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「兄さん、帰るの?なら俺も一緒に帰るよ」
海添 祐(カイゾエ タスク)は背後からかけられた声にしかめっ面で振り返った。
予想通り、そこには自分より頭一つ背の高い弟が、笑みを浮かべて立っている。
自分の二つ年下の弟、海添 祐馬(カイゾエ ユウマ)に向かって祐は舌打ちして睨みつけた。
祐がこの男を毛嫌いしていることを、祐馬も自覚しているくせに、こうやってしょっちゅう話しかけてくる。
わざわざ同じ大学に進学してくるなんて、本当に腹が立つ。嫌がらせのつもりかよ。
祐がそんなことを考えながら「誰がお前となんか帰るか」と返そうとしたその時、第三者の声がそれを遮った。
「祐馬君。ちょっと話したいことがあるんだけど」
祐馬の後ろに視線を向けると、ピンク色のワンピースを着た女の子が顔を真っ赤にして祐馬のトレーナーを掴んでいた。
ちっ。またかよ。
祐の眉間の皺がますます深くなる。
子供の頃こそちびで女の子に間違えられるような容姿だった祐馬だが、小学校高学年辺りからめきめき身長を伸ばし、祐はあっという間に抜かされてしまった。
涼やかな容貌で、人当たりの良い祐馬は、女子からの人気も高く、そのモテっぷりは知りたくもない祐の耳にも届いていた。
「ごめん。話なら今度でもいいかな?俺、これから兄さんと…」
あり得ない理由で女の子の頼みを断ろうとする祐馬に、祐は呆れた視線を向けた。
「いいから、行ってやれよ。大事な話なんだろ」
祐がそう言うと、女の子は目を見開き、こちらに向かって小さく頭を下げた。
そんな二人に背を向けて、祐は歩き始める。
数歩、踏み出したところで振り返り、口を開いた。
「でも、期待しない方がいいよ。そいつブスは嫌いだからさ」
にやりと笑って女の子に言うと、名も知らない彼女の顔が歪んだ。
両手で顔を覆い泣きはじめた女に対して、祐馬が必死にフォローしている。
馬鹿らしい。
そんな感想を抱きながら、祐は耳障りな泣き声から遠ざかるために歩調を速めた。
バイトを終えて帰宅すると、玄関に祐馬の靴はなかった。
あの女の告白が上手くいって、今日はあいつ帰ってこないつもりかもな。
祐馬がどこで何をしようと祐は興味はなかったが、家の中に大嫌いな弟がいないと分かるだけで、気分が良かった。
居酒屋で週6日アルバイトをしている祐だが、今日は金曜のせいで、客の入りが多く、賄いを食べる暇もなかった。
流石に腹が空いたなとリビングに顔を出すと、机の上にラップをかけたキムチチャーハンの皿が置かれていた。
ラッキー。
温めるのも面倒で祐はラップを剥がすと大口を開けて、チャーハンをかきこんだ。
腹が減っていたせいで、10分も経たずに、皿が空になる。
冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、グラスに移し替え飲んでいると、玄関から「ただいま」と言う祐馬の声が聞こえた。
とたん祐の表情は険しくなった。
グラスと皿を流しに放りこむと、自分の部屋に戻ろうとした。
しかしそれより先に祐馬はリビングに入って来て、祐と祐馬はリビングの入り口で向き合うような態勢になってしまった。
「兄さん。帰ってたんだ」
昼間あったことなど、全て忘れたように微笑みながら祐馬が言う。
「どけよ。でかいから、邪魔」
そう言って祐が祐馬の脇をすり抜けようとした瞬間、母親の声が聞こえた。
「祐馬、帰ったの?」
リビングに顔を見せた母親と目が合い、祐は露骨に視線を逸らした。
「やだ、祐。チャーハン食べちゃったの?祐馬のためにとっておいたのに」
「悪かったな。勝手に食って」
非難するような母親の声に、祐も険のある言い方で返した。
「だってあんた、夕飯はバイト先で食べるからいらないって、いつも言ってるじゃない」
母親がイライラしたように流しに置かれた食器を見て言う。
「母さん、俺、実は外で友達と食べてきたんだ。だから腹は減ってな…」
そう慌てて言う祐馬の声に、腹の虫がグウとなる音が重なる。
「ははっ」
鳴った腹を抑えながら、祐馬が気まずげに笑う。
