にとって都合の良いお助けキャラか何かかと思っていた。毎日一緒にお菓子を食べながらくだらない話をして、苦しい時には知恵と勇気で私を導いてくれる。そんな登場人物の一人にしてしまっていた。奈落の底から私を助け出してくれる、頼れる美人のお姉ちゃんみたいに感じていた。けれど、それは違った。あの星空の下まで私は、だるく重たい自分の脚で歩いたじゃないか。この棒切れのような自分の脚で。この世に数多存在する本の中で生きる主人公のように。どんなに辛くて苦しい状況でも、どんなに馬鹿で、弱く、ださい自分であっても、自分の力で進んで行くしかないのだ。長いこと座り込んでいた私だったけど、とうとう堪忍して立ち上がることにしよう。 「怖いなぁ」  そう独り言を言いながら、歩く。きっと、椿ちゃんは待っている。 「辛い」  黙れ。 「だるいよ」  うるさい。 「もうやめたい」  勝手にしろ。  そんな愚痴ばかりが口から出てくるけれど脚だけは黙々と動かさないといけない。太ももを高く上げ、ふくらはぎで足を振り上げる。頭だけでなく身体も動かさないと、日々生きていくために目の前に積まれた仕事の山は片付かないのだから。鈍臭い私はどうにかこうにか扉を抜ける。脚がもつれて、転がりながら、どこまでも格好悪く、それでも、自分自身の筋肉で。  本が好きだ。とりわけ、物語が好きだ。だから、人間が好きだ。つまり、底の見えない暗闇が大好きなんだ。見えないからこそ、私はそこに向かって歩き出せる。  扉の先、満天の星空の下で、私は涙を流さずに泣いていた。心の中に雨が降っていたのだ。腹の底に溜まった雨は身体を巡る血潮に触れ、やがて、ぼこぼこと沸き上がって白く蒸発する。心の奥から湧き出る情熱が雨水を更に熱して、とうとう赤く燃え上がる。夜空は炎を照り返し、菫色の朝になった。  ○  少し大きなつなぎに着替え、部屋を出る。バスケットから小さなクロワッサンを取って齧ると、じゅっとバターが染み出してくる。ぶかぶかの長靴で朝露に濡れた牧草を踏みしめて、眠る巨人のような牛舎の中に入る。薄暗い中、大きな牛達がそれぞれ好きに鳴いている。アズキと仔牛達に挨拶をする。 「あら?」  叔母さんは言う。 「何だか楽しそう」  ガラガラと牛舎のシャッターを開く音がする。強烈な朝の陽射しの中に乾草の切れ端がふわふわと飛んでいる。叔父さんと一緒に椿ちゃんが眠い目を擦りながら、脚だけはてきぱきと牛舎の中に入ってくる。  叔父さんが言う。 「今日も早起きかい?」  椿ちゃんは驚いていた。大きな目が丸くなるほどパチパチさせて私を見た。 「すごいね」  そう言って、糸目になってあははと笑った。信じられないくらい嬉しくて、私もただ笑った。    (了)
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