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八雲
足元から立ち昇ってくるふわふわと漂うピンク色の靄が何かに突き押されて時々波を立てている。
吐く息は白いのに寒くない。
どこにいるのか……感覚としては当然知っているのに、どこだ?と問われると答えられない。
柔らかい靄の中からリン……と涼やかな鈴の音が聞こえて……
振り向いた。
誰かがいる。笑ってる。
よく知っているのに……どうしても見えない懐かしい笑顔がふわっと浮かんで……ゆらゆらと霞んで靄の中に溶けてしまう。
これは夢だと知っている。
目を覚ます直前……現実と夢想の狭間、微睡む起き抜けによく見る夢だった。
遠い日の記憶なのか、何があったのかは覚えてないがいつもぽわんと胸が暖かくなり幸せな気分になった。
唐突に薄れていく夢の世界から離れたくない。
羽根布団に深く潜り体を丸めると……もう起きているのに、もう一度リンッと聞こえた鈴の音に呼ばれたような気がして、ゆっくりと目を開けた。
暖かい布団からもそりと顔を出すと、部屋の中だというのに息が白い、カーテンを締め忘れた窓から目を刺すような陽の光がサンサンと差し込み、凍った硝子がキラキラと光っていた。
「ああ……最悪…今日朝イチで体育だ…」
夢に酔った頭がスッキリしない。ふわふわした感触が足に残っていて立ちたくない。
ベッドから出たくないのに……時計を見るともういつもより10分は遅れてる、上手い事インフルエンザにでもかかってればいいのに……と、頭を振ってみたが残念な事に頭痛の兆しはない。
諦めてベッドから脚を出した。
君継の通う県立森繁高校は学校までの距離に関係なく全校生徒が自転車通学をしている。
高校に入学した時に買ってもらった君継の自転車は川に落ちて沈んでしまった。もう一台、母の知り合いに譲って貰ったが、それも丁度2週間前、電柱にぶつけてタイヤがへしゃげた。
当然だが3度目なんか無い、何だか学校に行く気になれなくてフテフテと歩いた。
家から学校までは直線で結ぶと2キロぐらいしかないが、途中にある小さな森が行く手を阻み、迂回すると倍の距離になる。
その「森」に足を踏み入れてはいけない。
「守らないけどね」
昼間でも暗い森は普段から人気も無く、育ち過ぎた大きな木と下草が繁っている。幽霊が出るとか首吊り死体がぶら下がっているとか。
出所不明の噂も山程あるけど、小5の時に同級生の広斗と一緒に探検してみると、そこは神秘を纏った怪しい森などでは無かった。
深いと思っていた木々はすぐに途切れて、森に入ってすぐ、五分も歩いてないのに木立の隙間から隣の街が透けていた。
一番最初に目に付くのはしけた田舎のラブホテルだ。
足元には人の往来を示す踏みしだかれた道が出来てるし、一本だけ生えている桜の木が自らの体液を抱えているような野良沼はコンビニ産のゴミが浮いていかにも普通。
誰がそんな所にのんびり座ったりするのか、沼の前には古いベンチと錆びついた街灯が一つある。
何がバケ森だ、立ち入るなだって?
つまりは木立が隔てた町の反対側にあるラブホテルや飲み屋に近寄って欲しくないから、大人達が結託して風紀に気を張っていただけだった。
葉の陰に潜む未知の生き物も木陰から見下ろす赤い目も何も無い、幽霊もお化けも息をする死体も一つ年を取るごとに消えていく。
高校生になった今は世の中の不思議などアニメと小説の中にしかいない。
「現実なんてこんなもんなだよな」
沼の横でトレーニングウェアで身を固めたハイパーなお爺さんとすれ違った。
「何が危ないんだよ」
一跨ぎで木に埋もれた向こう岸まで行けそうな小さな沼……もうただの泥の溜まった水溜りに薄い氷が張っているくらい。石を拾って放り投げると砕けて霧散した。
ついでだから桜に向かって石を投げると、巣でもあったのか烏が警戒して騒いでる。
烏は結構怖いのだ。
敵とみなされる前に森を抜けてのろのろと歩いていると、チリンチリンとベルの音が近づいて来て振り返る間も無くビュッと自転車が追い抜いて行った。
「深森!お前のんびりしてたら危ないぞ!」
ハンドルにがぶり付く立ち漕ぎでペダルをフル回転させているのは同じクラスの深山だ。振り返って向かう先を指差してる。
「え?もうそんな時間?」
君継は携帯も腕時計も持っていない。
高校の門まで続く緩坂を走っていく深山の他にも何台かの自転車がフルスピードで走ってる。
遠くに見える学校の校門では生徒指導の山下が分厚い胸を膨らませ、大声でカウントダウンをしていた。
「20秒前!19!18!……」
偏差値50前後の何もかもが平凡な生徒が集まっている森繁高校は悪い奴もいなければ特別優秀な奴もいない、その代わりに健全な高校生活を求めて"時間厳守は社会の規範"と遅刻には異常に厳しい。
「やば……」
君継は弁当以外何も入ってない軽い鞄を深く肩に掛け直して走り出した。
足には自信がある、陸上部に入ってもそこそこやれるとは思うが、意味も無く走るのは嫌いだ。同じクラスの福田がしつこく誘ってくるが断っていた。
校門までは約100mくらい。ぼうっとしていたせいで山下の秒読みはもう10秒切ってる。
つまりはオリンピック選手だってもう間に合わないって事だ。辿り着く前にゼロを刻んだカウントダウンと同時に3人の教師が重い門を勢いよく転がした。
門が閉まった時点で敷地の外にいたら負けなのだ。
狭くなっていく間口ではどっかの国で配給食糧を取り合う暴動みたいになってる。
そりゃみんな必死。
遅刻の罰則は元より、3回遅刻が貯まると親の呼び出しを食らい内申書を持ち出して脅される、何が何でも遅刻したく無いギリギリ組が自転車を無理矢理捩じ込んで小競り合いになるのはいつもの事だった。
教師たちは何をそこまでムキになるのか知らないが、怪我人が出ようが知ったこっちゃないと、力技で閉めようとしている門には挟まった自転車でもう隙間が無い。
「君継!!」
門の中から広斗が手を振っていた。
「広斗!これ頼む!!」
投げた鞄を追って鉄の門に手に飛びついた。
鉄柵の高さは169センチの身長と同じ位、門の天辺に手を付いてトーンッと跳ねた。
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