「待ってなさい。今、チャーハンとスープ作ってあげるから」
母はそんな祐馬を見てくすりと笑うと、鼻歌まじりに、キッチンへと入って行った。
「あほみてぇな茶番だな」
ぼそりと呟き、祐は自分の部屋へと向かうため、階段を上り始めた。
「兄さんっ」
自分を呼ぶ祐馬の声はいつも通り無視した。
祐はベッドに寝転がり、天井を見つめた。
両親は昔から露骨に祐より祐馬を可愛がった。それを指摘すると、両親はそんなことはないと毎回わざとらしいほど否定したが、祐はその言葉を素直に信じることはできなかった。
だって母さん達の態度が変わったのは、あれからだ。
俺が誘拐されて戻ってきたあの日から。
祐は8歳の時、近所の大学生達四人に誘拐されたことがあった。
犯人は公園で遊んでいた祐を誘拐し、自宅の離れに監禁した。
計画性のない場当たり的な犯行だったおかげで、三日後離れに突入した警官によって祐は救い出され、犯人は逮捕された。
たかが三日。
それでも8歳の子供にとって、その事件は心に重くのしかかった。
助け出された時、祐は誘拐されてからの三日間に起きたことを全て忘れていた。
それからだ。
両親の態度が一変し、祐馬ばかりを可愛がるようになったのは。
近くにあった枕をぎゅっと抱えると、祐は目を閉じた。
誘拐された息子が汚れていると、薄気味悪いと感じるならはっきりそう言えばいいのに。
脳裏に母親の祐馬にむける柔らかい笑みが写る。それは祐には絶対に手に入れることができないものだった。
唇を噛むと、祐は深い息を吐いた。
「ほら、怖くないから。気持ちいいことしかしないよ」
「そう、君が大人しく言うことを聞いてくれたら…そうしたら彼は無事に…」
大きな掌がこちらにむかっていくつも伸びてくる。
「はっ…ああ、あああ」
祐は勢いよく上体を起こし、辺りを見回した。
「夢か」
どうやらあのまま風呂にも入らず寝てしまったようだ。
季節は半袖でちょうどいいくらいなのに、祐の腕には鳥肌が立っていた。
目覚めの気分は最悪だったが、今日は落とせない授業が一限からある。
祐はため息をつくと、さっとシャワーを浴び、駅に向かった。
外は快晴で、祐の白い首筋にじりじりと太陽が照り付ける。
まだ六月でこの陽気。一体、今年の夏はどうなってしまうのだろうと、暑さが苦手な祐は眉を顰めた。
「兄さん」
後ろから呼ばれ、振り向くと、笑顔の祐馬が立っていた。
わざわざ祐を追いかけ、走ってきたのだろう。祐馬の息は乱れ、首から汗が幾筋も滴っていた。
「大学行くんだろ?一緒に行こう」
祐は先ほどより、眉間の皺を深くすると、前を向いた。
「嫌だ。俺、お前のこと嫌いだもん」
もう何度も告げていた言葉だったからか、祐馬は特段驚いたりはしない。微笑みながらこ後を付いてくる祐馬に、祐は舌打ちした。
両親に愛されて育ったせいか、祐馬は誰にでも平等に優しい。だから友人も多い。それとは正反対に祐は気難しく、辛らつな言葉を平気で吐くため、友達と呼べるような相手はほとんどいなかった。
祐は、一方的に祐馬のことを妬んでいた。
俺だって、あんなことさえなければ、お前みたいに。
向日葵のような笑顔を浮かべる祐馬を睨みつけると、祐は目の前に着た急行に飛び乗った。
祐馬も祐の背後にぴったりと寄り添い乗車する。
この時間、祐の使う電車は混雑のピークだった。乗車率130パーセントといわれる車内で祐馬はドアに祐を押し付け、かばうようにその前に立っていた。
「おい、ちよっと離れろよ」
祐の言葉とは逆に、祐馬は片腕をドアにつくともう片方を祐の腰に回し、更に体を密着させた。
「そんなこと言われたって、こんな混んでちゃ無理だよ」
祐の腰に回していた腕に、祐馬は力をこめた。
「兄さん。痩せた?バイトのし過ぎで、疲れてるんじゃない?」
頭上から降ってくる祐馬の声を無視し、早く駅に着けと心の中で祐は呪文のように唱えた。
「今日も、須崎さんとレポートやってくるの?」
「何でお前がそんなこと知ってるんだよ」
予想もしない問いかけに、ぎょっとした祐は思わず答えていた。
「大学の図書館で、兄さんが彼女と一緒なの何度か見かけたから」
祐のゼミでは、生徒何名かでグループを作り、発表する授業がある。
祐の毒舌を知っているゼミのクラスメイトは誰も祐と組もうとしないが、唯一彼女だけは嫌がらず、祐とペアになってくれていた。
誰にも言うつもりはないが、彼女と過ごす図書館での時間を祐は心地よいと感じていた。
「好きなの?彼女のこと」
祐のそんな思考を断ち切るように、温度のない声で祐馬が問う。
「お前には関係ない」
お決まりの台詞を口にすると、祐を強く抱きしめたまま、祐馬がそっと耳元で囁いた。
「合わないよ。彼女と兄さんじゃ」
祐はその言葉を理解すると、顔を真っ赤にして、思い切り祐馬の胸を両手で突いた。
ちょうど二人の体が離れた瞬間、大学の最寄り駅に電車が滑り込むところだった。
「余計なお世話なんだよっ」
先に降りた祐が、未だ車内に取り残されている祐馬に向かって怒鳴る。
そのままホームを走って改札を抜けた祐を、祐馬は追いかけては来なかった。
「あっ、祐君。こっち」
授業後、待ち合わせた図書館の学習コーナーで須崎佳織(スザキ カオリ)が手を振っていた。
祐はその姿を見ただけで、つい緩みそうになる表情を無理やり仏頂面へと変えると、彼女の前の席に腰を下ろした。
「資料の本、借りられた?」
祐の問いに、肩で切りそろえられた黒髪と同じ色の凛々しい眉を、佳織はそっと寄せた。
「ごめん。もう他の子が借りていて、返却、二週間後だって」
「そんなことだろうと思った。ほら」
祐は背負っていたリュックから、分厚い本を三冊取り出し、机に置いた。
「わあ、どうしたのこれ?」
「昨日、たまたま行った図書館で見かけて。借りておいた」
「ありがとう。さすが祐君。頼りになるなあ」
大げさなくらい感謝されると、暑い中図書館を三軒もはしごした甲斐があったと、祐は心の中でガッツポーズを決めたが、実際はポーカーフェイスを装いつつ「大したことない」と言っただけだった。
「じゃあ、とりあえず、お互いの役割分担したとこ、確認しようか」
佳織にそう言われ、書いてきたレポートを交換して読み始める。
その間も祐は、ちらちらと目の前の佳織に視線をむけた。
化粧気のほとんどない顔に清潔な黒髪。
ストライプのシャツワンピースにカーディガンを羽織った佳織の今日の服装を、祐はとても可愛いと思った。
しかしそういう思いを素直に口にできない祐は、ただじっと佳織を見つめているだけだった。
視線を感じたのか、ふいに佳織が顔を上げる。
「早いね。もう読み終わったの?」
微笑みながらそう言う佳織に見つめられ、祐の顔は赤くなった。
「佳織が読むのが遅いせいで、待ちくたびれた」
早口で祐がそう言っても、佳織は、怒ったりはしない。
「ごめん。もうちょっと待って」
佳織はそう言うと、慌てて祐の書いたレポートに再び目を落とした。
本当はこうやって佳織のことを眺めている時間が、祐はこの上なく好きだから、いくらかかってもいいのに。
「早くしろよな」
しかし素直じゃない祐の口からこぼれたのはそんな言葉だった。
図書館から二人揃って出たのは、まだ明るい時間だった。
「コーヒーでも飲まない?」
決死の思いでそう誘った祐に、佳織は肩を落とした。
「ごめん。これからバイトなんだ」
「そう」
ショックで素っ気なく答える祐に、佳織が申し訳なさそうに言い募る。
「本当、誘ってくれたのにごめん。また今度絶対、ね?」
そう言う佳織が今にも泣きだしそうに見えて、祐は「ぷっ」と吹きだした。
それをみて佳織も、ほっと表情を緩める。
正門で佳織と別れたあと、祐は大きなあくびを一つした。
昨日もバイトで深夜まで働き、今日も授業のため朝早かったせいで、こんな時間なのに、眠気が襲う。
とりあえず、家帰って少し寝よう。
珍しくバイトがないせいで、たまには家でゆっくりするかと、祐は駅に向かって歩き始めた。
暗い部屋の中で何人かの男の笑い声が聞こえる。
男達は皆、とてつもなく大きく見える。それは祐が今よりもっと小さいからだ。
「ほら、よく見ていなくちゃ」
「目を逸らしちゃ駄目だよ」
祐が俯きそうになると、隣の男が顎を掴んで祐の顔を上げた。
目の前には白い大きな物体。
あれは……人?
「兄さんっ」
耳元で焦った声が聞こえる。
祐は何度か瞬きを繰り返し、声のする方に顔を向けた。
祐馬が祐の上半身を抱きかかえていた。
「大丈夫?部屋の外まで聞こえるくらいうなされてたけど」
「祐馬、俺…」
めったに呼ばない弟の名を呟き、祐は軽く頭を振った。
少し落ち着くとここが自分の部屋のベッドの上で、大学から帰って来て少し眠るつもりで横になったことを思い出した。
心配そうに自分の顔を覗き込む祐馬と目があった途端、祐はその腕の中でもがいた。
「勝手に部屋に入るなって言ってるだろ」
そう怒鳴ると、祐馬は簡単に祐の体を離した。
「水、持ってこようか?」
ベッド脇に立ち、そう言う祐馬に祐は首を振った。
「いい」
祐馬はそれ以上しつこくはせずに、こちらに背を向けた。
「お前さ」
祐に話しかけられて、祐馬が振り返る。
「いや、何でもない」
祐がそう言うと、祐馬はこくりと頷き部屋から出ていった。
あれから犯人たちが全員捕まったこと以外、両親は祐に事件のことを話さずに、新聞やテレビなど事件の報道がされているものは、一切、祐の周りから遠ざけた。
祐の退院後すぐに引っ越したせいで、被害者という扱いを受けないのは良かったが、事件のことを聞ける相手は祐の近くにはいなかった。
それでもネットを使えばすぐに祐の誘拐された細かい経緯や、犯人のことを調べることができただろう。
しかし祐は断片的に思い出す事件の記憶に恐怖で怯え、今までそれができなかった。
「いつかはちゃんと知らなきゃいけないことなんだろうな」
祐が誘拐された三日間の記憶。
それを取り戻さなければ、祐はいつまでも自分は過去に捕らわれたままだと思った。
翌日リビングに降りると、祐馬が一人、トーストを齧っていた。共働きの両親はもう仕事に出かけたのだろう。
「にっ、兄さんの分も焼こうか?」
祐が祐馬と一緒に食卓を囲むことなど、ここ最近ほとんどなかった。
目の前に座る祐を見て、祐馬が慌てたように立ちあがる。
「いいから、座れよ」
祐馬が腰掛けたのを見て、祐は目を伏せ話し始めた。
「お前さ、あの事件のことどれだけ知ってる?俺が誘拐された時のこととか覚えてる?」
祐馬がごくりと唾を飲み込む音が静かなリビングに響く。
「どれくらいって」
なんと答えればいいのか分からないという風に、祐馬も視線を落とした。
「俺、あの時起こったことをちゃんと思い出したいんだ。だから協力してくれないか?」
顔をあげ、祐は祐馬に訴えた。
ネットや新聞の記事では、事件の詳細までは分からないだろうし、憶測で書かれた記事を読んで、真相を知った気にもなりたくはなかった。
だからと言って直接犯人に話を聞きに刑務所に出向く勇気のない祐は、祐馬に答えを求めた。
両親は祐が、記憶を取り戻すことに反対だった。そのために住み慣れた土地を離れたほどだ。祐が事件のことを思い出そうとするのを快く思わないだろう。
しかし祐に甘い祐馬なら願いを叶えてくれる気がした。
「なんで急にそんなこと知りたいと思ったの?」
ふいにひやりとした声が聞こえた。
言葉を発した祐馬の目は驚くほど冷たかった。
「須崎さんのせい?」
そう祐馬に問われて、祐はうろたえた。
確かに祐は彼女に惹かれていたが、祐馬には先日、似合わないと言われたことを思い出した。
しかし過去を乗り越え、強い自分になりたいと思った祐は、逡巡しながらも頷いた。
途端、祐馬の眼差しが余計きついものとなる。
「好きなの?」
そう聞かれて、祐はそれも頷いた。
いつもなら「関係ないだろ」というところだが、協力を依頼しているという立場もあって強くでれなかった。
「彼女と付き合ったら、誘拐のことも全部話すつもり?」
「それは、分からないけど、彼女ならどんなことでも受け止めてくれるような気はしてる」
なんでこんな話になるんだと思いながら、祐がそう言うと、くすりと笑う声がした。
顔を上げると、祐馬が整った顔を歪めて笑っていた。
「本気でそんな風に考えているの?無理に決まってるじゃない。三日間変態に弄ばれた男とまともに付き合おうと思う女なんているわけ…」
気がついたら祐はテーブルを乗り越えて、祐馬に殴りかかっていた。
「最低だな。お前なんかに相談するんじゃなかった」
殴られた口の端を抑えながら表情の乏しい祐馬を、祐は睨みつけ、そう言い放った。
すぐにリビングから去ろうとする祐の背に「ごめん」と呟く祐馬の声が聞こえたが、祐は何も答えなかった。
ゼミの発表も無事終わった日の夜、「二人だけでお疲れ様会しない?」と佳織からメールのきた祐は有頂天だった。
慌ててバイトの店長に風邪を引いたから休むと連絡を入れ、待ち合わせの駅前で佳織を待つ。
佳織が指定した駅は夜景が綺麗なことで有名な場所だった。
皮のトートバッグを肩にかけた祐は落ち着かない様子で辺りを見回した。
バックの中には先ほど薬局で買った避妊具が入っている。
いや、絶対使わないことは分かっているけど。一応、一応な。
そんな自分自身に心の中で言い訳しつつ、祐は佳織の到着を待っていた。
「お待たせ。祐君」
背中を叩かれ振り返ると、そこにいたのは佳織と祐馬だった。
目を見開く祐の前で、佳織がにこやかに微笑む。
「喧嘩して兄貴が口きいてくれないから、仲直りするの手伝ってくれって、祐馬に頼まれちゃって」
そう言う佳織の肩を抱き寄せ、耳元で祐馬が囁く。
「佳織さん本当にありがと。このお礼は必ずするから。そうだ、この前見たがってた映画行こうか?おごるよ」
「ええ、良いの?でもこの前も夕飯おごってもらったし」
「いいんだよ。俺がそうしたかったんだから」
そう言って笑顔を浮かべる祐馬の顔をぽうっと赤らんだ頬の佳織が見上げる。
色恋沙汰に鈍い祐でも一瞬で理解した。
佳織は祐馬に惚れている。
それに気づいた祐は踵を返すと、速足で歩き始めた。
「ちょっと、兄さん。佳織さん、じゃあまた」
祐馬が祐の隣に並び、言う。
「兄さん。この前は本当にごめん。俺、話したいことがあって」
「俺はないっ」
そう言う祐の両肩を祐馬が強く掴んだ。
「知りたかったんだろ?誘拐事件の真相」
祐馬の言葉に、祐がびくりと体を震わせる。
「教えてあげるよ。兄さんが知らないことも、何もかも」
そう言うと祐馬は満面の笑みを浮かべた。
「ホテルに部屋とってるんだ。こんな話、人に聞かれたくないだろ?家も親が帰ってきたらまずいし」
そう言いながら、祐馬は祐が逃げないように、肩を抱いたまま、少し歩いた先にある高級そうなホテルに入っていた。
「話だけなら、ビジネスホテルとかでいいだろ?」
フロントでルームキーをもらった祐馬とエレベーターに乗り込みながら、祐は言った。
「駄目だよ。今日は記念日なんだ」
祐馬はそう言うと綺麗に口角を持ち上げた。
「兄さんが真実を知るさ」
先ほど、佳織に間接的に振られた祐は正直誘拐事件の真相などどうでもいいような気持にもなっていた。
祐馬が強引だから付いてきてしまったが、今は振られた原因ともいえる弟と一緒にいるような気分ではなかった。
それにどこか陶酔したような雰囲気の祐馬も気がかりだった。
部屋に入ると、祐馬は背負っていた黒いリュックをベッドに下ろした。
中から分厚いファイルを取り出し、祐に手渡す。
「これ俺が事件の新聞記事をまとめたもの。読んでみて」
そう言われて、手の中にある物が重さを増したような気がした。
祐はごくりと唾を飲む。
「それとも、やめとく?」
馬鹿にしたような祐馬の笑顔に腹が立ち、反射的に祐は首を振っていた。
知りたいと、自分が思ってきたことがここにある。
大きなベッド脇にある、座り心地の良い椅子に腰かけ、祐はファイルを開く。
切り抜かれた記事のタイトルに祐は目が釘付けになった。
「なんだよ、これ……」
そこには「誘拐された兄弟、二人を保護」の文字がでかでかと躍っていた。
カチャリと音がし、顔を上げると、祐馬が祐の前にコーヒーのカップを置くところだった。
「なあ、なんでこの記事、俺だけじゃなく、祐馬まで誘拐されたみたいに書いてんの?」
祐馬は目を細めて祐を見た。
「みたいじゃなくて、俺も誘拐されたんだよ。思い出せない?」
そう言われて、ふいに脳内に映像が溢れてくる。
そうだ、俺、公園で祐馬と遊んでいた…。
「あの日、俺は何度も暗くなったから帰ろうと言った。なのに兄さんは、貸していたゲームを友達が返しに来るからって、公園から出ようとしなかった」
祐馬の淡々とした声に、少しずつ祐の記憶の蓋が開いていく。
「大学生に抱えられて無理やり車に乗せられたよね。あっという間だった」
そうだ。大きなワゴンに乗せられて、物置みたいな離れに連れて行かれたんだ。騒ぐと殺すと言われ、何も抵抗できなくて。
「あの時、俺があいつらと取引したのも覚えていない?」
祐は目を閉じ、奥歯を噛みしめた。
犯人たちは祐を見て育ちすぎだと言った。これじゃあ可愛くないと。
そのタイミングで祐馬が言ったのだ。
「僕が何でも言うことを聞くから、お兄ちゃんに乱暴しないで」
犯人たちは祐馬の条件を呑んだ。
祐馬の体は三日間弄んだが、祐には性的なことは何一つしなかった。
「俺が犯人に犯されて、口にも咥えさせられてる横で、兄さんそいつらから貰ったコンビニのおにぎり普通に食ってたよね」
くくっと祐馬が笑い、祐の顔が強ばる。
「あれは、違う。違うんだ」
「何が、違うんだよ。俺がお兄ちゃんって伸ばした手を、あんたは払い落としたじゃないか」
祐馬が表情を一変させ、祐を睨みつける。
あれはだって、祐馬の手がドロドロに汚れていたから、汚いと思って。
弟の手を叩いた祐を見て、犯人たちは大笑いした。
兄弟げんかは良くないと、ひどい兄貴だと。
そうはやし立てた。
その光景を思い出し、祐は下唇を噛むと、立ち上がった。
「俺、帰る」
混乱した頭ではそんな言葉しか出て来なかった。
そんな祐の手首を引っ張り、祐馬がベッドに押し倒した。
「兄さんの知りたいことを教えてあげたんだから、今度は俺の願いを叶えてよ」
祐は、上に圧し掛かる祐馬の両肩を懸命に押した。
「いい加減にしろよ。お前の恨み言なら、後でいくらでも聞いてやるから」
両親が祐馬ばかりを可愛がっていた理由もようやく分かった。
祐の身代わりになり、辛い体験を引き受けた祐馬を、両親は可哀想に思い、そのことをすっかり忘れた祐を薄情だと思ったのだろう。
「大体、何だよ。そういうことならもっと早く俺に本当のことを言えばよかっただろ?誰も黙っててくれなんて頼んじゃいない」
祐は上半身を起こし、そう怒鳴った。
「医者が兄さんの記憶を無理に取り戻すのに反対したんだよ。兄さんの心が壊れてしまう可能性があるってね」
そう言って祐馬は祐の頬をさらりと撫でた。
「でもそんな心配いらなかったみたいだね」
ぎゃんぎゃん騒ぐ祐にむかって祐馬がにこりと微笑みかける。
「それで思い出さずにのうのうと生きていた俺を、お前はずっと恨んでたって言いたいのかよ」
祐の言葉を聞き、祐馬がぷっと吹きだす。
「そんなこと言うつもりないよ。そりゃ最初は全て忘れてしまった兄さんに腹を立てたりもしたけど、まあ、仕方ないよね。兄さんは弱くてずるいから」
言い返そうとする祐の首にそっと祐馬が触れた。強い力でもないのに、弟の雰囲気に気圧され、祐はピクリとも動けなかった。
「俺が兄さんを守ったんだ。だから兄さんは綺麗なままでいられた」
祐馬はそう言いながら、祐の頬を撫でた。
祐はその手を撥ね退けようとしたが、逆に祐馬にぎゅっと握りこまれてしまう。
祐馬は祐の首筋にそっと顔を埋めた。
「もう離さないでよ、兄さん」
今握りこんでいるのは祐馬の方なのに。
そう思いながら祐は今にも泣き出しそうな祐馬を見た。幼い祐馬の泣き顔がフラッシュバックし、祐はようやく自分が全て思い出したことを悟った。
「ごめん」
思わず口をついて出た祐の謝罪に祐馬は目を丸くすると、破顔した。
その笑顔は幼い子供の時と全く同じで、気がつくと祐も釣られて微笑んでいた。
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